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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ10-2「産業革命開始以前の世界情勢(2)」

 一方、アスガルド帝国との関係を深めていた日本の江戸幕府だったが、17世紀後半から商業以外での海外進出を徐々に行うようになっていた。

 

 まずは近在の蝦夷島、台湾などへの初期的な進出や入植が行われ、それぞれの地域から日本で不足する木材資源が取得され、森林が伐採された平地は余り始めていた人口の吐き出し地とされるようになっていった。

 

 18世紀に入ると、自国内での絹産業の発展に伴い清朝からの絹の輸入が徐々に減少し、逆に世情が安定した清朝への海産物の乾物の輸出が大きく伸びていた。

 そして海産物確保のを主な目的として北氷海へ進出し、そして現地の沿岸部で金鉱を見つけることで大きな移民が実施された。

 また北方で取れる毛皮が国内ばかりかアスガルド人、さらにはヨーロッパ人にも重宝されたため猟場の拡大が進められ、サハ地方の奥地で同じ目的で東に進んできたロシア人と出会うことが増えた。

 

 サハ内陸部では日本人の数が基本的に多いため、ロシア人(主にコサック)は徐々に東に来ることができなくなって、その分日本人が西に進んだ。

 ただサハ地方を中心とするユーラシア大陸北東端部は人の居住に向いた場所ではないため、何らかの物産取得を目的とした人々だけが住むに過ぎなかった。

 

 そうして18世紀中頃に日本人に注目されるようになったのが、世界最後の手つかずの大陸だった。

 

 南太平洋とインド洋の間にある大陸の事は、17世紀中頃に日本人にも確認されていた。

 だが、当時はヨーロッパ人もアスガルド人も不毛な大地として関心を示さず、僅かな数の原住民以外で人は住んではいなかった。

 日本人も例外ではなく、取りあえず発見した証拠となる動植物を採取し、自分たちが到達した証を幾つか置いたに過ぎない。

 

 大陸の名については、1642年にネーデルランドのタスマンが発見した「テラ・アウストラリス」、オランダ名「ニュー・オランダ」とその近在の島(ファン・デ・イーメンスランド=タスマニア島)、さらにニューゼーランド(=ニュージーランド)の名をそのまま自分たちの言語に改名して流用することにした。

 このため日本人達は、乾いた南の大陸の方を「豪州大陸」、ニュー・ゼーランドについても「新海諸島」と定めた。

 

 その他、南太平洋に点在する島々についても幾つか確認が行われ、時折物好きな日本商人が鉄製品や陶磁器、武器などの道具を売りに出かけ、その対価として南方の珍しい物産を日本に持ち帰った。

 アボリジニの工芸品は、元禄時代の日本で大変重宝された工芸品の一つだった。

 

 そして珍しい場所という以上の価値が見いだされるようになったのは、18世紀に入ってからだった。

 

 しかしその価値とは、遠流つまり流刑地としてだった。

 

 日本でも帆船による移動技術が発達したため、日本近在の島程度では流刑地足り得なくなっていた。

 また、それまで流刑地とされていた北の大地もそれなりに開発が進んだため、現地の人間が犯罪者が送られてくる事を嫌うようになっていた。

 中部大東洋の島々や東南アジア地域についても同様だった。

 このため五代将軍徳川綱吉の頃に、最初の流刑者の群と流刑地を運営する役人、護衛の武士(兵士)が豪州大陸南東部の一角に上陸した。

 

 これが日本人による豪州植民の始まりであり、以後半世紀近く流刑地としての植民地開発が進む。

 この豪州流刑地では開拓による減刑が実施され、日本との距離の問題もあって刑期を終えた後もそのまま住み着く者も現れ、そうした人々から子孫を残す形での恒久的な入植地の建設に対する要望が増えた。

 

 そして八代将軍徳川吉宗は、遂に本格的な豪州大陸開発に着手する。

 これは日本列島内での人口飽和がいよいよ深刻さを増した事、都市に流れ込む流民状態の農民が増えすぎた事への対策でもあった。

 

 幕府は、都市部に流入していた農地を棄てた農民と、武士、農民を問わず、継ぐべきもののない次男坊、三男坊、同様の女性を集めて移民団を編成し、計画的に豪州大陸へと送り込むようになる。

 農地を棄てた農民に対しては、ほとんど犯罪者として強制的に移民に送り出した。

 

 そしてこの時期(18世紀中頃)、豪州大陸で大量の金が見つかった事で黄金活況が起きる。

 当然、移民者の数は一気に増え、以後一つの社会を形成できるまでに豪州が発展していくようになる。

 

 新海諸島での移民と開拓は、豪州での移民と開拓が一定段階を過ぎて以後で、18世紀末に最初の移民団が気候が温暖な北島に上陸している。

 


 また当時(18世紀中頃)の日本人達は、マラッカ海峡、スンダ海峡を押さえて東アジア交易の覇権を握っていた。

 ライバルとして中華系商人達が居たのだが、彼らは17世紀中頃の明清革命で勢いを落とし、その後も清朝の海禁政策で進出を抑制された。

 その上日本人のようにヨーロピアン式の外航洋帆船を有しなかったため、日本船との運搬料競争に敗北した。

 各地に進出した日本人に数でも圧倒されるようになり、終始劣勢のままだった。

 イスラム商人、インド商人は、日本人よりもヨーロピアンとのインド洋での競争で敗北して衰退し、東アジアにやって来るのは一部のヨーロピアンだけとなっていた。

 

 かつてはスンダ諸島のかなりの場所がヨーロピアンの占領地や植民地だったのだが、16世紀末頃から一世紀の間にアスガルド人の反キリスト教運動で多くが駆逐され、その前後に商業進出した日本人達に数で圧倒され退かざるを得なかった。

 

 このためヨーロピアン達は、マラッカ海峡のシンガプーラ島やジャワ島のジャカルタなどで主に日本商人から香辛料を買い付け、一部が許可を得て東アジアに入って中華地域のお茶と陶磁器を購入した。

 お茶と陶磁器は日本人も生産し、陶磁器については日本人も多数をヨーロッパに輸出していた。

 しかし黒茶(=紅茶)などの発酵させたお茶の栽培、製造を日本はほとんど行わなかったし、東南アジアの一部で生産したものも、あまりヨーロピアンからは好まれなかった。

 このためヨーロピアンは、日本と中華二つの地域から違う商品を買い付けてヨーロッパへと帰っていった。

 


 そしてそのヨーロピアンだが、東アジア世界、大東洋、そしてアスガルド大陸では完全な部外者であり、極めて少数派だった。

 特にカトリック教徒とキリスト教系のあらゆる宗教者は、18世紀に入るまでほぼ完全に排除されていた。

 やって来るのも商人に限られ、軍艦も親書や国書を携えた船以外の軍用艦の通行をほとんど許されなかった。

 この傾向は南北アスガルド大陸で特に強く、アスガルドに入れる船は、アスガルド人と同根民族であるスカンディナビア系の人々が造った船だけだった。

 旗などで嘘を付いた事がばれると、殆どの場合は戦闘相手ではなく犯罪者として処分された。

 カトリック系宣教師が密航などの後で見つかった場合、最初は体に刻印を焼き付けた上でヨーロッパに強制送還され、刻印者が再び来航した場合は無条件で死罪とした。

 即死罪としなかったのも、ヨーロッパ社会との貿易を維持するために、ヨーロッパ側の感情を最低限考慮したためだった。

 接触初期の頃と違い、アスガルド人もその程度には寛容になっていた。

 

 しかし東アジアを除くユーラシア大陸の全域とアフリカは、ヨーロピアンの勢力圏であり領域だった。

 

 無論アジアの各地には、いまだイスラムやインドの国々が存在していた。

 アフリカにも幾つか文明的に遅れているとされる先住民の国々があり、何より土着の疫病の存在がヨーロピアンの進出を拒んでいた。

 

 だがヨーロピアンには、鉄、火薬を用いた高度な武器があり、帆船という移動手段があり、それらを生産、供給できるだけの高度な社会が存在していた。

 

 アフリカ大陸沿岸各地には各国の植民地が開かれ、武器や道具を売って得た膨大な量の奴隷を使った単品栽培が行われていた。

 ヨーロッパ世界が必要とする南方の物産の多くが、そうして生産された。

 またアフリカ南端部のケープは、アフリカ南部で唯一の温帯地域のためヨーロピアンの入植が積極的に行われていた。

 この地の所有者は初期においてはイスパニアだったが、17世紀半ばにネーデルランドに代わり、ネーデルランドの統治が続く中でネーデルランドを始めヨーロッパ各地から移民が少しずつ流れていた。

 またネーデルランドは、インド南端のセイロン島を有し続け、アジア交易で一番の勢力を持っていた。

 

 しかし他の国も負けてはおらず、フランス、イングランド、スウェーデン(大ヴァルト帝国)、古くはイスパニア、ポルトガルが、アフリカ沿岸や近在の島嶼にそれぞれ植民地を構えていた。

 そして前者4つの国は盛んにインドへの進出を強化し、中でもフランスとネーデルランドが大きな橋頭堡を築きつつあった。

 

 イングランドは近在のスコットランド、アイルランドとの対立がいまだに消えず、アスガルド人も嫌がらせのような妨害活動を行うため、海外進出に常に足かせがついたままだった。

 ネーデルランド、フランス、スウェーデンとの進出競争でも常に劣勢だった。

 

 スウェーデンは大ヴァルト帝国を作ったまではよかったのだが、ドイツ域内での新教・旧教の対立とポーランド分割問題、さらには東のロシアとの対立に国力の多くを取られ、ロシア、オーストリアとの三竦み状態に陥っていた。

 しかもドイツ域内で広がる大ドイツ主義の拡大に伴い、国としての努力を内政に多く費やさねばならなかった。

 オーストリアは内陸国家であり、国内に民族問題を抱えているため、外への進出ができないでいた。

 ロシアは黒海を目指した進出を達成したが、シベリアの向こうにあるサハ地方以東にいる日本人のため、大東洋進出には完全に失敗していた。

 


 そうしてインド進出競争は、イスパニア脱落以後はネーデルランドとフランスの一騎打ちに近くなったのだが、情勢は年々フランス優位に動いていた。

 

 基本的にネーデルランドは、商業が盛んながら人口、領土面で規模の限られた国だった。

 独立以後も南ネーデルランドの東部、ドイツ地域の北西部の幾らかを国土もしくは勢力圏としたが、ロシア以外で最大級の農業大国であり大人口を抱えるフランスを前にすると、単純な国力差、軍事力の差で太刀打ちできなかった。

 

 海では勝てるのだが、国境を接するためどうしてもフランスに一歩及ばない状態が続いた。

 

 この傾向は「イスパニア継承戦争」でイスパニアの没落が決定的となるとむしろ大きくなり、ネーデルランドはスウェーデンと共にドイツ蚕食に努めると共に、連携を取る向きを強めていく事になる。

 しかし「オーストリア継承戦争」では、スウェーデンはほとんど中立を貫いて北ドイツ東部の地固めに走ったため、オーストリアが勝利してネーデルランドは敗者の側に立たされる。

 このため今度は、オーストリアからもネーデルランドは圧力を受けるようになる。

 しかしスウェーデンは、既に自らも近年女王を仰いでいたので、オーストリアのマリア・テレジアに対して多少同情的だったという、既に老齢だったカール12世の個人的感情があったことを忘れてはいけないだろう。

 

 その後ネーデルランドは、「オーストリア継承戦争」中に解消したスウェーデンとの関係を再び強化して巻き返しを計るが、今度はフランスがそれまでの外交方針を転換してオーストリアとの関係を強化すると、再びネーデルランドの不利となる。

 そこにスウェーデンとオーストリアの対立が先鋭化し、「七年戦争」が勃発する。

 

 一見ドイツ内での勢力争い戦争だが、新教と旧教という図式での最後の戦争でもあり、戦争にはフランス、ロシア、ポーランドまでが絡んだ、ヨーロッパのほぼ全ての国を巻き込んだ戦争となる。

 

 この戦争ではスウェーデンが激しく戦い、先代のプロイセン公爵フリードリヒ将軍による軍政改革の成功とその息子のフリードリヒ将軍による見事な戦術手腕により、スウェーデンは勝利を飾ることができた。

 これによりオーストリア、ロシアを軍事的に完全に叩き、スウェーデン有利のまま講和に持ち込むことに成功している。

 

 なおスウェーデンは、ロシア皇族にプロイセン領内のエカチョリーナを外交婚姻で送り込んでいたが、そのエカチョリーナ自身がスウェーデンと和平を結んだ弱腰の皇帝に対して宮廷革命を起こして自ら女帝となるという、スウェーデンからすれば飛んだハプニングも起きている。

 

 一方ネーデルランドは、スウェーデンが自らの戦争で忙しいため支援を受けられないままで、大国フランスとの戦争を行わざるを得なかった。

 結局ネーデルランドは、海上と植民地では勝利するも本国近辺での陸戦で敗北してしまう。

 

 また、新教側での他の勝利者として、ヨーロッパ内の戦いに殆ど参加しなかったイングランド王国が存在する。

 イングランドは、ブリテン内のスコットランドに勝利して以後大ブリテン島で大きな勢力を持つようになる。

 


 そして戦争に勝利したフランスはインドでの植民地拡大に成功し、ネーデルランドはセイロン島以外のインド地域からは、ほぼ叩き出されることになった。

 

 そうした状況で発生したのが、1775年に起きた「大西洋戦争」である。


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