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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ13-1「産業革命と第二次アスガルド戦争(1)」

 ヨーロッパでの「ナポレオン戦争」に影響を受けて起きた「第二次アスガルド戦争」は、規模においてヨーロッパより大規模な戦争となった。

 

 しかし、対向国に対して経済力はともかく人口面で倍以上の差が開いているノルド王国が、強大な国力と軍事力を有するまでに成長したアスガルド帝国に対向できた事が、戦争の巨大化を産んだとも言えるだろう。

 

 そして大戦争を作り出した大きな原因こそが、「産業革命」だった。

 


 「産業革命」とは、18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のこと、とされる。

 又は「工業化」、「工業革命」という言葉を使うこともある。

 そしてどの言葉を用いるにせよ革新的だったのが、蒸気機関を始めとする装置により「熱量」を自在にコントロールする機械を用いることで、巨大な生産力を実現し、移動力を飛躍的に向上させることこそが革新的出来事だった。

 工業製品は、一部成果に過ぎない。

 

 そしてこの産業革命が、ノルド王国で最初に起きたのには、多くの必然と偶然が作用していた。

 

 まずノルド王国内には、大量の石炭と当座の鉄鉱石や銅、亜鉛などの鉱産資源と、さらには綿花、羊毛の生産地帯が存在した。

 近在には、国内で足りない地下資源も豊富にあった。

 そして製品を売りさばいたり、社会資本を整備できる広大な植民地を有していた。

 また、副王領と言う名の植民地からは、国内で足りない原料を入手することも比較的容易かった。

 そして南北アスガルド大陸内の各植民地にも、数百年の開発によって第二のアスガルド人のコロニーが成立していたことも、様々な面で有利に働いた。

 開拓途上の地域とは、投資先、市場、消費地として非常に有効だからだ。

 

 さらには、南方(エーギル海)での資本集約的な砂糖の生産と各地への輸出、植民地で産出される豊富な銀、それらを活用した国内産業、商業の育成により、世界で最も豊かな国、高い経済力を持つ国となっていた。

 17世紀以後のノルド王国にとって、ヨーロッパは常に有利に戦える輸出市場であった。

 何しろヨーロッパ諸国には、嗜好品でもあった砂糖や煙草を効率よく大量栽培できる南方植民地はほとんどなく、貨幣となる金又は銀を大量に産出する地域を持たなかったからだ。

 ノルド王国に足りないのは、中華、日本で生産されるお茶と陶磁器ぐらいだと言われていた(※19世紀には、どちらも国産できるようになる。)。

 

 そしてノルド王国の国家自体も、統治体制、政治体制、社会体制が、議会、憲法の導入による立憲君主制の成立により、多くを革新をもたらす有利な状況へと導ける状態にあった。

 しかしこれも、経済的に豊かな社会が存在したからこそ成立した状況と言える。

 

 また国内では、開拓の限界に伴う余剰人口の誕生、その農場での合理化のための「囲い込み運動」による都市への人的資源の流入により、次なる産業への労働者を確保しやすくなっていた。

 

 以上、どれかが欠けていても、産業の革新を遅らせることになっただろう。

 現にアスガルドより遙かに古い歴史を持ち、多くの面において進んだ社会を持つヨーロッパでは、最初の産業の革新に至らなかった。

 特に資本力の不足がアスガルド地域より大きかったことが、アスガルドの後塵を拝した主な理由だとされることが多い。

 

 また、ヨーロッパと同じような状況にある筈の中華地域、日本では、共に水力を直接用いた機械(水力紡績など)の登場にまでは至ったが、中華地域では中央政府が自ら開発と発展を封じて革新への可能性を潰し、日本では自らの力だけでのそれ以上の前進は行われなかった。

 そしてどの地域でも、初期的な実験レベルでなら蒸気機関は一度は実用化されている。

 量産と広範な利用に至らなかったのにはそれぞれ理由があったが、理由があったからこそ革新に至らなかった。

 

 北アスガルド大陸でも、グリーンランドでの記憶が今も残るエイリーク公国は様々な面で保守的すぎた。

 商工業都市群のミーミルヘイムは、優れた経済力と質の高い市民を有していたが、所詮は都市国家的小国に過ぎなかった。

 アスガルド帝国は巨大国家となっていたが、基本的に発展途上の農業国家だった。

 

 またアスガルド人は新規なものを好み、キリスト教が絡まない限り海外からの知識や技術の輸入、時には奪取や模倣を熱心に行っていた。

 元来、物作りも得意だった。

 ヨーロピアンからは、「物まね上手」と口悪く言われていたほどだった。

 

 加えてノルド王国内には、国が豊かになるにつれて中産階級が育ち、彼らは高い教育を得ることで革新の担い手の予備軍となれた。

 


 そして18世紀も終盤に入った頃から、最初の蒸気機関を用いた炭坑や鉱山の排水装置と紡績機が登場し、19世紀にはいると蒸気機関の交通手段への応用が試験的に開始され始める。

 

 そしてナポレオン戦争、第二次アスガルド戦争が行われる頃、ノルド王国は世界最大級の紡績生産力を誇る国家へと躍進していた。

 綿花、原綿は自らの領内の南部地域やエーギル海の一部で十分に生産できるし、次の段階である羊毛も十分あった。

 足りない分は、近在のアスガルド帝国かエイリーク公国から輸入すればよかった。

 ただし、アスガルド帝国との対立があったため、これはノルド王国にとっては懸念であると同時に不満でもあった。

 アスガルド最大の市場が使えない事を意味していたからだ。

 

 この不満が、アスガルド帝国に対する重商主義の壁を高くさせる要因の一つともなり、両者足りない文物に対する関税合戦が加熱して関係を悪化させていった。

 

 こうした時にヨーロッパでの戦乱は頂点に達へと向かいつつあり、アスガルド人は安心して再び身内内での戦いに興じることができた。

 

 戦争の原因とは、たいていの場合経済が絡むという典型例で起きた戦争と言えるだろう。

 


 「第二次アスガルド戦争」は、1809年の秋の収穫が終わった時期に始まる。

 これはそれぞれの本国近辺の北部地域では、冬に戦争が出来ないと言う状況をアスガルド帝国が利用したものだった。

 

 この時代、本来冬には戦争をしないものだが、北アスガルドの南を流れる大河ソルフルーメン川より南の地方では、多少の高山地帯ではあっても冬の気温は大陸北部ほど低くはなかった。

 また建国頃とは違い、テキサス地域には多数のアスガルド人が住み、ノルド王国に近い地域に関係なく軍の動員が可能となっていた。

 街道などの社会資本整備も既に進んでいた。

 何しろアスガルド帝国は、希に見る土建国家でもあったからだ。

 

 またアスガルド帝国内では、ビブレスト山脈からミシシッピ川にかけての広大すぎる大草原、大平原は馬や牛の飼育に適しており、特にこの頃のテキサス地域(テキサス公爵領)は馬の大産地だった(※牛の大産地でもあり、牛の方が数はずっと多かったが)。

 アスガルド人がキリスト教の禁忌を気にすることなく馬の肉を食用としていた事もあって、その質と量はヨーロッパ全土に匹敵するほどだった。

 こうした状況を見たヨーロピアンが、「白いタタール(=モンゴル人)」と呼んだほどだ。

 

 そして銃と大砲で武装した現代のモンゴル騎兵と言える、アスガルド帝国テキサス公爵領の巨大騎馬軍団は、本国近辺での両者のにらみ合いを気にすることなく、大規模なメヒコへの侵攻を開始した。

 ソルフルーメン川を越えた馬だけで20万頭を数えた。

 馬のうち半数は補給のために用意された荷馬、荷馬車用の駄馬やロバだったので、戦闘部隊は半数程度。

 他にも兵器を運ぶための馬も多数いたので、実際前線で戦う騎兵はさらに半数の5万人程度だった。

 しかし5万の騎兵と20万という馬の数は、かつてユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の巨大騎馬軍団以外に比肩するものはなく、その戦力の大きさが多少は理解できるのではないかと思う。

 この時期のヨーロッパでも、これほどの規模の騎兵を擁してはいなかった。

 騎兵として運用されても、十分の一程度の規模だ。

 しかもこの数字は、アスガルド帝国の一地方の動員力でしかなかった。

 

 そして巨大な騎馬軍団に対して、メヒコ在駐のノルド王国軍はまともな抵抗ができなかった。

 テキサス方面だけでなくアールヴヘイム方面からの侵略も受けたため、境界線を中心に薄く引かれていた防衛線は見る間に崩壊し、グリトニル市(旧チノチティトラン市)のノルド王国メヒコ総督府はまともな防戦も出来ずに、無血開城の形で降伏した。

 現地は開発の歴史も古く相応にアスガルド人も住んでいたし、さらに万の単位で防衛隊もいたのだが、相手が違いすぎた。

 

 ノルド王国にとっては、恐れていた事態の一つが発生した事になる。

 


 アスガルド帝国に対して初期のノルド王国は、アスガルド帝国に対して打つ手が限られていた。

 海上戦力、エーギル海での制海権では圧倒的に優位に立っていたが、単純な戦力面での優位はその程度だった。

 しかも海上は、ほとんど戦場としての価値がなかった。

 

 本国近辺の国境線でアスガルド帝国が防戦状態にある以上、数に劣るノルド王国が軍事的にイニシアチブを握ることは極めて難しいと考えられていた。

 ノルド王国は、国境近辺だけでの兵力数でも劣っている上に、アスガルド帝国軍はノルド王国軍が万が一兵力を一カ所に集中させた場合に備えて、やや後方に予備の機動戦力を保持し、また高度な国内の交通網を利用して移動できるように手配していた。

 

 一方のアスガルド帝国としては、ノルド王国の財布であるメヒコの銀山を押えてしまえば、戦争は自らの勝利で短期間のうちに終わるだろうと安易に考えていた。

 だからこそ経費もかかる巨大な騎馬軍団を用い、電撃的な侵攻作戦を実施していた。

 

 しかしノルド王国は降伏も講和も選ばず、自らも国境線を固めると総力戦の準備に入った。

 しかも強力な海軍と商船隊を用いてアスガルド世界全域から資源を集め、アルゼンチンなどからは兵力すらノルド王国内に持ち込んで対向した。

 

 これに対するアスガルド帝国も、短期戦による決着は望めない状況であることを理解する。

 しかしメヒコ以南への進撃は、亜熱帯ジャングルのため事実上不可能であり、制海権を持っていない以上、南アスガルド大陸への侵攻も難しかった。

 南アスガルドに対しては大東洋側から海での侵攻ができなくもなかったが、大東洋側のノルド王国海軍の戦力を考えると危険が大きいと判断され、行われることは無かった。

 中立状態であるエイリーク公国を迂回して進撃するという選択肢も選べなくはなかったが、最低でもエイリーク公国を完全征服する気がないのなら選択も出来なかった。

 戦後のアスガルド社会で、著しく外交失墜をもたらしてしまうからだ。

 

 このためアスガルド帝国は、ノルド王国本土への侵攻によって北アスガルド大陸東部での決戦を画策するようになる。

 


 アスガルド帝国は、勅令により全土に動員を命令し、一年かけて大軍を北アスガルド大陸北東部に集中し始める。

 その数は一年後には120万人にも達し、鉄道が普及数以前の時代である事を考えると、極めて大規模な軍事力の動員だった。

 何しろ、ナポレオンがロシア遠征で集めた兵力の約二倍にも当たる。

 

 これを可能としたのが、アスガルド帝国の優れた統治体制と国民の国防意識、そしてアスガルド帝国が建国以来精力的に進めていた優れた社会資本の整備のおかげだった。

 近世のローマ街道と言われるアスガルド帝国内の道路網は、同時に構築された兵站能力の高さによって、広大な国土に散らばる徴兵される兵士達を、規模に対して比較的短期間で限られた場所に集中することが可能となっていた。

 物資の集積についても同様だった。

 

 しかし大動員は、アスガルド帝国にとって賭けに等しかった。

 それは国民の大多数が、それぞれ広大な農地を有する自作農だからだ。

 自作農達は戦争の間、自らの農地を耕すことが難しくなる。

 

 兵士として動員されるのは、基本的に帝国の多産政策によって得られる次男坊、三男坊だった。

 だが帝国内に広がる広大で豊かな資本集約型の農場を運営するには、家族総出に加えて奴隷や低賃金労働者、奴隷を使ってやっとという場合が多かった。

 地域によっては、既に小作農が多数出現しつつあったので、動員される余っている男達が貴重とされている地域もあった。

 アスガルド帝国の農民は、この当時世界で最も広大な農地を有する人々ではあったし、世界一豊かな農民ではあったのだが、それには相応の苦労と労力の投入が必要だったのだ。

 

 そして常に広大な荒野を精力的に開拓する事で、「使える」国土と国民を増やしてきたアスガルド帝国内には、自らの国家規模に対して一部の都市下層住民以外に常に使える余剰労働力が少なかった。

 

 また絶対王政にある国家に相応しく常備軍は備えられていたのだが、開拓国家であるという独特の風土と対向国(ノルド王国と西部のスクレーリング(原住民))よりも大人口だった事が、常に備えられている常備軍の数を少なくさせていた。

 スクレーリング相手なら、それほどたくさんの軍隊が必要なかった事も、常備軍の少なさに影響していた。

 

 また国家規模に対して少ない常備軍の存在こそが、国土の開発を促進させ国民への負担を減らしていたので、建国以来長らく常備軍の数は限られたままだった。

 

 故に多少の長期戦を行うにしても、大軍を用いた戦争を行うには通常で1年、長く見ても2年から3年が限界だった。

 ナポレオン率いるフランスのようなマネは、したくても出来なかった。

 

 これに対してノルド王国では、分裂以来、陸では防衛に徹することが国防の基本戦略だった。

 人口で劣る上に国境線は長く地形障害も少ないので、それ以外選択肢がなかったからだ。

 またノルド王国としては、陸で守っているうちに優勢な海軍力を用いて戦略的優位を作る戦争を常に構想していた。

 相手に戦争が「損だ」と思わせる以外に、戦争解決手段が事実上存在しないと考えられていたからだ。

 このため、街道や要所には防衛専門の城塞が建設され、橋の一部は常に木造のままおかれたりしていた。


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