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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
15/42

フェイズ08-1「ヨーロッパでの変化と海賊の時代(1)」

 「アスガルド戦争」が終了してからしばらくのアスガルド人達は、二つの国とその他若干の勢力に分かれた状態で過ごすようになる。

 今まで一つだったことから比べると、非常に大きな変化だった。

 歴史家の中には、ローマ帝国の東西分裂を引き合いに出す者もいるが、戦争による分裂であるため変化はより大きいと見るべきだろう。

 しかも、同じ民族、言語、宗教を持つ場合の戦争による国家の分裂は、世界史上で見ても非常に珍しいといえる。

 また逆の視点で見れば、アスガルド大陸が一つの国で統治されるには広すぎたといえるだろう。

 


 なお、当時のノルド王国内は、数百年続いた中世欧州的な組織・制度・人材など多くの面で疲弊していた。

 これが、既に腐敗と停滞の中にあったノルド王国中枢が「反乱軍」と呼んだ辺境勢力に対する敗北と、そして辺境の独立、つまりアスガルド帝国の成立をもたらす大きな原因でもあった。

 

 しかし戦争中に、門閥化していた貴族(の若者)の多くが戦場で敗死し、戦後すぐにも敗戦の責任を取る形で多くが中央から排除された。

 腐敗、堕落していようとも、ヴァイキングの伝統を担い開拓を旨とする人々は、少なくとも怯懦(臆病)ではなかったということになるだろう。

 たとえ見栄や体面のためとはいえ、率先して戦場に向かった姿勢だけは評価できる筈だ。

 

 そして保守派、旧主派貴族に代わって、ノルド国内で勃興した形の改革派が大きな力を持った。

 戦後になると、改革を求める者と旧体制を守ろうとする勢力がぶつかって混乱がもたらされ、規模は限られるも事実上の内乱状態に入る。

 だが、敗北とアスガルド帝国の独立によるノルド王国全体に危機感の方が大きく、保守層の粛正と共に体制の刷新と改善が一気に進められ、国家としてはむしろ良好な状態へと改革されていくことになる。

 

 エイリークソン六世は混乱の中で退位し、新たに王位継承者の中でも順位の低かったエイリークソン七世が即位。

 エイリークソン七世自身が、王族の中で最も改革派であったためだ。

 

 そして新王の下で改革派を主導し護国卿と言われたアレクサンデルが宰相として実権を握り、強引な改革と政治の近代化を進めた。

 改革にはかなりの流血も伴われ、反対派、保守派の多くが粛清された。

 大規模な地方貴族の反乱すら起きたほどだ。

 粛清を恐れて、南アスガルドに亡命するように逃れた者も多かった。

 アレクサンデルは、分裂戦争終盤に武勲を挙げて当時王子の一人だったエイリークソン七世のもとで出世し、この時27才の若さで王国全体の改革を行う事になる。

 

 エイリークソン七世とアレクサンデルによる改革の結果、議会が設けられ王が発布する形での国の法、つまり憲法が制定される。

 そしてこの時の改革を発端として、ノルド王国の政治の近代化と、いわゆる立憲君主体制に向けた政治的動きは、以後一世紀近くをかけて進んでいく事になる。

 つまりノルド王国は、中世から近世に向けて一気に進み始めたと言えるだろう。

 

 この間、建国されたばかりのアスガルド帝国は、ノルドの足元を見る行動よりも自らの国内の体制を固めることに力を割いた。

 このため、国家としての分裂とアスガルドの大地での棲み分けが一層明確になった。

 アスガルド帝国は、火事場泥棒よりも相手に付け入れられない自分自身の体制固めを選択したのだ。

 それに戦争を終えたばかりのアスガルド帝国には、戦争をするような金はどこにもなかった。

 

 改革が一定段階に進んで以後のノルド王国は、戦争中から混乱が見られるようになったエーギル海、南アスガルド各地の植民地開発に力を入れるようになる。

 


 一方のアスガルド帝国は、独立後も辺境各地で原住民勢力との争いを断続的に行いつつも、周辺の開拓、入植地の建設を行って農地と人口の拡大という直接的な国力拡大政策を強力に推進していった。

 数は力、数は国力というわけだ。

 そしてそれを可能とするだけの豊かで温暖な土地が、アスガルドの大地には有り余っていた。

 

 その一方で、自らの進出範囲として得た大東洋側への進出にも力を入れるようになり、戦勝によって得た西海岸のアールヴヘイム入植地、さらには同じくフレニアから日本など東アジア各地に交易船を出すようになる。

 大東洋の周遊航路も優先的に整備された。

 

 この時、アスガルド帝国からの最初の使者を受けた江戸幕府は、アスガルドでの政変と近在のフレニアの所有者の変化に非常に驚いたと記録されている。

 そしてこの後、アスガルド帝国は日本との関係を東洋外交の基本に据え、相手が有色人種であることを無視するかのように関係を深くしていく。

 

 無論そこにはアスガルド帝国なりの戦略があり、日本を利用することが第一目的だったことは間違いない。

 国家の分裂で有力な銀の入手先を当面失ったアスガルド帝国としては、依然として豊富な金銀を産出する日本との関係は、貨幣の流通の為に欠かすことが出来なかったからだ。

 また、独立時に得たフレニアの維持と円滑な経営のためには、近隣の安定した友邦の存在が好ましかった。

 さらには、ノルド王国にフレニアを奪回させないためにも、日本との友好を強めて牽制することは外交戦略上で非常に重要だった。

 少なくとも、当時のアスガルド帝国中枢はそう考えていた。

 

 そして、もう一つのアスガルド人国家となった北部のエイリーク公国だが、その後もあまり拡大は行わなかったが、グリーンランドへの回帰を含めたより北部の進出、大陸北中部の森林地帯への進出を強めることで自らの地位向上と生き残りを図った。

 

 こうした中で三つの勢力の中間地帯となった五大湖商工業地帯は、年々それぞれの地域に属することを余儀なくされ、多くが大人口を抱えるアスガルド帝国への従属を選んでいく。

 それでも完全には消滅せず、緩衝地帯としての有利を用いた外交での生き残りを計っていく事になる。

 


 一方アスガルドの外からは、アスガルド戦争が本格化した17世紀中頃から、ヨーロッパ勢力が頻繁にアスガルド大陸にやって来るようになっていた。

 アスガルド内での戦争で本国近辺に縛り付けられているアスガルド人を後目に、アスガルドの富みにつられたヨーロピアンが隙を見て押し掛けたからだ。

 

 この頃、つまり17世紀後半の世界で最も活発に活動していた国や地域は幾つかあった。

 

 世界最大の人口を抱える中華大陸では、明朝から清朝への交代が行われていた。

 同じく大人口を擁するインドでは、イスラム系国家のムガール帝国が最盛期を迎えつつあった。

 アジアのもう一つの大国、他の二国に比べて人口や直接的な領土で大きく劣る日本は、ゆっくりとした速度ではあったが日本史上ほぼ初めて海外進出を活発化させつつあった。

 他、西アジア世界で覇をとなえるトルコ、ペルシャもまだまだ隆盛を誇っており、トルコなどはアスガルド人から得た技術を元に自らも帆船を建造し、ヨーロピアンに対してインド洋での巻き返しを計っていた。

 このためポルトガルなどのヨーロッパ弱小勢力は、少なくとも17世紀の間はアラビア海、インド洋東部からほとんど追い払われてしまうことになる。

 トルコの外交姿勢も、ローマ帝国の後継者ではなくイスラムの覇者、守護者としての側面を強めるようになっていた。

 

 そしてその間北アスガルド大陸では、アスガルド人が二つに分かれて大戦乱を行っていた。

 

 そして何より、この頃最も騒がしかったのが14世紀頃までは世界で最も遅れた地域の一つに過ぎなかったヨーロッパだった。

 

 このまま「複雑怪奇」なヨーロッパの事を書いても良いのだが、誌面の都合もあるので最低限の概要だけ触れて、本来のアスガルド人の動きに戻りたい。

 


 ヨーロッパでは、「三十年戦争」後のヨーロピアン世界の覇権を求めた国々が活発な活動を行っていた。

 最も活発だったのは、ヨーロッパ世界での覇権維持に躍起になっているイスパニア王国と、イスパニアを追い落とそうとするフランス王国、スウェーデン王国、ネーデルランド連邦になるだろう。

 イングランド王国は、まだブリテン内での問題を抱え続けていたため積極的に動くのが難しく、しかも上記したヨーロッパの他の三国がイングランドの勢力拡大を常に邪魔していた。

 ブリテン島北部のスコットランド王国は、スウェーデンの支援を受けることでイングランドに大きな脅威を与え続けていた。

 またイングランドとネーデルランドの間には一度海上覇権を求めた戦争も勃発したが、スウェーデンがネーデルランド側に荷担したこともあってネーデルランド優位で幕を閉じている。

 そしてイングランドは、陸海双方での巨大な軍事費のため、国威の上がらない状態が続いた。

 

 そして16世紀から17世紀半ばまで欧州の盟主だったイスパニアだが、国内での少数民族による農業生産力の低下、自然災害や飢饉、疫病などによる疲弊と人口低下もあって国力が大きく衰え、18世紀初頭の「イスパニア継承戦争」でヨーロッパの大国の地位から完全に滑り落ちる事になる。

 特にそれまで中心となっていたカステーリャ地方が衰退したことは、イスパニアにとって大きな打撃となっていた。

 

 この間海外では、ネーデルランドがイスパニアの植民地の多くを戦争で奪う形で継承し、同様にフランスもインド進出を強化した。

 またネーデルランド、フランスの両国は1650年代から二国間の戦争も行い、互いに足を引っ張り合った。

 三十年戦争は一つの節目だったが、ヨーロッパでの争いに区切りがつくような事はなかった。

 

 スウェーデンも、異教徒であるロシアやポーランドとの対立を激化させつつも海外進出に力を入れるようになり、富と物産を求めてアジアにまで至るようになっていた。

 またスウェーデンや北ヨーロッパ諸国は、アスガルド人との友好的な繋がりを自ら求め、アスガルド大陸を訪れるようになっていた。

 アスガルド大陸にスウェーデンなどの為の寄港地と居留地が特別に設けられたのも、17世紀半ば以後の事だった。

 ノウム・ガルザル市沖の小さな島(アリス島)に設けられた特別居留地は「エデン」と呼ばれ、アスガルド世界で唯一キリスト教会の設けられた場所となったりもした。

 

 一方で18世紀に入って体制を立て直したのが、オーストリア・ハプスブルグ家だった。

 

 イスパニア・ハプスブルグ家はイスパニア王国と共に没落し、18世紀が始まると共に消えていったが、オーストリアの方は「三十年戦争」をむしろ契機として隆盛しつつあった。

 

 多くの理由は、宗教対立を利用できた事にあった。

 

 南からはオスマン朝トルコが二世紀以上に渡って圧迫し続けており、三十年戦争では新教勢力が北ドイツに大きな勢力を築き上げた。

 これに危機感を覚えた旧教勢力が、盟主としてオーストリア・ハプスブルグ家を頼った。

 西暦1683年にオスマン朝トルコが、もともと無理があった「第二次ウィーン攻撃」に失敗すると、その後の戦争によってハンガリー地方を中心にした広大な領土を獲得して、一気にヨーロッパの大国の地位に躍り出た。

 

 「第二次ウィーン攻撃」では、トルコが一時的な力を取り戻したことを自ら誤解し、トルコの脅威に怯えたヨーロッパ中部、東部が一致団結して撃退に当たった結果だった。

 そしてこの時の戦いの結果、オーストリアを中心とするカトリック勢力の結束は固まり、高い軍事力を見せたため周辺諸国から危険視されたポーランドは、その後干渉と解体への道へと落ちていく事になる。

 

 その後もオーストリアは、東ヨーロッパ周辺部とドイツ地方の旧教勢力の取り込みを熱心行い、自らの覇権拡大のために「大ドイツ主義」を育てるようになっていく。


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