フェイズ12-2「フランス革命とその影響(2)」
建国以来の伝統と制度に支えられ、オーラヴ二世も29才で先代の禅譲を受けて帝位に就いた。
彼は取り立て名君ではなかったが、暴君でも暗君なかった。
波乱の人生とも、この時までほぼ無縁だった。
皇帝家の長子として生を受け、皇太子となり、当人自身は激しい競争や陰謀を経ることもなく順当に帝位へと着いた。
先帝が禅譲したのは1803年だったが、禅譲後の先帝は即位前の暗殺劇、初期の帝位の頃の混乱した状況が嘘のように静かな隠遁生活を送っていた。
オーラヴ二世が帝位に就いてからは、帝国伝統の君主としての枠から出ることはなく、政治の委細については大臣達や巨大な官僚団に多くを任せ、書類に目を通して印鑑(玉爾)を押すことが彼の最も重要な職務となっていた。
個人としての性格や性癖も常人の範囲内で、決断力や調整能力も相応の能力を有しているので、帝国中枢の誰からも「及第点の皇帝」と見られていた。
多少問題があるとすれば、歴代皇帝の中では多少好色な事ぐらいだった。
これも妾やその子供に実質の権力や特権は一切与えていないので、むしろ跡取りや大貴族達への婚姻相手が増えたと好意的に見られていた。
ここでの問題があるとすれば、複数の王子、王女がノルド王国などと名目もしくは実質の婚姻や婚約関係にあった事だろう。
しかもアスガルド人国家のノルド王国、エイリーク公国だけでなく、ヨーロッパのノルウェー王国、スウェーデン王国にすら王女が嫁いでいたのだから、この頃のアスガルド帝国の外交は、幅が広がった分慎重さも要するようになっていた。
日本の江戸幕府又は天皇家との姻戚関係の可能性すら真剣に考え、両国の間に調査のための文書も残されている。
逆に利点といえるのは、無類の学問好きな事だった。
幼少の頃から暇さえあれば書物を読んでいたと言われ、自ら書物を読むために語学にも堪能となった。
帝国大学にも、試験を経た上で通った最初の皇帝だった。
帝国図書館や各種書籍研究、さらには国内の印刷産業も、彼の代に大いに充実している。
世界中の書物や文献を金に糸目を付けず収集する事が、この皇帝の唯一の贅沢だったとすら言われるほどだった。
古代の石版や木簡を探すために、探検隊や調査隊を編成させたほどだ。
マヤ文明の古代文字も、この頃最初の解読が行われている。
しかもあらゆる政治思想にも啓蒙が深く、ヨーロッパだけでなく世界中の政治、思想について精通していた。
そして各政治形態や思想の利点、欠点についても、一般以上に理解を深め、専門家と言っても間違いないほどの見識の持ち主だった。
実際彼の提言により、帝国の制度に改良が加えられた事もあった。
しかし帝国に合わない制度や考え方については、個人的な知的好奇心を追い求める以上の事はせず、何より事を起こすほどの実行力もなかった。
彼にとっては、学問そのものがあくまで目的だったのだ。
フランス革命とその後の混乱に対しても、オーラヴ三世は一つの命令を下していた。
詳しく調査して記録に止め、さらに専門家によって研究せよというものだった。
命令を受けた者のほとんどは、皇帝の学問好きが出たとか、アスガルド帝国に害が及ばないようにする予防措置だと考えた。
帝国中枢がフランス革命に抱いた感想と直接の影響は、つまるところその程度だった。
なぜならアスガルド帝国とは、開拓によって成り立った国家であり、皇帝から今まさに新たな入植地を切り開いている開拓民に至るまでが、元の出自が事実上一つであるという事を体感的に知っており、故に国民が帝国と皇帝を熱狂的に支持していた。
帝国の象徴的武具も、剣ではなく木を切り倒す斧とされていた。
それでもアスガルド帝国国民も、フランスの市民革命に大きな興味を持った。
彼らは建国前から開拓民にして自作農達であり、世界で最も豊かな農民達だった。
奴隷は使うし解放奴隷や他民族を低所得労働者として使役するが、それは自らが自作農として行う範囲内での事であり、単品作物栽培による搾取や強制的労働を行っているのは、エーギル海植民地の一部の極端な資本主義的農場だけだった。
アスガルド帝国の農場のほぼ全ては大規模な資本集約型の農場だったが、彼らには自作農、開拓民としての誇りと自負があったのだ。
また開拓者であるだけに自立心が強い一方で、自分たちこそが帝国を支えているという自負を持っていた。
また独立そのものを自分たちで勝ち取ったという自負を持ち、この考え方は自作農ばかりでなく都市部の商工業者、市民も例外ではなかった。
こうした意識は、膨張初期のローマ帝国に近いかもしれない。
貴族達も、先祖や自身の出自が開拓者のリーダーだった者、独立戦争での功労者が殆どなので、一部の奢侈や権力に溺れた者を除けば、概ね節度と高い意識を維持していた。
また、特権階級に対しても愚者を罰する法や規則が帝国に存在した事も、国民の国家への信頼につながっていた。
開拓によって作られた国のため、特権とは義務と権利、責任に対する報酬という考え方が強く、世襲というだけで権力、富が無条件に認められるという風土ではなかった。
国民と貴族の距離も近く、戦士階級(士族)や男爵程度の低い位なら辺境だと共に農地を開拓している事もあった。
皇帝の公式行事にも、入植に関する記念日に自ら斧や鍬を振るうというものがあったほどだ。
歴代皇帝の中には、職務の合間に辺境視察を熱心に行った皇帝もいた。
帝都にも貴族の姿は比較的少なかった。
帝都にいるのも、官僚や軍人としての職務でいる貴族が多かった。
巨大な宮殿はあったが、フランスのように王や貴族が権威を示す場ではなくあくまで式典や仕事の場であり、それ以外の主な用途も帝国そのものの権威や威信を示す為のものであった。
ベルサイユ宮殿のように毎夜宴会が行われることはまずなかった。
アスガルド帝国が、帝国という皮を被った国民国家と言われる所以がそうしたところにあった。
こうした国民の意思を帝国政府も可能な限り反映し、絶対王政ながら地方自治は比較的緩やかで、基本的に国は豊かで皇帝と政府は悪政を敷かなかった。
このため国民の多くも、帝国による絶対王政を受け入れていた。
しかも領内には開拓できる土地がまだ多く存在したので、文句を言う者はかなりの少数派だった。
権力維持のために政治と深く結びついた宗教が必要ないのも、ある種当然だろう。
戸籍管理と冠婚葬祭を執り行う慰撫組織としての宗教があれば、それで十分だったのだ。
アスガルド帝国は基本的にそうした国であるため、フランスでの革命に最も動じなかった国でもあった。
このため、アスガルド大陸でのフランス革命の心理面での影響は小さかった。
問題は、ノルド王国による重商主義政策とそれにより発生した経済的混乱にこそあった。
しかしノルド王国、アスガルド帝国共に、ヨーロッパ世界のように簡単に戦端を開くというようなことは無かった。
両者自然障害の少ない長い国境線を抱え、共に大人口を抱えているため、全面戦争になった場合に国家が被る被害、不利益が大きいことを熟知していたからだ。
加えて、自分たちが相争うとヨーロッパ世界が干渉してくる事を常に警戒していた。
だが、ヨーロッパ世界での劇的な変化により、一つの懸念が大きく低下した。
フランス革命後のナポレオン・ボナパルトの台頭により、ヨーロッパ世界で大規模な戦争が起きて、アスガルドに関わっている場合でなくなったのだ。
ヨーロッパでの戦いの序盤は、海上と海外ではフランス・イスパニア対ネーデルランド、スウェーデン、イングランド連合軍の戦いだった。
相変わらず、新教対旧教という構図だ。
そしてフランスがエジプトを経由するインドとの連絡線を保持すると、状況はいっそうフランス優位となる。
しかもフランス近辺では、ネーデルランドが陸上での戦闘でフランスに完敗を喫し、1802年のアミアンの和約でネーデルランドが実質的にフランスに併合される。
これで「第二次対仏大同盟」は瓦解し、ナポレオンは自らフランスの帝位に就いた。
経済大国ネーデルランドの敗北と併合に、ヨーロッパ世界は震撼した。
そして1804年にナポレオンがフランス皇帝に即位すると、ヨーロッパでの混乱は頂点へと進んだ。
その後ヨーロッパでは、フランス対全ヨーロッパという形での戦争が始まるのだが、ナポレオンという軍事の天才と「国民軍」を有するフランス軍の強さは圧倒的だった。
イングランド海軍が圧倒的なフランス・イスパニア艦隊に敗北して、イングランドは降伏した。
「アウステルリッツの戦い」でオーストリア、ロシア軍が敗北、さらにその数ヶ月後に起きた「イエナの戦い」でスウェーデンが敗北すると、ナポレオンの権勢はピークに達した。
ナポレオンの天才と優れた軍制、士気の高い国民軍などの要素がもたらした、ある種当然の勝利だった。
その最中にネーデルランド連邦は一旦解体され、オーストリアの敗北の後に、既に形だけだった神聖ローマ帝国は遂に滅亡した。
ネーデルランドが有したケープ、セイロンの各植民地も、フランス軍の占領下となった。
地の利を持つロシアも、交易相手である全ヨーロッパが降った事で講和に応じることになった。
ナポレオンは事実上のヨーロッパ統一を達成し、シャルル・マーニュの再来となったのだ。
これで絶頂に達したと見られたナポレオンだが、一人の天才によってのみ成立し、その上急速に膨張し過ぎた帝国は簡単に揺らいだ。
ナポレオンの悲劇とは、彼の事業を代行できるだけの助言者や宰相、さらには後継者に恵まれなかった事だろう。
1808年にイスパニアの内紛に対して軍を派遣したナポレオンだったが、後にゲリラと呼ばれる事になるイスパニア民衆による激しい抵抗運動が、フランスの軍事力と予算を無尽蔵に奪い始める。
しかも一度は軍門に降った、スウェーデン、イングランドなどがイスパニアの抵抗勢力を支持して消耗戦略を行い、ロシアも反フランス姿勢を示した。
しかもスウェーデン、イングランド、さらにはロシアは、アスガルド人との交易を行うことで軍備の増強や経済の活性化を実施して、力を付けようとした。
このためナポレオンは、「ヨーロッパ封鎖令」を出して、アスガルド船と全ヨーロッパ諸国との交易を禁じた。
一方では、ノルド王国と敵視しつつアスガルド帝国への接近を行い、アスガルド帝国に対してアスガルド帝国に有利な形でのアフリカ利権の一部売却を持ちかけた。
アスガルド帝国が、南方での物産と奴隷が不足していることを見越しての提案だった。
そしてこのナポレオンの提案が、アスガルド人の間に不和をもたらす。
先にも書いた通り、1783年に終わった「大西洋戦争」以後のノルド王国が重商主義政策を進めたおかげで、アスガルド帝国内の南方の物産、奴隷が不足していた。
このためアスガルド帝国は、砂糖など南方の物産のかなりを、高額でノルド王国から買い入れるか、遠く日本との交易で手に入れなくてはならなかった。
南アスガルドから流れるスクレーリング奴隷の不足についても、西部のアールヴヘイムを中心に日本であぶれた移民がかなり流れ込み、低賃金労働者として働くことで辛うじてやりくりしている状況が続いていた。
このためアスガルド人の中にノルド王国に対する不満が高まっており、エイリーク公国、ミーミルヘイム市でもノルド王国に対する評価は下がっていた。
そしてノルド王国は、フランスのやり口を強く非難し、アスガルド人全体にある反ヨーロッパ感情に訴えるいつも通りの外交を実施する。
しかし今回は、フランスがアスガルド人との交易を禁止するという政策を同時に取っているため、ノルド王国以外の不利益はむしろ拡大することになる。
このためアスガルド帝国中枢は、伝統的外交を逆手にとってナポレオンの提案に対して興味を示す事で、ノルド王国の態度軟化を誘い出そうとした。
しかしこれがノルド王国の反発を呼び込み、「大西洋戦争」から徐々に修復していた両国の関係が急速に悪化する。
その後両者の関係はヨーロッパとの関係、ヨーロッパでの戦争の進展を無視して悪化を続け、1809年には互いに国境を固めるまでになる。
そして一気に大動員を仕掛けたアスガルド帝国が、ノルド王国本土との国境線を固めた上で、騎兵を中心にした機動戦力のかなりを割いてメヒコ副王領への電撃的侵攻を実施。
「第二次アスガルド戦争」の勃発だった。
そして二度目の北アスガルド大陸での戦争は、ヨーロッパでの戦争と少し違っていた。
ヨーロッパでは、フランスとそれ以外の国、国民国家の軍隊と、従来型の常備軍による戦いだった。
これに対してアスガルドでは、アスガルド帝国が屯田兵型の旧来型の国民軍で、ノルド王国は立憲君主型国家ながら軍制の改革を実施して、国民軍ではないながらも近代的で優れた軍隊(常備軍)を有するようになっていた。
それでも二倍以上の人口を有するアスガルド帝国が数の上で有利だった。
しかしこの時ノルド王国には、革新的な力が加わりつつあり、その力こそが戦争における不利を大きく補うことになる。
革新的な力とは、歴史的用語でいうところの「産業革命」だった。




