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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
18/42

フェイズ09-1「アスガルドの発展(1)」

 西暦で18世紀になる頃には、ヨーロピアン達は多くが自分たちの争いに戻ったためエーギル海は静かになり、アスガルド人にも余裕が出来た。

 もっともアスガルド人もノルド王国とアスガルド帝国に分かれた対立があり中立勢力も存在したが、誰もが安易に手が出せない事もあって、どの国も国力、経済力の拡大、さらには植民地の開発に力を入れた。

 

 北部では、エイリーク公国で生産される羊毛によって毛織物業が大きく発展した。

 南部では広大な綿花畑が作られ、紡績業が発展する。

 エーギル海では、北アスガルドから各種道具と西部や南アスガルド大陸で得たスクレーリング奴隷という労働力を投入することで、資本主義的なサトウキビの単一栽培が広まっていた。

 

 大規模な戦乱があった事もあり、17世紀はアスガルド世界での工場制手工業の一大発展期だった。

 

 そしてノルド王国では、古くから続く開拓の進展による燃料資源としての木材不足により、足下にいくらでも転がっている石炭の多用に変化した。

 それが蒸留酒作りの応用から「脱炭コークス」が発明され、各種燃料として爆発的に普及した。

 同じような発見は、ヨーロッパのネーデルランドやイングランド、中華地域でも見られたが、規模においてアスガルドの方が大きかった。

 

 また作り出した製品のかなりが、いまだ爆発的な開拓と入植が行われている北アスガルド大陸各地と、財政再建を進めるノルド王国により進められた南アスガルド大陸での開発に伴って多くが消費された。

 

 このためヨーロッパ諸国のように、遠路加工製品を売りに行かなくてもよい状況が長らく続き、開拓による国力と人口の大幅な拡大が続いた事もあって、国力と経済力の拡大は両輪となって突き進む状況が続いた。

 ヨーロッパとの進歩速度の差は、数倍にも及んでいるという研究資料も存在するほどだった。

 

 しかし、アスガルド社会が二つもしくは三つに分かれた事で、弊害と利点も生まれた。

 

 利点の方は、国内で対抗勢力が出来たことによる軍事技術の向上と大量の軍需の発生だった。

 工場制手工業の発展の一端は、巨大な軍需がもたらしたものだった。

 逆に軍備に各種資源と資金を投じなくてはならないため、経済発展の足を引っ張ることもあった。

 

 そして最大の利点と欠点は、ノルドとアスガルド抱える領土と市場、海外植民地が存在したことだった。

 

 五大湖商工業都市やエイリーク公国を通じた間接的な貿易や交流が行われていたが、基本的に両国は対立状態にあった。

 国境は厳しい制限付きでしか通ることができず、互いの軍隊が監視しあっていた。

 小競り合いも時折起きている。

 逆に言えば、この対立のおかげで五大湖商工業都市やエイリーク公国が存続、そして発展できたとも言えるだろう。

 

 そしてそれまで一つだった事による利点と欠点を、それぞれが別個に抱え合う事になった。

 

 ノルド王国は、北アスガルド大陸の入植地と大人口を失い、農地の拡大による安易な人口拡大が難しくなった。

 難しくなった程度で済んでいるのは、まだ領土内に未開発な土地が比較的豊富にあったためだ。

 一方のアスガルド帝国は、18世紀の時点でもまだまだ開発すべき土地が有り余っていた。

 しかしアスガルド人が抱えていた海外領土の殆どはノルド王国の帰属となり、そこから得られる物産や富の恩恵に大きな制限を受けていた。

 

 それぞれの国について見ていこう。

 


 アスガルド帝国は、アスガルド戦争中に自力で砂糖を得るべく、サトウキビが簡単に栽培できる気候に位置するエーギル海に出た。

 また、独立後の海外展開は、大西洋ではなく大東洋を目指さざるを得ないと判断し、戦争終盤に海軍戦力のかなりを大東洋に回して、かつてフィリピンとも呼ばれていたフレニアをノルド王国から奪い取っていた。

 

 そして、当時入植が始まったばかりだったテキサス地域のソルフルーメン川以南はノルド王国領と認めるも、パナマ地峡の通行権を得て、そこから大東洋側の西海岸に建設されて間もないアールヴヘイム入植地に進出した。

 陸路だと、大草原、ビブレスト山脈、そして樹高100メートルを超える巨人杉の森を抜けた先に、地中海世界に似た肥沃な土地が広がっていた。

 

 そして内陸部から西海岸、さらには北アスガルド大陸北西部一帯の支配権を得たアスガルド帝国は、自らの現状が領土として認められた場所が広いだけの内陸国に近い事を痛感させられる。

 

 現状ではミシシッピ川流域に主な国土が広がっているため、河川が主要な交通手段だったが、河川流域で開発できる場所、農地に出来る場所は人口の急速な拡大と共に減少しており、既に内陸深くに広大な農地が広がりつつあった。

 しかも農地は、今後も船で行けない場所に広がり続けることが見込まれた。

 人口が増えたことで、大規模な灌漑設備の建設などの社会資本整備が可能となっていたからだ。

 

 そこでアスガルド帝国は、旧大陸にあって北アスガルド大陸には少ない社会資本の整備に力を入れる事にする。

 主な社会資本とは、恒久的な街道網の整備だった。

 

 この時手本とされたのは、古代ローマ帝国が建設したローマ街道だった。

 ローマ人が作ったのと同じ恒久的な道を作り上げれば、馬と馬車の通行は容易となり、しかも悪天候でも通行が可能となる。

 そして優れた道が軍隊の移動を極めて迅速なものとする事は、先のアスガルド戦争でも思い知らされていた。

 

 こうして、20フィート(6メートル)ほどの広い道幅をもった石造りの強固な街道の建設が、アスガルド帝国の全域で俄に始まる。

 途中の河川には、出来る限り石材や焼き煉瓦による丈夫で恒久的な橋が築かれた。

 ミシシッピ川のような巨大河川には、各要衝となる港が一層強化された。

 街道整備に合わせて、周辺の治水工事も大規模に実施された。

 また街道にそって灌漑設備が施された場所も数多かった。

 都市の中には計画的に上下水道が引かれた場所もあった。

 道の建設が難しい場所でも、最低でも砂利道が整備された。

 支道、枝道の整備も精力的に行われた。

 石が少ない地域では、道路以外での工事を中心にして焼き煉瓦も多用された。

 

 主要街道各所には、早馬のための詰め所、軍隊の駐屯所が設けられ、同時に一般の旅人や商人のための宿場町の整備も進められた。

 要地には要塞も建設され、主に大平原で騎馬民族国家化したスー族などのスクレーリングに備えた。

 

 また街道や要地を警備するための「騎行隊」の整備も行われ、人々が安心して往来できる道作りが国を挙げて行われた。

 伝馬もいっそう整備された。

 単なる道造りだけではなく、国の動脈作り、情報伝達網作りが目的だったのだ。

 

 そしてまずは、労働力の確保が容易な国内に隈無く主要な街道を引く工事が行われた。

 だがノルド王国に伸びる道については、ノルド王国との協議が持たれた。

 これは相手の警戒感を減らすためであり、社会資本の整備で不要な争いを招かないためだった。

 場所によっては、ノルド王国と共同で街道を整備した。

 ノルド王国も、自らのさらなる国土整備の必要性は痛感していたが故の共同作業だった。

 

 開発には莫大な資金と労力が必要だったが、建国で上向く国威と帝国を支持する人々は負担も受け入れ、巨大な公共事業によってもたらされる景気拡大もあって急速に事業は拡大した。

 

 そして、順次西に延びる「大陸大街道」の建設が進められていく。

 街道の建設は大平原のスクレーリング達の妨害を何度も受けたが、挫折することなく進められた。

 そして進むに連れてスクレーリングを駆逐するか恭順させ、さらには自分たちの中に取り込む事すら行い、街道は大東洋を目指した。

 こうした行動は、実に「帝国」らしい「侵略的行動」でもあり、それまでスクレーリング達の狩り場にして広大な居住空間だった西部大平原に、確実にアスガルド人が入っていった。

 

 この中でアスガルド帝国の政治は中央集権体制を強めるようになり、18世紀に入る頃には絶対王政と言える統治体制に至る。

 この強固な中央集権こそが、北アスガルド大陸の広大な大平原開発を押し進めたとも言えるだろう。

 逆に、交通網、情報伝達網の整備が、広大な地域に広がる帝国の中央集権化を可能にしたとも言える。

 


 アスガルド人が大陸の背骨とも言えるビブレスト山脈に到達したのは18世紀も既に四半世紀が終わった頃で、この時アールヴヘイム入植地から特大の朗報がもたらされる。

 

 大量の砂金と巨大な金鉱が発見されたのだ。

 

 この知らせを当初アスガルド帝国は内密にしようとしたが、既に現地には日本人商人までが一般的に入り込むようになっていたため秘密にできず、ほぼ一年かけて世界中にアールヴヘイムの事が知れ渡った。

 

 現地はそれまでの地味な地名を棄ててイズンと再命名され、主に北アスガルド大陸各地から10万人を越える人々が押し寄せる。

 東アジアからも大東洋を渡った人々が多数押し寄せ、その数は1万人を越え、以後北アスガルド西海岸に東洋人が居住する大きな契機になった。

 

 なお、やって来た東洋人のほとんどは日本人だった。

 他の東アジア諸国は、海禁(鎖国)政策を取っているか自力での移動手段がないため、アスガルドの大地に降り立つことはなかった。

 ただし、アスガルド人の中でもアスガルド帝国が、日本人に限って寛容だった事を忘れるべきではないだろう。

 これはアスガルド帝国が東南アジアのフレニア諸島を領有し、その近在の日本人と多く交易を行っていたためだった。

 またキリスト教を駆逐した「蛮族」として、アスガルド人の中で日本人の評価が比較的高かった事も、関係を深める上で大きな要素となった。

 アスガルド人支配層にとって、日本は世界の反対側でキリスト教を押しとどめる防波堤だという事は常識に近かった。


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