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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
19/42

フェイズ09-2「アスガルドの発展(2)」

 日本人の事はともかく、大陸西海岸の温暖な地域に一気に人が増えたことは、アスガルド帝国による大陸大街道建設を大いに後押しすることになる。

 富への欲望はもちろん、経済的重心の存在は道を引く大きな動機となったからだ。

 建設のための資金も、莫大という以上に手に入ってもいた。

 しかもビブレスト山脈では、その後も金、銀の鉱山が相次いで見つかり、アスガルド帝国の財政を豊かなものとすると同時に、人の流れを作り出すことになる。

 なお、ビブレスト山脈での金山、銀山開発には、この頃環太平洋全域に散らばるようになっていた日本人の「山師」が活躍している。

 このためアスガルド帝国でも、金銀採掘業者の事を「ヤマシ」と呼ぶほどだ。

 

 そうして18世紀中頃の西暦1748年、アスガルド歴698年、遂にミシシッピ川流域から西海岸中部のアールヴヘイム入植地をつなぐ大街道が完成した。

 

 この大街道が完成する頃には、アスガルド帝国の実質的版図も北アスガルド大陸北西部一帯に広がり、街道建設の歴史がほぼそのまま帝国の版図拡大の歴史ともなった。

 最も辺境だった西海岸北部のスヴァルトアールヴヘイム(現スヴァルトヘイム地方)にすら、かなりの人が住むようになっていた。

 

 街道建設前までは、中西部に広がる大草原は地面が固く麦を植えるには雨量も少なく、さらには草原であって森林ではないため、農地には全く向かないと考えられていた。

 しかしある程度灌漑などで水が得られる場所ならば、大街道から送り込まれる前産業革命前の文物でも、それなりに開拓できるようになった。

 水そのものについても、場合によっては初期的なダムによって確保された。

 この時期になると、巨大土木建築はアスガルド帝国の得意とするところとなっていた。

 大草原の下にある硬い土も、鉄を多く使った重い鍬などの農具ならば開拓出来ない事もなかった。

 粉ひきについても、水車でなくても風車で代用すればよかった。

 

 重量1トンに迫る巨大な重種の馬や同等の巨体を誇る牛(又は水牛)に鉄を多用した重く大きな鋤を引かせ、優れた土木技術で作られた灌漑施設で水を引く。

 全ては文明の運び手である大街道自体がなければ、大陸の奥地にまで持ち込めなかっただろう。

 

 ヨーロピアンとしては、ローマ帝国以来とも言われる前産業革命的な大土木工事が、広大な大陸の開発を可能としたのだった。

 

 ただし、半世紀ごとに倍々ゲームのように増える人口が、アスガルド帝国による版図拡大を物心両面から支え、そして拡大を求めた事も忘れるべきではないだろう。

 

 建国時2000万人程度だった人口は、一世紀ほど経った19世紀初頭には、広大な版図内を開拓しながら8000万人にも増えていた。

 この豊富な人的資源が、前近代以前の大規模土木事業を支えたなによりの原動力だった。

 大街道建設でのスクレーリングの奴隷の存在による労働力の成果を指摘する説もあるが、奴隷の数は最盛時でも30万人を越えることはなかった。

 西部のスクレーリングは基本的に放牧民であるため、人口そのものに限りがあったからだ。

 それに引き替えアスガルド人は、常に100万人以上が街道建設に従事していた。

 増え続ける人口からあふれ出る余剰労働力が、建設を支えていたのだ。

 またアールヴヘイムの巨大金鉱は、アスガルド帝国に莫大な富をもたらし、今まで不足しがちだったものが有り余るほどの貨幣流通を可能とした。

 この経済の拡大も、街道建設に大きく貢献している。

 

 ある意味1500年以上経て出現したローマ帝国の一形態が、この時期のアスガルド帝国だったと言えるかも知れない。

 

 そして国家の繁栄を現すかのように、帝都フリズスキャールヴには王宮、大神殿など巨大建造物が次々に建設され、街も幅広の街路を中心にして巨大化していった。

 建国頃の木造建築は、もはや古代の遺跡のような扱いだった。

 


 一方のノルド王国は、アパラチア山脈の西の分水嶺から五大湖の中間当たりが、半ば人工的に引かれたアスガルド帝国との国境になっていたため、国内に開発できる土地が不足するようになっていた。

 それでも国土面積は、この頃のフランス2個分以上あったのだが、独立されたアスガルド帝国は国土面積だけなら全ヨーロッパよりも広い程であり、分裂時点で総人口の面でも劣っていた。

 

 このため得意の海運を利用した交通路を駆使して、メヒコ地域、エーギル海、南アスガルド大陸の開発に力を入れた。

 また、いまだ未開発の地域を多く残している国内開発にも一層の力が入れられ、海外植民地で得られた金銀とその他の富みを惜しげもなく投じた。

 

 国内の農業対策、人口増加策としては、これまで簡単に開発できた土地だけでなく、開発が難しい地域の開拓、開墾に力が入れられた。

 そしてアスガルドにはないアドバンテージである都市の開発も手抜かりはなく、いっそう商工業に力を入れた投資が行われる。

 北ヨーロッパ諸国を経由したヨーロッパの先端技術輸入、密輸も熱心に行われ、人口面で太刀打ちできないアスガルドに対する質的優位の確保に力が入れられた。

 先端技術については、世界中で漁ってすらいた。

 

 また、南アスガルド大陸・ムスペルヘイム南部のアウルン・ゲンマで、巨大な金鉱とダイヤモンド鉱山が見つかった事も、ノルド王国の経済発展と国力増大に大きな影響を与えていた。

 アウルン・ゲンマで一世紀の間に採掘された黄金だけで1000トンにも及んでいる。

 この単純な富の拡大がなければ、ノルド王国の富の蓄積も難しかっただろう。

 

 こうした中で、五大湖南東部の商工業都市のかなりが、ノルド王国に従属する形が強まるようになり、分裂から一世紀も経つと自由都市とは名ばかりのノルド領となる都市が多くなった。

 唯一自治を保ったのは、エイリーク公国との国境であり五大湖東部のアスガルド側の商工業都市と五大湖西部、ノルン川を結ぶ位置にあるミーミルヘイム市とそれに従った周辺都市だけだった。

 

 ミーミルヘイム都市群が自治を維持できたのは、まさにその地理的条件にあった。

 そしてそれぞれの国家にとって、どこにも属していない事が好ましいため、ほぼ唯一の「共和制国家」としてその後も存続するようになる。

 各都市の規模も年々拡大し、商工業が発達した。

 特に中間貿易と金融業の発達は著しく、中核となるミーミルヘイム市を見たヨーロピアンは、アスガルドのアムステルダムもしくはベネツィアだと評した。

 アスガルド人も、ミーミルヘイム市の事を「分岐点」と呼んだ。

 

 その証拠とばかりに、大商人と中小商人によって運営された唯一の共和制地域で、町には大商人の邸宅が所狭しと立ち並び、ヨーロッパの同種の都市を遙かに凌駕する繁栄と規模を誇るようになった。

 都市の規模も18世紀中頃で50万人を越えており、アスガルド帝国の帝都フリズスキャールヴ、ノルド王国の王都ヴァルハラの次に人口の多い町となった。

 


 ミーミルヘイム市の事はさておき、分裂後のアスガルド各地では一定の安定と技術の発展もあって都市の拡大が進んだ。

 

 分裂以後のノルド王国の建造物の特徴は、高層建築と「白壁」にあった。

 一方のアスガルド帝国が、「帝冠様式」と呼ばれるヨーロッパのゴシック様式を自らの好みで改めた重厚な建築物に突き進んだのと対照的に、ある種幻想的ともいえる白い壁と華やかな色合いの瓦屋根に覆われた建造物を造り続けた。

 加えて都市部での建造物は高層化が進み、商都として発展していた港湾都市のノウム・ガルザルを海上から見ると、白亜の建造物群が海辺まで迫りそれが海面にも映るため、訪れた人々に大きな感銘を与えるほどとなった。

 また一種懐古的な巨石建造物が、神殿、王国の施設として多数建造されるようにもなった。

 改築された王立神殿と王宮がその最大規模の建造物の双璧であり、両者とも取りあえずの形になるまでに四半世紀、完成するまでに一世紀以上の時間がかけられた壮大な規模を誇った。

 またノルド王国、アスガルド帝国を問わず、上に伸びる建造物が特徴的であり、神殿、国の建物が高さを競い合った。

 このため丘の上や小高い場所に建物を建てることが好まれ、水の便を忍んで平地から急に丘や斜面となる場所に大規模な建造物がいくつも造られた。

 領土各地の貴族の城館、別荘なども規模と壮麗さを競い、戦争、戦闘とはほぼ関係のない城や宮殿、邸宅が急速に増えていった。

 

 このノルド王国の傾向は、アスガルド帝国、五大湖沿岸都市、エイリーク公国など全てのアスガルド人社会にも普及し、アスガルド帝国ではノルド王国を越える規模の重厚な帝冠様式の建造物が幾つも造られたりもした。

 帝都フリズスキャールヴに建設された巨大な宮殿と大神殿は、ユーラシアに勃興した巨大帝国での同様の建造物と比較しても見劣りしない規模と壮麗さを誇った。

 ただし、アスガルド帝国の建造物は、巨大であっても質実剛健さを好む傾向が強いため、華美や壮麗という言葉からは遠い建造物が殆どを占めてもいる。

 こうした例外は地震の多い西海岸地方で、西海岸では重厚な揺れにも強い低層建築が目立つことになる。

 

 一方、文化面での発展となると、アスガルドの大地は自らの巨大化に対して鈍感というか、あまり興味を向けていないような状態が続いた。

 がむしゃらに新大陸を「使える」ように開発することにばかり熱意と資金が向き、世界史上での世界各地の巨大文明、巨大国家ほど文化の発展は見られていない。

 文化の多くも、世界各地から集められたもので代替する事が多かった。

 文化の移植については、自らが蔑むアスガルド世界内の旧蛮族国家のものを取り入れることにも抵抗感は低く、自らの好みに合わせて使った。

 

 それでも同じ白人文明、文化を使う傾向が強く、ノルド王国、エイリーク王国は、主に北ヨーロッパ趣味だった。

 アスガルド世界が、結局の所ヨーロッパ的風俗を持ち続けたのも、文化の発展に対する鈍さが影響していると言われることが多い。

 

 アスガルド帝国は特に文化の発展が鈍いとされ、ノルド王国、ヨーロピアンに対する反発もあったため、アジア地域、特に交流が盛んだった日本からの文化輸入が盛んに行われている。

 中華文明などアジア各地の文物も好まれた。

 

 多少の例外は五大湖都市国家群で、ミーミルヘイムなどの商業都市では、ルネッサンス期の北イタリアのように金持ち達がアスガルド人による芸術や文化の振興に大きな役割を果たしている。

 そして18世紀の中頃ぐらいから、世界史上でも評価に値すると言われるアスガルド独自の文化や芸術が数多く見られるようになっていく。

 これはとりもなおさず、アスガルド世界が内実において充実を見せるようになった何よりの証拠と言えるだろう。

 


 一方、豪勢で巨大な建造物の建設を可能としたのが、アスガルドの大地が産み出す豊かな富とそれを作り上げる産業だった。

 

 ノルド王国の中心となった工業・産業としては、北部の羊毛、中部の綿織物、そして各地での造船になる。

 18世紀の時点で、どれもがヨーロッパ世界と同程度か勝るほどだった。

 しかしそうした産業よりも、南北アスガルド大陸に広がる広大な植民地からもたらされる富み、ヨーロッパへ輸出される砂糖、煙草といった物産による富みによる蓄積で拡大した金融産業が大きな比重を占めていた。

 そして広大な植民地を有するノルド王国は、自国内でもヨーロッパ世界で行われているような為替や両替が必要であり、また船舶関連の産業が保険業を発達させる大きな要因となった。

 両替商や高利貸しではない近代銀行組織が発達したのも、文明が先に進んでいる筈のヨーロッパではなくノルド王国においてだった。

 

 巨大な資金を運用する金融業は、資本集約の形でエーギル海の砂糖、煙草産業をさらに成長させていった。

 南北アスガルド大陸から供給されるスクレーリングの奴隷もしくは低価格労働者、北アスガルドで生産される各種加工製品、そして全てを金銭(または為替)でやり取りする交易形態、これら全てが莫大な富を有するノルド王国北東部の都市を中心にして動いていた。

 

 アスガルド帝国は、開拓国家としての巨大な人口を背景にした国力を有していたが、人口面で劣勢となったノルド王国の優位は分裂から一世紀を経ても依然として保たれ、むしろ洗練されていった。

 

 これは、ノルド王国が単に広大な植民地を有しているからだと言い切ることが出来ない。

 上記したような経済活動の結果産み出された総合的な意味での経済力が、ノルド王国の国力を作り上げていたのだ。

 

 同種の行動は、アスガルド帝国だけでなく、同時期のネーデルランド、イングランド、フランス、スウェーデンなどヨーロッパ西部諸国を中心にして行われていたが、富の保有量の差からノルド王国が一歩先んじていた。

 これはヨーロッパ諸国が、南北アスガルド大陸、せめてエーギル海に一定の植民地を有していれば違っていたと言われる事もあるが、豊かなアスガルド大陸を有するのはアスガルド人でしかなかった。

 


 そしてその豊かな富みによって都市が発展したのだが、同時に都市住民、中産階級、市民などと言われる人々の力も大きくなっていった。

 

 ノルド王国での市民台頭は、アスガルド戦争での徴兵による義務履行が大きな切っ掛けとなった。

 そして商工業の発展により経済力を付けると、同時に発言権を増した。

 そして戦後の混乱と改革が、次なる変化への土壌となった。

 

 そしてノルド王国では、安定期の中で緩やかにそして確実に自ら体制を改める方向に動いた。

 

 もともとノルド王国では王の権限が比較的弱かった事が、貴族と裕福な市民双方によって成立する議会の誕生を促した。

 またアスガルドの分裂後は啓蒙的な君主が続いた事が、議会、憲法によって運営される国家改変を可能としていた。

 もっとも、啓蒙的と言えば聞こえがいいが、巨大化した国家での事務仕事に、王達が音を上げてしまったというのが一番の理由でないかと言われることが多い。

 自らの下に官僚団を置く絶対王政という方法もあるが、こちらも王の仕事が極端に減るわけではない。

 その上国は商工業が発展して複雑化していた。

 とてもではないが、絶対王政でも王一人ではどうにもならない時代が到来していた証だったと言えるだろう。

 

 王達が激務となっていた政治に飽きていたためか、ノルド王国の政治的な変化に争いは殆どなく、ある程度の暗殺劇、粛正劇こそ見られたが、大きな争乱には遂に至らなかった。

 この背景には、アスガルド帝国との対立とヨーロッパ世界からの干渉に対する警戒感があったことも間違いないだろう。

 

 また一方では、議会と憲法を軸とした一種の立憲体制は、富める者の権利と行動を守ったため、国民からは非常に歓迎された。

 そして資本主義社会へ向けての発展を促す土壌ともなり、市民、国民からの支持が強かった事が、その後も議会、憲法が重視される大きな要因だった。

 

 ノルド王国での変化は、次なる時代を開く大きな道しるべだったのだが、世界はまだ旧体制下にあった。


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