フェイズ02-1「アスガルド大陸(1)」
ヴァイキング達の次にヨーロッパ人がやって来る西暦1492年までに、新大陸にはヨーロッパとは違った道を進み始めたヨーロピアンによる社会と文明、そして国家が形成されることになる。
新天地でのヴァイキング達による国家の建設は、西暦1352年の事だった。
グリーンランドの壊滅はこの四半世紀ほど後のことだったが、建国の事実は当時のグリーンランドには伏せられ、当然だがヨーロッパの人々が知ることはなかった。
知らされなかったのは、新たな国家を作り上げた人々が、キリスト教社会、ヨーロッパ世界からの決別を意味し、そして新大陸の人々に国家という新たなよりどころを与えるためのものであった。
加えて言えば、ヨーロッパから、どんな言いがかりを、場合によっては侵略を受けるかもしれないという恐怖心があった。
場合によっては、全員が異端や悪魔の使いなどとして、滅ぼされる可能性すら真剣に考えられていた。
中世ヨーロッパのキリスト教には、それだけの恐怖心を植え付けるだけの面があった。
加えて言えば、ヴァイキング達が最後にヨーロッパに行ったとき、その帰りにペスト菌のキャリアーとなる鼠が乗船した事も、ヨーロッパ世界との決別と国家の建設を決意させた。
何しろヴァイキング達も、ほぼ瞬間的に総人口の三分の一が失われていた。
ヨーロッパ世界に対する恐怖による決別と、疫病に対する混乱終息のための国家体制の強化は14世紀後半は急務と考えられていた。
そして最初の国家建設の時、再度入植した年、つまり西暦1050年を自分たちの紀元とする事もある。
この場合「アスガルド歴」と呼ばれ、西暦1950年には900年祭、2000年には950年祭が盛大に行われている。
建国王はトールソン家のハーラル。
正式にはハーラル・アフルレード・トールソンという名を持つ。
アフルレードはケルトの言葉で「妖精の王」を意味し、トールソンとはノルドの言葉で、雷神トール(ソール)の息子という意味になる。
ハーラルという名はノルド系ではありきたりな名で、ノルウェー王にも同じ名が何度も登場するが、改名することもなくそのまま「ハーラル一世」と称した。
彼は再びヴィンランドに至った最初の52人の末裔の一人で、その後ヴァルハラ入植地を最初に切り開いた人物の子孫に当たる。
建国を行い自ら国王なるほどの人物ながら、武勇についての勇名は形ばかりしか残されていないが、人間的魅力と今で言うところの高い経営手腕の持ち主だった。
国の名は「大ノルド王国」。
ノルドとは彼らの発祥であるノルウェー地域の事を指し、単に「北」とか「北部」のような言葉から派生したのだが、彼ら本来の名といえる。
ヴァイキングという言葉は「襲撃者」という言葉が若干変化したもので、彼らがヨーロッパ世界から恐ろしい海賊として見られていた何よりの名残であった。
新たな国の首都は、新大陸東海岸の北寄りにあるヴァルハラ。
神話の都の名を与えられた街は、港湾都市であると同時に北東部牧畜地帯の中核都市として栄えていた。
総人口は、建国時点で50万人程度。
王都ヴァルハラの人口も、都市規模から3万人ほどあったと考えられている。
建国時の王宮や神殿は、お世辞にも立派とは言えなかった。
だが夢は大きく、それを可能とするだけの豊かな大地が、未開拓のまま彼らの眼前に広がっていた。
その後も東部沿岸では、サンネス、ノウム・ガルザル、フヴァルセーなどの入植地は次々に周辺部を拡大し、当時最も南に位置したフヴァルセーの内陸部一帯は、穀倉地帯として開拓が進められていった。
ヴァイキング達が小麦栽培を本格的に始めたのも、フヴァルセー辺りからだった。
沿岸部の開発に平行して、ノルン川を遡った五大湖地帯の開拓も進められ、後に交通の要衝となるミーミルヘイムの入植地も開かれた。
そうして彼らが国土とする地域は、既に彼らの先祖が旅立ってきたスカンディナビア半島に匹敵するほどとなった。
これほど早く開発が進んだのは、彼らの進出先に原住民が極端に少なかったからだ。
しかも一部の地域では原住民が開発して、謎の人口崩壊(疫病)で放棄された開拓済みの土地が残されていた事も、ヴァイキング達の進出を容易なものとした。
そしてヴァイキング達は、そこで新大陸唯一の多産穀物である「トウモロコシ」に出会う。
出会いは13世紀末と言われ、栽培が始められたのは14世紀に入ってからだと言われている。
このためヨーロッパに最初に紹介されたのも、ヴァイキング達がまだグリーンランドに住んでいた時代の末期だと言われることもある。
だが、新大陸の秘密が漏洩する事を恐れたヴァイキング達がそのような危険を冒したとも考えられず、新大陸以外がトウモロコシを知るのはまだ先の事だった。
だがトウモロコシが、ヴァイキング達の新たな食料源となるのは早かったと考えられている。
文献にも14世紀に入ると頻繁に見られるようになっている。
そしてヴァイキング達は、ヨーロッパと連続性のない穀物をとても喜び、豊穣の神「フレイの穀物」とも名付けて、特にトウモロコシの酒を多く造ったとされる。
今でも、羊や牛の乳製品とトウモロコシの酒といえば、というほどの定番だ。
そうしてヴァイキング達の人口はペストなどの疫病による一時的な停滞を除けば順調な拡大を続け、ヨーロピアンが彼らの大陸にやって来る頃には、原住民を含めて300万人に達していた。
一般にヴァイキング達は北の民だと言われるが、中世ヨーロッパ時代のヴァイキング達の最盛時には地中海にも広がっている。
北アフリカに足跡を記してもいる。
この事からも進出の障害として寒暖は特に関係はなく、新世界に進出した人々も段階的ではあったが順次南へと船を向け、そして新たな世界の探索と開発を続けた。
そうして時には戦うこともあったが、鉄の武具を持つ彼らはどこに行っても無敵の戦闘集団だった。
無論ワーストコンタクトばかりではなく、出会った先の原住民と物々交換での交易も行われている。
南の内海の島嶼群では、保存の利くタンパク質食料として固形の乳製品や各所保存肉が非常に珍重され、現地にある多くの貴重品をヴァイキング達にもたらした。
そしてその時の記憶がヴァイキング達に欲望を抱かせ、一層の南部進出へとつながっている。
そうして広がっていった15世紀末頃の王国単体での領域は、北の新大陸の東半分と、中央内海(=エーギル海)をほぼ勢力圏におさめていた。
しかも勢力圏内には、大ノルド王国以外にも自治独立地帯があった。
これらは、初期の頃は単なる入植地だった場所から発展したもので、国家の制度が整うに従って単なる入植地ではなく、切り開いた代表者の領地として貴族の領土として発展していったものだった。
そうした新たな土地は、特に新たな命名基準がなかったため、名称の訳そのものは侯爵領、辺境伯爵領とされた。
しかしヨーロッパでの階級社会と違い、ヴァイキング達の作り出した貴族や特権階級は土地の管理者、代表者、そして守り手であり、支配者や所有者とは言えない存在だった。
古い時代での豪族や血縁集団の代表に近い。
東洋で封建世界を作った日本を例とした場合での、名主や農村領主にも近似値を求めることが出来るかも知れない。
国家の制度自体も、国と王が領地を保証はしても与える形ではなかった。
開いた土地は開いた者のものであり、それを権威を以て保証するのが国家や王であり、その保証代金として税を納める形になっていた。
これは常に膨張する開拓国家であるから出来たことだと言えるだろう。
そうした広大な森林の中に浮かぶ少しばかり開拓された農地にすぎない場所が多い侯爵領、辺境伯爵領だったが、そうした中世ヨーロッパに近い領土形態の自治領や開拓地、入植地が各地に散在し、全てを合わせた人口は400万人に達していたと見られている。
中には、ヴァイキング達と共に生きる原住民の部族(※ヴァイキング到達以前から農耕を行っていたイロコロ族の一部など)もあった。
このためこの頃の社会規模は、ヨーロピアンと再接触する頃には既にヨーロッパ世界全体に対して、二十分の一程度にまで拡大していた事になる。
国家単体でも、イングランドに匹敵する人口規模(=300万人)だった。
そこに住む主な人々は、白い肌を持ち青い目をした北ヨーロッパ系、より厳密にはスカンディナビア系ヨーロピアンの末裔、つまりノルド人だった。
白人の典型と言われる金髪碧眼という場合も、大本の出身地がそうであったようにかなりの割合で見られた。
しかしヨーロッパの人々と違い、古ノルド語の派生言語を話し、ノルド系ルーン文字を改良したものを使い、北欧神話とも言われる神話(ラグナ教)とその神々を敬った。
銃など火薬を使う武器は持たなかったが、鉄の武器、鉄の防具など様々な鉄の武具を有していた。
鉄以外の銅、青銅も使いこなしていた。
金銀については、言うまでもない。
建築技術も、決別した頃のヨーロッパの技術まではほぼ持ち込まれていた。
一部には、独自に発展を見た技術や様式も、既に見られるようになっていた。
数百万の人口を内包する社会だからこそ出来たことだ。
火薬、羅針盤、活版印刷術については、決別前のイスラム社会から一定割合の知識は入手されており、道具として広く使われないまでも無知ではなかった。
生活面でも、牛、馬、豚、羊、山羊など元々ヨーロッパにしかいない様々な家畜を持ち、大麦、ライ麦、オート麦を中心としたヨーロッパから持ち込んだ作物も育てた(※元々の生存圏の関係から、かなりの時期まで小麦は重視されていなかった)。
さらには、原住民によって栽培されていたトウモロコシなど様々な現地の穀物や作物も栽培するようになり、七面鳥と呼ばれる見た目は醜いが非常に美味な鳥も飼っていた。
現地に生えていたヒマワリは、荒れ地でも逞しく育つため貴重な植物油を提供した。
新大陸独自の様々な野菜も育て、北の大陸南部で見つかった落花生は栄養価が高いため携帯食や副食としても珍重された。
落花生は携帯に便利なこともあり、戦士の食べ物と言われたりもした。
最高の甘味を与えてくれるミツバチはいなかったが、蜜楓の樹液が彼らの一番の甘味となった。
なお、蜜楓から採取される樹液の糖度は天然の糖分としては世界で最も高く、「森の滴」「森の蜜」として珍重された。
今日でも蜜楓は、エイリーク王国の国の樹木として愛されている。
またヴァイキング達が樹木に対しても精霊崇拝の名残を残していたので、樹木を敬う感情を高める要素ともなっていた。
そしてヴァイキング達は、人口の拡大と共に新大陸北東部を中心にヨーロッパ文明由来の技術の延長である様式と技術を用いた都市を築き、街道を整備して馬で行き交い、彼らの誇るヴァイキング船で海と川を越えていった。
文明程度は15世紀末のヨーロッパ中心部には劣っていたが、中世ヨーロッパからある程度独自の発展が見られていたため、大きく劣るという事はなかった。
あえて比較するなら、一部最新技術に欠けた東欧又はロシア西部地域とかなり類似していた。
しかし彼らの前に天敵と言えるほどの脅威がないため彼らの探索と拡大は続き、彼らが独自に次のステップへと移行しつつあった頃、大きな変化が海の彼方からやって来る。
西暦1492年、サンタ・マリア号を始め排水量120トンから150トン程度の小型の外航洋帆船3隻を用いて大西洋を横断して「インド」にたどり着いた人々は、驚天動地の事態に直面する。
ヨーロッパ人(白人)が、インドもしくはインドの東にあるというジパングである筈の場所に多数住んでいたからだ。
この時彼らは、現地で見つけた白人達がアフリカ周りかオスマン朝経由でインドに至った人だと勘違いしていた記録が、当時のヴァイキング達の文献から見つけることができる。
しかしコロンブスは、「現地の白人達」とのファーストコンタクトに失敗する。
これはコロンブス達が、恐らくは有利な商取引のため武器で相手を脅そうとしたからだと考えられている。
そして武器を備えた船を見たヴァイキング達は、コロンブス達を「敵」と認識した。
そして数日間ノラリクラリとコロンブス達の相手をしている間に、周辺部から集められるだけの船と男達を集め、周到に包囲し、奇襲攻撃を行った。
そして一部を情報収集のための捕虜とした以外、残らず全滅させてしまう。
コロンブスも捕虜とされ、その後は生涯ヴァイキング達に情報を提供させられたと考えられている。
ヴァイキング達は、自分たちがキリスト教を棄てたため、いつの日にかヨーロッパから討伐や改宗を求める人々がやって来るのではないかと疑っていたのだ。
このためヴァイキング達は、原住民と戦いつつも武力を蓄える努力を重ね、人口を増やすための努力を行っていた。
またヴァイキング達は、近いうちにヨーロッパから本格的な探査艦隊が来ることをコロンブスが来る前から予見していた。
15世紀になると、ヨーロッパのイングランドやバスク地方の漁民達が、鱈を追いかけて大西洋の沖合に出て、ヴィンランド島沖合の海域(ヴィンランド堆)にまで出没するようになっていたからだった。
同海域はヴァイキング達にとっても重要な鱈の漁場であり、必然的に接触と衝突が起きた。
そこで現地のヴァイキング達は、自分たちの秘密の漁場を知らせるという漁民のタブーを犯してでも国にこの重大事を伝えた。
国は、急ぎ多数の軍艦を派遣してヨーロッパから来た漁民達を駆逐し、一部の船を拿捕した。
そして拿捕した船から技術の抽出を実施し、自分たちの使う船の性能向上を図った。
これによってヴァイキング達の船も、外板を作って後で内部から補強するのではなく、骨組みを作ってから外板を付ける形に構造が変化し、単に船の強度が増すばかりでなく、修理、補修の簡便化を取り入れることができた。
また、甲板を設けるようにもなり、大型船になると船内に何層もの階層を設けるようにもなる。
こうして船の能力を向上させたヴァイキング達は、15世紀中頃になると活動範囲を一層広げることが出来るようになり、エーギル海や南の新大陸への進出を容易なものとしていた。
なお、イングランドやバスクの漁民達は、未知の白人勢力から攻撃を受けたことを、ヨーロッパの権力者や他の者に伝えることはなかった。
これは、漁民とは自分たちの利益のために秘密主義が強い事が原因しており、他の人々も犠牲の多さを単に気象の厳しい遠方に赴いている影響だろうとしか考えなかった。
だからこそコロンブス達は、全く無知のままヴァイキング達と接触することになったのだ。