フェイズ13-2「産業革命と第二次アスガルド戦争(2)」
次に能動的に動いたのは、ノルド王国だった。
ノルド王国は、優勢な海軍を用いてメヒコ湾の制海権獲得競争を仕掛ける。
その上でミシシッピ河口の、アスガルド帝国随一の港湾都市ヴィントヘイム市を水上封鎖。
さらに別働隊が敵地のまっただ中となるミシシッピ川を遡上して、アスガルド帝国内の通商、交通を混乱させようと画策した。
いかに大軍でも、食料を始めとした様々な物資がなければ戦うことはできないし、経済が混乱すれば大軍を維持できなくなるからだ。
兵站と経済の破壊という、合理的な作戦といえた。
しかしアスガルド帝国側も、ノルド王国海軍がミシシッピ川の交通を混乱させようと目論んでいる事は常に予測していたので、昔から対策に余念はなかった。
ヴィントヘイム市は洪水対策の巨大な護岸工事と合わせた要塞化により、難攻不落の城塞都市となっていた。
河川海軍も十分に整えられている。
それでもノルド王国海軍の方が優勢だったのだが、この時のノルド王国海軍は惨敗を喫することになる。
ただし手段は、海戦とは言い難かった。
アスガルド帝国側の河川水軍が囮でしかなく、アスガルド帝国軍が長年かけて準備した別の戦力によって、優勢なノルド艦隊は粉砕されてしまったからだ。
「双頭要塞の戦い」で、ノルド王国海軍はミシシッピ川沿岸に築かれた河川要塞群の集中砲火を浴び、河川進入作戦をことごとく阻止される。
ミシシッピ川の広大な河川であるなら、当時の大型船の通行すら十分可能な上に、河川中央部は従来なら火砲がまともに届かないぐらい広かった。
しかしアスガルド帝国側は、長い間研究と測量、要塞の建設を行い、防衛を可能としていた。
アスガルド帝国軍が行った事は、この時代ではある意味革新的な防衛方法だった。
それは大砲を水平弾道ではなく曲射弾道で発射することで射程距離を大幅に伸ばし、しかも上から砲弾を落とすことで効果的に打撃を与えたからだ。
無論この時代の曲射射撃は、砲の構造、数学、物理学の未熟、そして命中率、発射速度などで様々な問題が発生する。
だがアスガルド帝国軍は、緻密な測量と射撃演習、そして多数の火砲を揃えることで克服していた。
相手がどこを通るのかが分かっている上に自分たちは国内深くにある要塞で、相手は地の利を得ない船という状況を利用したのだ。
状況としては、ジブラルタル海峡やボスポラス海峡と似たような状態の中で、ノルド王国艦隊は粉砕されたと言えるだろう。
なお、この戦いでは、発明されたばかりの蒸気を動力として動く船が、戦闘にも投入された。
とは言っても小型で戦闘力もほとんどなかったため、アスガルド帝国軍を「驚かせる」という以上の「戦果」は示していない。
この水上での戦いの結果、両者正面からの陸戦で戦争を決する他無いと判断する。
ノルド王国にとっては、攻守双方で敗北を喫するという惨敗で、国家存亡の危機とすら言われた。
しかし両軍は長い国境線に分散しているため、一度の決戦で全てを決するのは事実上不可能だった。
また双方の国境線や交通の要衝には、要塞や野戦築城が無数に存在してもいた。
豊かなアスガルドの大地が、両国に巨大な軍備と金のかかる防衛戦略を可能とさせていた結果だった。
しかし、巨大な人口と産業構造が戦争を可能とするようになっていた。
この当時アスガルド帝国は8000万人、ノルド王国は3200万人、エイリーク公国が500万人、ミーミルヘイム市など自由都市が約100万人いた。
他に西部を中心にアスガルド帝国に依然従わないスクレーリングが北アスガルド大陸内には50万人以上いると見られていた。
またアスガルド本土との境界線となるソルフルーメン川以の北アスガルド、エーギル海、南アスガルド大陸には、合わせて1500万人以上のアスガルド人と混血のミッドガルド人、ほぼ同数のスクレーリングが住んでいると見られていた。
合わせて1億5000万人であり、ロシアを含めたヨーロッパ世界を凌ぐほどにまで拡大していた。
またアスガルド帝国は、白人種による国家としては抜きん出るほど世界最大の国であると同時に、世界的にも清朝に次ぐ人口を誇る大国となっていた。
当時ヨーロッパ最大の国だったフランスとロシアですら、どちらも総人口が3000万人に達していなかった時代なのだ。
アスガルド帝国が初期動員として予定していた120万人という数字も、人口比率でいえば1.5%でしかない。
これは同時期のヨーロッパ諸国と比べても低い方だった。
ただしアスガルド帝国の場合は、ヨーロッパ全土に匹敵する広大な国土を有するため、辺境領域にあたる西部大平原、ビブレスト山脈、西海岸のアールヴヘイムからの徴兵は行われていない。
それらの地域に対しては、義勇兵、志願兵、傭兵のみ公募され、しかも集結地のミシシッピ川支流地域などに着くまでは自費、自給自足による募兵しか行われていなかった。
しかし西方辺境領からの義勇兵、志願兵、傭兵だけでも3万人を越えていたので、アスガルド帝国がいかに規模の大きな国だったかが分かるだろう。
ただし西方辺境領から参加した兵士は純粋なアスガルド人ばかりでなく、混血のミッドガルド人、帰化したスクレーリング、解放奴隷、東方から移民してきた日本人も含まれており、非常に雑多な構成をしていた。
こうした所に、アスガルド帝国が拡大の中で、多国籍化が進んでいたことを見て取ることができる。
また、主戦場に近い帝国本土地域での動員比率は2%を越えていた地域もあったので、動員比率はヨーロッパと比べても遜色なかった地域もあった。
また、アスガルド帝国は、戦争が祖国防衛戦争として長期化した場合は、最大で300万人もの動員計画を有しており、この数字は当時としては破格の数字であることは間違いなかった。
一方のノルド王国だが、仮に総人口の2%を初期動員したとして約60万人となるので、アスガルド帝国の約半分と言うことになる。
3%で90万人だ。
この数字は、軍事の一般原則である攻撃者三倍の原則という、攻める側が三倍の兵力(兵数ではない)を要素を満たしている。
しかし両者国境線はあまりにも長く、要塞線や野戦築城で防衛できる程度を越えていた。
このため両者の軍が動き回る運動戦、機動戦が主体となる。
特に軍主力同士の戦いは、当時の趨勢として運動戦、機動戦となる可能性が高く、ノルド王国が大きく不利だった。
このためノルド王国は、アスガルド帝国の弱点を突くべく、自分たちの側から攻勢に転じる。
アスガルド帝国の弱点とは、巨体そのものであった。
建国から約150年の間に、総人口は約四倍に膨れあがっていた。
広大な土地に住むこの大人口を統治し統制してきただけでも、アスガルド帝国は優れた国家だったと表現できるだろう。
だが、大国であるだけに動きが遅かった。
軍の動員に丸々一年もかけるのが、例の一つと言える。
またその軍についてだが、兵士達に与える武器もかなりを動員段階から揃える予定になっていた。
特に銃弾、砲弾の備蓄は、100万の軍隊が戦うにはほど遠かった。
アスガルド帝国の平時備蓄で戦える数は、せいぜい50万人までだった。
このためアスガルド帝国は、開戦以後大東洋の反対側にある日本から、大量買い付けを実施していた。
このため日本では、鉄、武器、火薬、制服用の被服、保存食、さらには軍艦に至るまでいくら作っても売れる、いわゆる戦争特需が発生していた。
この特需には、海禁(鎖国)している中華商人も一部に加わっており、アスガルド帝国はなりふり構わないで大軍編成を急いだ。
しかし空前の大軍が編成されるには最低半年が必要であり、動員の早さ、武器、各種加工品の生産力については、ノルド王国が遙かに勝っていた。
この典型例が被服(服装=軍服)にあった。
もともと当時のノルド王国は、白と鮮やかな蒼を基調とした軍服だった。
アスガルド帝国は近衛隊が黒に白のあしらいで、一般が鮮やかな緑、エイリーク公国は深みの強い深紅が基調と分かりやすい色分けとなっていた。
ミーミルヘイムは、市民軍と傭兵軍からなり固有の軍服はないが基本色は深い青で、おのおのの服の上に羽織る丈の短いジャケット又はコートだけが支給される。
こうした点は、当時のヨーロッパ諸国と大きな違いはなかった。
しかし短期間のうちにあまりに多数の軍が動員されるため、アスガルド帝国では軍服が完全に不足していた。
このため緑の服なら何でもよいとされたり、正規軍と地方軍を作って動員兵である地方軍の部隊にはリボンや帽子だけで軍服の代用する事を決めていた。
そしてこの時用いられた一部の服装が現在の軍服の源流に位置する服装になったり、ベレー帽が軍服に正式に取り入れられたりといった副産物を産んでいる。
しかしノルド王国では、動員された全ての兵士に正規の軍服が支給できた。
銃、銃剣、銃弾などについても必要量を満たしており、工業生産力の優位を見せていた。
西暦1811年、アスガルド歴761年春、国内各地で総動員半ばのアスガルド帝国に対して、ノルド王国軍主力がいっせいに動き出す。
自分たちが攻撃側となる7月から8月の決戦を見越して準備を進めていたアスガルド帝国にとっては、ほとんど奇襲に近い行動だった。
ノルド王国軍は、主力だけで12万、牽制や陽動を含めた各方面を合わせると、30万以上の兵力が一斉に動いたことになり、開戦一年程度で現在進行形のヨーロッパと同規模の戦争に拡大していた。
これに対してアスガルド帝国は、長い国境線には合わせて25万が既に配置に付き、そのやや後方には2〜3万の予備兵力が数カ所配置され、合わせて10万を越えていた。
これだけでノルド王国を上回る数なのだが、アスガルド帝国側には欠点があった。
兵力が広い国土に分散され過ぎていた事だ。
アスガルド帝国軍は、自らの優位を知っているが故にノルド王国は防戦一方だろうと予測していた。
侵攻作戦でも、分進合撃といわれる出発点が分散した形の侵攻を考えていた。
帝都から遠い南部諸侯に現地の防衛を兼ねて大軍が配備されていたのも、集中の手間と進軍時の面倒を嫌ったというよりは、完全勝利を求めた侵攻作戦の為だった。
しかし現実は違い、突如出現したノルド王国軍主力部隊は、一斉に国境を突破して一路アスガルド帝国の帝都フリズスキャールヴを目指した。
対する帝国軍は、動員半ばな上に各地に分散した状態だった。
それでも、本来なら十分迎撃できるはずのアスガルド帝国だが、うまくいかなかった。
アスガルド帝国は、ノルド王国軍主力部隊の近辺にいる兵力を根こそぎ集めようとしたのだが、国境線付近の部隊は他のノルド王国軍に拘束され、ほとんどが身動きできなかった。
場所によっては、強引に動いたあげくに数に劣るノルド王国軍に背後や側面、移動中を突かれ、その場で敗退して傷を大きくしていた。
また帝都近辺には既に5万以上の兵力が集められ、これが実質的には軍主力の基幹部隊となる予定だった。
しかし貴族や上流階級の数が多い上に帝都近在の部隊のため、軍服や装備は立派なのだが、通常よりも戦闘力に劣るのが現実だった。
将校に対して、兵士の数も少なかった。
それでもノルド王国国境から帝都フリズスキャールヴが人口過密地帯だったことを利用して、アスガルド側は強引に兵力を集めた。
また兵站や動員計画を無視して強引に兵力集中を実施した。
加えて領土内を突進してくるノルド王国軍主力に対しては、かなり泥縄式ながら遅滞防御戦が実施された。
しかし、優秀な戦闘力と迅速な機動力を見せるノルド王国軍主力を止めることはできず、アスガルド帝国深くに侵攻を許すことになる。
早くも5月には、アスガルド帝国皇帝オーラヴ二世とノルド王国国王エイリークソン十一世がそれぞれ軍勢を親率する決戦が行われ、ミシガン湖の南東約150キロのグリトニル平原で両軍合わせて30万近い兵力が激突した。
これが「グリトニルの戦い」である。
ノルド王国軍11万に対して、アスガルド帝国軍は16万存在した。
防戦側がアスガルド帝国軍であることを考えれば、勝機はアスガルド帝国軍にあった筈だった。
しかし勝利はノルド王国軍の上に輝いた。
勝敗を決したのは、単純な兵力数の差ではなかった。
元来侵攻作戦をあまり考えていないため補給能力の劣るノルド軍に対して、アスガルド帝国の肥沃な穀倉地帯(の備蓄倉庫)そのものが食料供給源となった事と、軍制の違いと各司令官の統率力の違いが勝敗を分けたと言われることが多い。
軍制については、アスガルド帝国はこの時代の先進国一般に用いられている「フリードリヒ型」と呼ばれるスウェーデンのプロイセン公爵フリードリヒ将軍が産み出した隊型をとっていた。
これに対してノルド王国は、ナポレオン率いるフランス軍で威力を発揮している「師団制」をいち早く取り入れていた。
またノルド王国の軍総司令官は、ノルド王国軍の軍制改革を行いさらには今回の侵攻作戦を立案したヴォルフ・ソールセン元侯爵だった。
しかもヴォルフ将軍は、ここ数十年間王国軍を支えてきた人物の一人であり、世界最新鋭の軍制をノルド王国軍に導入したこの時代随一の優れた戦略家でもあった。
ソールセン侯爵家は王家の系譜にも連なる名家で、代々軍人の家系でもあった。
一族の多くが観戦武官などでヨーロッパにも赴いた事があり、ヨーロッパの最新事情にも非常に精通していると言われていた。
そして何より勇猛な家系として知られ、この戦いでも既に老齢だったヴォルフも出陣して、国王の側で戦列に加わっている。
そしてここで一つのハプニングが起きる。
前線指揮に当たっていたヴォルフの長子である当主オルソン・ソールセン侯爵が戦傷して数日後に死亡し、ヴォルフが当主に返り咲いたのだ。
当時ソールセン侯爵主家には、まだ成人した男子がいなかったが故だった。
家督を譲った者が返り咲く事はアスガルド人の間、特に貴族でも珍しい事例だったが、戦時と言うことで容認されている。
そして侯爵に戻ったヴォルフは、自らが鍛え上げた軍制と軍団を自らの手で指揮することになる。
この時ソールセン侯爵家を中心とする軍団(2個師団相当約3万人)は、年齢以外ではこれ以上はいないという人物を指揮官に仰ぐ事になったのだ。
なおノルド王国では、貴族、王族は名目上では男女を問わず高貴なる者の義務を果たすという事になっていた。
ほとんど名目上だったが、未婚の女性のための軍事教練まで、貴族の師弟が通う学校で行われたりもした。
馬に乗るぐらいは、男女を問わず貴族の嗜みだし、男子ともなれば船に付いての素養も強く求められた。
船を操る将校となることが、アスガルド人、わけてもノルド王国貴族の基本的な姿とされるからだ。
しかし、少年が家督を得てすぐに実務(実戦)を行うという事例は極めて希だった。
海の上が主な戦場となるノルド王国海軍では、船主の関係で少年少女が名目上の指揮官(艦長又は提督)となる事もあったが、戦闘に巻き込まれるような事、指揮することはほぼ皆無だった。
実際の指揮となると、かつての分裂戦争の末期にごく僅かに見られた程度だ。
最後の事例も、多くの指揮官(貴族)が既に戦死または戦傷していたからだ。
だが既に時代は近世から近代へと入りつつあり、政治制度が他国よりも進んでいたノルド王国では、流石に子供を侯爵家当主にして前線に立たせることを肯定しなかった。
なお、裕福な家柄でもあったソールセン侯爵家の私兵は、師団化が完了しているばかりでなく、当時は珍しくまた高価だった施条が施された銃を多数装備していた。
この頃の施条銃は、銃弾が他のマスケットと同様に丸い弾丸を使用したが、施条の効果によって射程距離は二倍以上に達し、この戦いでもアスガルド帝国兵から「グングニールのようだ」と恐れられていた。
(※グングニール=ノルド教の主神オーディンの持つ槍)
そしてソールセン侯爵家軍の威力とヴォルフ・ソールセン将軍の優れた指揮能力は、アスガルド帝国最後の抵抗となった帝都前面での攻防戦でも示され、アスガルド帝国軍主力の側面を突き崩して勝敗を決する重要な役割を果たした。
ヴォルフはノルド王国軍の指揮官として、最初にフリズスキャールヴの軍事用にはほど遠い城門と凱旋門をくぐり、王国の英雄として凱旋を飾る事になる。
時に西暦1811年6月21日の事だった。
帝都周辺100キロには、ノルド王国軍主力に数倍する大軍がアスガルド中から集まりつつあったのだが、軍主力が破れて帝都に入城されては戦争は終わりだった。
当時の戦争は、まだそうした時代の戦争だったのだ。
ちなみに、なぜ帝都フリズスキャールヴが簡単に落ちたと言わることがあるが、文明の進展に伴う都市の肥大化が影響していた。
当時のフリズスキャールヴは総人口150万を数える、世界有数の巨大都市だった。
中世ヨーロッパの城塞都市のような、こじんまりとした街とは何もかもが違っていた。
帝国の首都となる前に作られた城壁は、市内に完全に埋もれていた。
そして国境から1000キロ以上離れているので侵攻される可能性はないと判断され、その後もまともな都市防備は施されていなかった。
巨大な湖に面していたので物流用の運河を兼ねた大きな堀などは一応備えていたのだが、それも恒久的な橋梁が街道沿いに建設されていたので、殆ど防衛施設としては機能しなかった。
食料の備蓄なども、一般商業活動の物資集積としての程度でしか行われていなかった。
それに、大量の大砲を市街に向けられてしまえば、その時点で巨大都市の防衛など選択できる筈もなかった。
万が一攻撃を受ければ、巨大な都市火災で市民が皆殺しとなってしまう。
そして既に時代は19世紀に入り、都市攻防戦を行う時代でも無くなっていた。
結局のところ、19世紀という時代は野外決戦で軍主力が負けてしまえば戦争は終わりなのだ。
帝都落城という言葉も、単に無血入城したに過ぎない。
「第二次アスガルド戦争」は、予想外にアスガルド帝国の敗北で終わった。
フリズスキャールヴ郊外の夏離宮で開かれた講和会議においては、アスガルド帝国はノルド王国に対して防衛の難しい地域の領土割譲を行い、さらには莫大な賠償金を支払う事となった。
またアスガルド帝国が占領したメヒコは、賠償金の減額という形でノルド王国に返還されている。
大幅な領土割譲が行われなかったのは、国民意識の違いによる反発と混乱を嫌ったからだった。
ましてやアスガルド帝国の併呑など、ノルド王国は考えてもいなかった。
それに、戦争勝つことそのもので、ノルド王国人の自尊心はほぼ満足されていた。
分裂戦争(=第一次アスガルド戦争)の雪辱が果たすことは、ノルド王国の悲願でもあったからだ。
またこの時のフリズスキャールヴ講和会議では、今後の安全保障政策としての取り決め、戦争協定などが交わされた。
結果、アスガルド人の外交・戦争に関する制度も近世から近代へと向かうことになる。
この時の会議には、オブザーバーとしてエイリーク公国、ミーミルヘイム市も呼ばれ会議に調印もしている。
そしてこの会議以後、アスガルド内で主権を持つ3つの国はそれぞれの都に公館(大使館)を置くことが決められている。
つまり、この会議をもって、アスガルド人は政治的にも近代へと一歩踏み出したのだと言えるだろう。
なお、この会議に前後して、エイリーク公国は新たにエイリーク王国となり、ミーミルヘイム市もミーミルヘイム共和国という独立国家へと昇格している。
これは公館を置くための便宜上のものでもあったのだが、以後国際標準としても適用できるため固定化し、今に続いていく事になる。