フェイズ12-1「フランス革命とその影響(1)」
西暦1775年から1783年まで行われた「大西洋戦争」の結果、主にノルド王国、フランス王国、イスパニア王国、ネーデルランド連邦、エイリーク公国の海軍力が大きく消耗した。
主にインド洋で活動していたアスガルド帝国海軍も、遠隔地での戦闘の影響もありかなりの戦費を浪費し、損害も受けていた。
そして海軍の消耗以上に、それぞれの国の財政は大きな消耗を示した。
特に、財政的にも豊かとは言えず、事実上の敗者となったヨーロッパ側の疲弊が大きかった。
軍艦を用いる戦闘は、戦死者の数こそ陸で戦うより少なく済む事が多いが(戦列艦が突然沈んだりすると、一度に1000人も戦死するが)、軍艦とは非常に高価なため戦費は飛び抜けて高額となってしまうのだった。
参戦国の多くが疲弊したのは、当然の結果でしかなかった。
そこに、世界各所で起きた大規模な火山噴火による一時的な地球規模での寒冷化という気象変動が発生し、北半球世界は各地で冷害、飢饉が発生する。
そして財政悪化、飢饉、中世以来大きな変化のない旧態依然とした農業、旧体制による民衆への抑圧、権力者の暴政などが重なり、西暦1789年7月フランス王国で市民による革命、つまり歴史上で言うところの「フランス革命」が発生する。
これまで封建制度に変わりうる政治制度としては、ノルド王国とイングランド王国で実施された議会と憲法を用いた立憲政治と、ネーデルランド、北イタリア各地、北アスガルド五大湖沿岸都市などの共和制があるが、それ以外に多少なりとも民衆の意見、つまり民意を現実レベルで採り入れることの出来る政治制度はほぼ存在しなかった。
あるとすれば、小規模な原始的社会を維持している地域での全員参加型の集団統治体制ぐらいだろう。
この中での変わり種は、スイスの直接民主制になるだろう。
フランス革命はまさに革命的出来事であり、その後世界を大きく揺るがすことになる。
そして変化は、アスガルド大陸にも及んでいた。
ノルド王国は、大西洋戦争で大きく疲弊した。
国土には寸土も触れられなかったが、たびたび大海軍を用いてヨーロッパ勢力の海上交通を脅かし戦争全般も優位に運ぶも、ヨーロッパ近辺では地の利が得られなかった事もあり決定打を打ち出せなかった。
そして遠方での海での戦いは莫大な戦費を費やすことになり、当時世界で最も豊かな国の一つだったノルド王国の財政は一気に傾いた。
故にノルド王国は、国内及び各植民地に対して増税と貿易統制を実施し、増税に伴い重商主義化政策を進めた。
この重商主義化政策では域内の関税障壁の強化も行われ、戦争中に芽生えたアスガルド全体での連帯気運を大きく押し下げてしまう。
特に最も大きな人口を抱えるアスガルド帝国では、南方の物産の需要に対して供給が追いつかなくなるか、異常な物価高騰が見られた。
また、この頃のアスガルド帝国は、北アスガルド大陸西部領域の開拓もしくは征服を既にほとんど完了していたため、域内で働かせるスクレーリングの奴隷もしくは低賃金労働者の供給先を、ノルド王国の南アスガルド各地に頼っていた。
アスガルド人にとっての奴隷や低賃金労働者とは、同じ大陸に住む原住民であるスクレーリングであり、ヨーロピアンが時折商談を持ちかけてくるアフリカ系人種は論外だった。
アスガルド人は、肌の黒い人々を使役することを酷く嫌っていたのだ。
これは幼稚で感情的な人種差別そのものだが、そうであるだけに受け入れられることはなかった。
加えて、各種一神教を信奉する人々が自分たちの大陸に住むことも酷く嫌っていた。
このためキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の住民のどれかがアスガルドに移民する場合でも、棄教の宣誓をすることが全アスガルド地域で義務づけられていた。
アスガルド内での各種一神教に対する弾圧も強く、18世紀前半に作られた港湾都市のごく狭い外国人居留地だけが例外とされているだけだった。
それでも宗教上の面倒を嫌い、ヨーロッパ、アラブ方面からの移民、奴隷も嫌っている状況が続いていた。
受け入れる場合も棄教が基本である場合がほとんどで、それでも黒人入植者は拒絶していた。
このため取りあえずの対策として、主にアジア方面での奴隷の獲得について考えられるようになり、西海岸のアールヴヘイムにやって来る日本人商人に、肌のなるべく黒くない奴隷の供給すら依頼するようになった。
この際、低賃金労働者でもいいのなら日本人でも構わないと伝えられ、既にアールヴヘイムに日本人移民が流れていた事もあり、以後若干数の日本人が主に下層労働者としてアスガルド帝国各地に流れるようになる。
一般のアスガルド人としては、「赤」より「黄色」の方がましという程度の感覚だった。
しかも日本人の国でキリスト教が禁じられているので、さらに受け入れへの心理的障壁は低かった。
そして当然というべきか、アスガルド帝国はノルド王国に対して奴隷の供給要請と、南方の物産の関税低下を強く要請した。
しかし財政が傾いていたノルド王国は、容易にアスガルド帝国側の要求を受け入れず、むしろ貿易統制を強化して外貨獲得に奔走した。
奴隷も高く売りつけるようになった。
この裏には、大西洋であまり活動しなかったアスガルド帝国への恨みも強く影響していた。
このためノルド王国とアスガルド帝国の関係は、再び悪化の方向に流れた。
そうした時に、ヨーロッパでフランス革命が勃発したのだった。
一方、王政打破と封建制を破壊して民衆による政治を行うというこの革新的な革命は、アスガルド人にも影響を及ぼした。
この頃北アスガルド大陸は、国の数が少ないにも関わらずそれぞれ政体が違っていた。
いや、揃っていたと表現する方が正しいかもしれない。
当時、アスガルド帝国は皇帝を中心とした絶対王政下にあり、エイリーク公国は特権階級による議会を置いた王政を敷いていた。
これに対してノルド王国は事実上の立憲君主体制に移行し、国王は権威君主に近くなっていた。
また自由都市の代表であるミーミルヘイム市を中心とする諸都市群は、ネーデルランド連邦やヴェネツィア共和国と同様に市民(大商人や富裕層)によって政治が行われる共和制を敷いていた。
またソルフルーメン川以南の地域は、殆どがノルド王国の広大な植民地として過酷な統治が行われている場合が多く、北アスガルド大陸北西部もアスガルド帝国の辺境領と言う形をとった植民地だった。
また、自立もしくは独立を維持しているスクレリング達は、原始的な王政社会また部族社会を形成していた。
アスガルドに存在しない政体は、民意を市民の選挙によって反映できる民主主義だけと言うことになるだろう。
そしてその新しい政体を作り出すための革命が、フランスで開始された。
政治的混乱はアスガルドよりも震源地により近いヨーロッパの方がずっと大きく、ヨーロッパ各国は革命に干渉して、何とか失敗に導こうと画策した。
この動きにアスガルド人の権力者達も同調する向きが強く、依然として北ヨーロッパ諸国を仲介しながらだったが、フランスへの干渉を実施した。
しかし各種干渉は失敗し、フランス国民に団結をもたらした。
そして革命から十年後、ナポレオン・ボナパルトという巨大な人物の台頭と、革命に続くヨーロッパ世界全体を巻き込む大争乱をもたらすことになる。
では、アスガルドの大地は、どうだっただろうか。
そもそもアスガルドは、かつてのヴァイキングが作り上げた開拓者の世界だった。
勢力圏の拡大も、常に入植と開拓に伴う人口増加によってもたらされていた。
ヴィンランドから再開された開拓の歴史を紐解くと、11世紀中頃から700年以上が経過していた。
最初の国家が誕生してから数えても約400年が経過していた。
現在の体制がほぼ固まってからも既に1世紀以上が過ぎていた。
最も巨大な国家に成長したアスガルド帝国は、1755年に建国百周年の祭りを盛大に行ったりもした。
つまりは、若い土地、若い民、そして若い国の世界だった。
そしてかつてのグリーンランドでの保守的な暮らしへの反動と本来の気質から、アスガルド人は新しい事への挑戦心が強く、彼らは生来開拓を旨とし前に進むことを強く肯定する人々だった。
このためノルド王国は、国家分裂後に新たな政治体制への移行を混乱も少なく行えた。
またこの時も、ヨーロッパでの大きな変化の影響を受けながらも新しい道を模索しようとしていた。
具体的には、憲法の改正と民意を反映する議会の開設である。
これまでは貴族、富裕層が議員となっていたが、これらを「上院」として他にも一定の基準によって民衆から選ばれる人々による議会、つまり「下院」を設けるのだ。
しかも議会には憲法に対する権限を大きくし、議会、立法府、法務府の権力を分ける構造を作り出すための研究や行動が積極的に行われるようになる。
アスガルドで最も成熟し、時間をかけて作られた社会を有するノルド王国だからできたと言えるだろう。
また色々な考え方が、ヨーロッパを中心としたユーラシア世界からもたらされていた事も、非常に重要である。
アスガルド人だけでは、新たな考え方、政治、などを始めることは難しかっただろう。
一方、アスガルド大陸で最も若く、最も巨大な国となったアスガルド帝国はどうだっただろうか。
アスガルド帝国は、アスガルド歴739年(西暦1789年)の時点で建国から約130年で、総人口は建国時点から三倍以上に膨れあがっていた。
しかも人口は依然として拡大傾向にあり、農村部では若年人口が非常に多い状態が続いていた。
早婚と多産は、「開拓と前進」という国是と共に、アスガルド帝国臣民にとって美徳とされていた。
また20年から30年で皇帝が禅譲で代替わりする慣習があったので、この頃の皇帝は第七代目のオーラヴ二世だった。
(※ステイグリム朝の帝位=シグルト1世→シグルト2世→シグルト3世→シグルト4世→シグルト5世→オーラヴ1世→オーラヴ2世)
なお、アスガルド帝国での帝位継承は終身ではなく禅譲が基本なのだが、これは初代皇帝シグルト一世が禅譲したことが強く影響していた。
若干二十歳で初代皇帝となったシグルト一世は、二代目のシグルト二世が今で言う過労で急死したため、孫に当たる三代皇帝シグルト三世の半ばまで影響力を行使することになった。
そして巨大な官僚団と軍隊を率いる絶対君主の皇帝は、日々書類に埋もれる激務が基本であるため、長期間の統治や老齢となった場合には、皇帝の精神と肉体が耐えられないとシグルト一世は考えた。
そこでかつてのローマ皇帝を一部参考として、長子が帝位に就く制度と共に生前の禅譲を国の基本制度として盛り込んだ。
単純に言えば、15才で成人、20才ぐらいまでに婚礼して第一子(皇太子)をもうけ、30才ぐらいで皇帝に即位、そして50〜60才程度で皇太子に禅譲を行うという指針だ。
そして先帝は禅譲後は皇城を出て隠居し、基本的に政治に関わらない事とされた。
これを初代皇帝の勅書として明記させ、幾つかの緊急事態、不測の事態に対する但し書きとともに帝位継承の不変の法とされた。
他にも幾つか取り決めが行われ、可能な限り帝位継承に伴う権力闘争や身内内での争いを避けるように、皇族の為の法が整えられた。
絶対権力者の皇帝を、国家のシステムとしての側面を強めたとも言えるだろう。
また親族が皇帝を傀儡とする事を阻止する制度も、かなり深い部分まで決められた。
全ては、国家を円滑に運営するためだった。
無論全てがうまく運んだ訳ではない。
長子以外の誰かを帝位に就けようと、暗殺劇、権力闘争もたびたび起こった。
兄弟内の骨肉の争いが起きたこともあった。
皇帝の子供を産んだ女性同士の暗闘や、皇帝をたぶらかそうとした事もあった。
時の皇帝のそれぞれの皇族の後ろ盾となる人々の暗闘は、ほとんど日常茶飯事だった。
皇帝自身も、中には禅譲を渋った皇帝もいるし、怠慢で職務を滞らせた皇帝や、華美や遊興にふけった皇帝もいた。
そして僅か150年ほどの間に在位したのは7人の皇帝だったが、半数は何らかの問題を持っていた。
それでも暗君や愚帝は立たず、帝国と皇帝というシステムはそれなりに機能し、国家を成り立たせていく重要な根幹となった。
これはひとえに、官僚団や軍の機構・制度が優れていた為でもあったと言えるだろう。