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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
16/42

フェイズ08-2「ヨーロッパでの変化と海賊の時代(2)」

 一方で新教勢力の盟主的地位となったスウェーデン王国は、反スウェーデン同盟を形成したポーランドや旧教側ドイツ諸侯など近隣の国々を次々に戦争で破って、より強く広大な勢力を形成していった。

 

 そして西暦1697年に弱冠15才で即位したカール12世は、戦い半ばの1702年に「大ヴァルト帝国」の成立を宣言するに至る。

 

 この新たな帝国の宣言は、東にあるロシア帝国やスウェーデンの隆盛を嫌うイングランド王国との戦いに際して、国力を結集するために行われたものだった。

 また大ヴァルト帝国の成立によって、プロイセン公国は正式にスウェーデンと発展的に併合し、旧ドイツ騎士団領同様にドイツ中央部、ドイツ民族中心部から切り離されれた。

 この頃のスウェーデンの国力が大きかった何よりの証拠だった。

 これらの再編成によって、スウェーデンは一躍総人口1000万人近く抱える大国として姿を新たにすることになる。

 

 「北方戦争」と名付けられたスウェーデンとロシアの戦争は、あしかけ20年以上にわたって続いた。

 人口を増やし始めていたロシア人の数の多さ、他国の干渉、中欧諸国との戦いなど様々な苦難と苦戦を続けつつも、各地から軍と軍資金を集めたスウェーデンが戦争を有利に進めた。

 そして1721年の「ニスタット条約」により、スウェーデンの勝利で幕を閉じた。

 

 なお、スウェーデン勝利の最大の要因は、戦争初期の1700年冬の「ナルヴァの戦い」とされる事が多い。

 当時弱冠18才だったカール12世が、当時のロシア皇帝だったピョートルを戦死させた事だとされる為だ。

 この戦いでは、単にスウェーデン側の軍事力が大きかった事、ロシア軍が依然として旧態依然とした軍隊だった事が、スウェーデンに勝利をもたらしたと言われた。

 当時ロシアの抜本的な改革途上だったピョートルは、その志半ばでヨーロッパとロシアの違いを知る戦いにおいて命を落とすことになったのだった。

 そしてその後もスウェーデンの優位は動かず、ロシアは多くの土地を失うことになる。

 

 「北方戦争」の結果、スウェーデンは東部のカレリア地域を得てフィンランド地域の国境を安定させると同時に、ロシア人のバルト海進出を完全に阻止する事に成功する。

 スウェーデンとロシアの境界線も、オネガ湖からバルダイ丘陵となった。

 

 そしてこれ以後ロシアは北方進出を一時諦め、南の黒海進出を強化するようになる。

 

 またスウェーデンは、北海での勢力拡大も行った。

 ロシアを叩いた後の返す刀でノルウェーをほぼ完全に属国化し、そのまま北海北部の制海権を獲得。

 シェトランド、オークニーといった大ブリテン島周辺の島々を自国領とした。

 この時イングランド王国との間に戦端が開かれたが、スコットランド王国と連携して勝利している。

 この後にイングランドは、スウェーデンの言うがままの王の変更(新王即位)が行われた。

 しかもイングランドではその後半世紀近くの間も、スウェーデンの政治的影響力が強い状態が続き、スウェーデンの政治操作と経済的搾取のため低迷する事になる。

 

 一方オーストリアの勢力が拡大するドイツ地域だったが、北西部ではネーデルランドが少しずつ北ドイツの小国や自由都市を飲み込んでいた。

 ネーデルランドの行動は、農業国特有の大人口を背景に大国化したフランスへの対向という側面が強く、実際ネーデルランドは同じ新教国のスウェーデン(大ヴァルト帝国)との共闘を常に心がけていた。

 

 そうしたヨーロッパ北、中、そして東地域が混乱している間に、西ヨーロッパ地域の国々が、世界の覇権を求めて活発に活動していた。

 


 17世紀中頃に、イスパニア、フランス、ネーデルランド、イングランドの船が、欲望と野望を胸にアスガルド世界にやって来るようになった。

 これ以外に北ヨーロッパ諸国の船が、純粋な交易のために訪れるようになっていた。

 しかし上記した4国は、平和な交易が目的ではなかった。

 国家の場合は国力拡大のため、個人の場合は手っ取り早い富を得るためだった。

 

 西暦1633年(アスガルド歴583年)に南アスガルド大陸のアンデス山脈にあるポトシ銀山が見つかり、1640年代半ばぐらいから大量に銀を産出するようになっていた。

 アスガルド戦争でノルド王国の戦費を支えたのも、この巨大な銀山だった。

 

 ノルド王国は、既存のメヒコのサカテカス銀山と合わせて、膨大な銀を産出するようになった。

 またエーギル海の島々で大量生産されるようになっていた砂糖は、アジアの香辛料ほどではないがヨーロッパに持ち込めば大きな利益が得られた。

 煙草についても同様だ。

 アスガルド帝国領となったフィマフェング島では、気候を利用して非常に品質の高い綿花(※現代でも世界最高品質と言われる)の生産も開始されていた。

 

 そしてアスガルド戦争が本格化して、エーギル海や南アスガルドでノルド王国の軍艦が減ると、アフリカ西岸を経由してヨーロッパの船が頻繁に訪れるようになった。

 

 彼らの主な目的は、国だろうと個人だろうとほぼ同じだった。

 

 どちらも海賊であり、国が許可を出した船を「私掠船」、個人の場合は単に「海賊」と呼んだ。

 

 初期の頃は数や規模が限られていたため、ノルド王国もアスガルド帝国との戦争を優先し、これがさらなるヨーロピアンを呼び込むことになる。

 エーギル海の小さな島や環礁の幾つかが占領され、ヨーロピアンの拠点となった。

 国が動いた場合は艦隊による侵攻もあり、かなりの規模の島も占領下に置かれ、支配下に置いたサトウキビ農園を自力で運営した事もあった。

 しかもヨーロピアンは、アフリカ西岸で武器や道具を売り払った「代金」として受け取った黒人奴隷を多数送り込んで、自分たちのサトウキビ農園の経営を行おうとした。

 

 ただしヨーロピアンがスクレーリング以外の蛮族をアスガルドに連れ込んだ事は、アスガルド人を酷く怒らせる事になる。

 その後アスガルド人がエーギル海での体制を立て直すと、徹底した掃討作戦を行うと共に、黒人と黒人を連れ込んだヨーロピアンを文字通り皆殺しにしてサメの餌にした。

 その数は、一度に数千とも数万とも言われ、その時海が血の色で黒く染まったと後世に伝えられている。

 この虐殺の話しがヨーロッパ本土にも尾ひれを付けて伝わって「食人の海」と呼ばれ、ヨーロッパで現地を指す「カリブ」という言葉が流布する事になる。

 

 なお、この頃ヨーロピアンが作り上げた海賊達の一大拠点としては、トルトゥーガ島(亀島)と、アスガルド人がヨーロピアン撃退の拠点とした「死神諸島」が有名だろう。

 


 そうして南の海で大きな損害が出るようになると、ノルド王国も「ヨーロピアン狩り」、「海賊狩り」に本腰を入れるようになる。

 加えて独立戦争(分裂戦争)の中で軍事力を拡大し続けたアスガルド帝国も、戦争終盤頃からミシシッピ川からメヒコ湾に出て、さらにはエーギル海にも進出するようになる。

 当時、アスガルド世界の砂糖生産を、ノルド王国が牛耳っていたための進出だった。

 このためアスガルド帝国は、ミシシッピ河口のヴィント・ヘイムの街を大改造して港湾都市として再整備し、そこに大きな軍港と造船所を建設、エーギル海進出の拠点とした。

 そうしてアスガルド帝国によってヨーロピアンから奪回されたのが、フィマフェング島だった。

 

 かくして、本来の主であるノルド王国、大陸新興のアスガルド帝国、そしてヨーロピアンの三者によるエーギル海での壮絶な海の戦いが、以後数十年間も続く事になる。

 

 ヨーロピアンによるエーギル海の覇権が一番大きくなったのは1660年頃で、ノルド王国が戦費調達のためにヨーロッパへの砂糖輸出を増やした以上に武器を購入した事もあり、ヨーロピアンに多くの富がもたらされた。

 ただし銀についてはノルド王国自身が自らの戦争のために浪費したため、海賊達がありつく一番の「お宝」は銀と共に大量の砂糖が大きな比重を占めた。

 

 このためこの時期のヨーロピアンの海賊には、虫歯が多かったと言われている。

 またサトウキビの絞りかすから作られるラム酒が有名になるのもこの頃の事だった。

 

 加えて、エーギル海でのヨーロピアン達の海賊活動が、ノルド王国の収入を減少させ、戦争継続能力を低下させた事は言うまでもないだろう。

 

 そして1650年代半ばから以後約20年間が、ヨーロッパの海賊達にとっての最盛期となった。

 この間、後世にも伝えられる様々な伝説が作られた。

 大海賊として巨万の富を築き上げた者、惨めに落ちぶれた者、様々な者の伝説や逸話が誕生した。

 

 しかしヨーロピアンの海賊達は、アスガルド人が自分たちの戦争を終えると、彼らの殆どが教会で聞いたおとぎ話でしか知らない「ヴァイキング」という名の本物の海賊というものを知ることになる。

 


 1665年に「アスガルド戦争」が終わると、ノルド王国で余剰となった海軍力が続々とエーギル海、南アスガルド、さらには大西洋に戻ってきた。

 また独立したばかりのアスガルド帝国の海軍も一定の勢力を持つようになり、豊富な人的資源をバックボーンとして、エーギル海や南アスガルドで無視できない勢力を持つようになっていた。

 

 そしてエーギル海に大挙戻ってきたアスガルド人達は、800年ほど昔にヨーロピアン達が恐怖に震えた海賊達に他ならなかった。

 

 昔のキリスト教の宗教画に当てつけて、水牛の角状の飾りを付けた兜をかぶったアスガルドの海賊達(多くが正規の海軍)は、ヨーロピアンと同じだけの装備を持つ圧倒的戦力をぶつけてきた。

 戦力差は、国力差、距離の差がそのまま現れていた。

 

 そして今まで自分たちの戦争のために対策が疎かになって煮え湯を飲まされていただけに、アスガルド人達の反撃は苛烈だった。

 依然として世界最強を誇るノルド王国海軍は、小さな海賊船にも平然と戦列艦や艦隊をぶつけてくるような事をして、文字通りヨーロピアンを捻り潰した。

 大戦争を終えたばかりなので戦闘と血にも慣れており、アスガルドの兵達は国を問わず非常にどう猛で残忍でもあった。

 

 一つの例として挙げても、ノルド王国最強を誇る高速大型戦列艦「スレイプニル号」を操るヘンリクス艦長が、「流血提督」と呼ばれヨーロピアン海賊の恐怖の的となっている。

 こうした人物は何人もおり、ラグナ教に出てくる様々な幻獣、魔獣、ヴァルキュリアの名を冠した巨大ガレオン船を操るヴァイキング達は、火事場泥棒に過ぎないヨーロピアンを蹂躙、殲滅し続けた。

 

 しかもヨーロピアンとの戦いとなると、アスガルド人は国の垣根を越えて共同して戦う事が非常に多かった。

 両国の船が隊列を組んで、ヨーロピアンの船と戦う光景も見られたりした。

 もっとも、ヨーロピアンを完全に殲滅すると、今度はアスガルド人同士が争った。

 このため、簡単にアスガルド人がエーギル海の覇権を取り戻すこともなかった。

 ヨーロピアンほどではないが、アスガルド人もかなり不毛な戦いをしていたと言えるだろう。

 

 一方、手ひどい反撃を受けたヨーロピアンも、多少はエーギル海での拠点を築いていた事もあって、黙ってやられたわけではなかった。

 しかも相手は邪教徒であり、イスラム教徒同様に手加減する必要のない相手だった。

 また相手が金持ちであるから、その富につられて深入りせざるを得ないと言う背景もあった。

 

 南アスガルドから銀を運ぶ「財宝船団」を狙う剛胆な海賊艦隊(私掠船団)もあった。

 強力な護衛に守られていた「財宝船団」だったが、危険を冒すだけの価値があったからであり、安易な掠奪と得られる莫大な富に酔っていたのだ。

 こうした場合は、ヨーロピアンの海賊、私掠船は、徒党を組んで襲いかかった。

 「大海賊」と謳われ戦列艦の海賊船「リヴァイアサン」を駆るバランタイン船長のような強大な海賊の姿もあり、ヨーロピアンが一方的に不利だった訳でもなかった。

 

 だが今まで多くを奪われたアスガルド人の殊の外怒りは大きく、新大陸に溢れる富と資源を用いた大艦隊が続々と建設され、各地に投入されていった。

 多くは南北アスガルド大陸に投じられたが、余裕が出てくるようになるとヨーロピアンの拠点を潰すべく大西洋各地にも活発に出撃した。

 この時点で、北大西洋の真ん中にあるアゾレス諸島など幾つかの島々がアスガルド人の手に帰している。

 

 一方、エーギル海への進出が限定的だったアスガルド帝国は、自らの努力を大東洋航路の開発にも投じ、東アジアで日本人に商業的に追いつめられつつあったヨーロピアンを躊躇無く攻撃して、あまり攻撃的ではない日本人達を呆然とさせたりもした。

 またこの頃になると、中華商人と中華系海賊が勢力を衰えさせた代わりに、東南アジア各所に進出した日本商人と日本海賊が勢力を増しており、海での活動に長けた日本人相手では、物量の違いもあって小数のヨーロピアンでは太刀打ち出来なかった。

 

 この事は、ネーデルランドが当時支配権を握っていたマラッカを何度も脅かされ、マレー半島尖端にあるシンガプーラ島が日本人、アスガルド人を中心とした人々による拠点となってヨーロピアンを東に進ませなくなった事でも明らかだった。

 


 そして1670年代になると、エーギル海でのヨーロピアンは劣勢に追いやられ、1680年代にはエーギル海での活動を実質的に終えなければならなかった。

 

 海賊や私掠船がほとんどとはいえ、新大陸のエーギル海へ行くという事は一種の外征であり、奪うよりも戦うのが主になると、個人の海賊や私掠活動でわざわざ行きたがるヨーロピアンが激減した事が大きな原因だった。

 当時の船乗りが過酷な労働だと言うことを考えれば尚更だ。

 

 そして穴埋めとして各国は海賊や私掠船に代わり、自国の海軍艦艇を投入してアスガルド人を攻撃したが、それはもはや戦争もしくは紛争に他ならなかった。

 

 それでもコスト面で私掠船は安上がりだし、船乗り崩れの者や別の事業をするための一攫千金を求める者は、危険な出稼ぎ手段として安易に海賊となった。

 そしてヨーロピアンの支配者とキリスト教会は、キリスト教徒以外への海賊行為を奨励し続けたため、世界の海から海賊の姿が消えることはなかった。

 

 一方ではアスガルド人も、ヨーロピアンに対する海賊行為、私掠行為を奨励し、ヨーロッパ方面では海軍艦艇まで投入したため、北大西洋は危険と隣り合わせの海となった。

 しかも18世紀に入る頃には、かつてヴァイキング達が進出した北大西洋各地の島々は、再びその末裔達の勢力下となった。

 大西洋各地の小さな島嶼も、アスガルドとヨーロピアンが奪い合う場所となり、争いの地はヨーロッパ沿岸やアフリカ西岸にも及んだ。

 アフリカ西岸では海で戦うだけでなく、アスガルドとヨーロピアン双方が現地の黒人に武器を渡して互いを襲撃させたりもした。

 


 17世紀終盤になると、ネーデルランドとフランスが取りあえず自分たちの戦争を手打ちにし、ヨーロピアンの海賊達はインド洋と再び北大西洋に戻ってきた。

 インド洋はまだ現地国家や住人の、海賊に対する警戒感が薄くしかも武力に劣るからだった。

 北大西洋は、アスガルドを出た船が北ヨーロッパ諸国を目指す場合が多かった上に、イングランドなど出撃拠点となりうる場所が多かったためだ。

 

 しかし、アスガルド人やアスガルドの船による利益を得る北ヨーロッパ諸国も黙っていなかった。

 このためイングランドは、新教勢力として北ヨーロッパと連携することが難しくなってしまう。

 しかもイングランドにとって悪い事に、アスガルド人が再びスコットランド王国、アイルランド王国への肩入れを再び強め、アイスランドには有力な艦艇を常駐させるようになっていた。

 そしてイングランド自身もアスガルドからの攻撃を受け、大きな損害を受けることになる。

 その恐怖は、かつてのノルマン人の記憶を呼び起こさせるほどだったと伝えられている。

 その挙げ句にスウェーデンから攻撃を受け、イングランドは長らく低迷する事になった。

 

 こうした状況は、大人口を抱え全面戦争を経たアスガルドの国々には、ヨーロッパ世界でもそれだけの行動を取れる国力が備わりつつあった事を現している。

 

 そしてこれ以後、時代は大きな転換期へと進んでいく事になる。

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