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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ07-2「建国アスガルド帝国(2)」

 そして二つの国家又は陣営に分かれた全面戦争が本格的に始まるのだが、初期の頃は両者ともそれぞれの理由で準備不足だったため、小競り合いが主体となる。

 

 戦闘の規模が本格的に拡大するのは、戦争開始から6年が経過した1658年頃からとなる。

 その頃になると、ノルド王国が戦争にのめり込んで世界各地での勢力を減退させたため、ヨーロッパの国々がアスガルド情勢に干渉し始める。

 北ヨーロッパを例外として、殆どのヨーロッパ諸国にとってアスガルドは厄介で憎むべき相手だったからだ。

 

 異教や異端どころか古い邪教を信奉し、文字もラテン文字アルファベットではなく言語も北ヨーロッパ系言語から派生した分かりにくい言葉を使っていた(※古ノルド系ルーン文字が変化したノウム・ルーン文字。

 言葉もノルド系言語からかなり離れていた)。

 それだけならまだしも、イスラム教徒並かそれ以上にカトリック系キリスト教を敵視しており、ヨーロッパ諸国による新大陸進出を常に妨害していた。

 世界進出でも邪魔をしており、おかげでイスパニアやポルトガルは、東アジアからも叩き出されていた。

 この時点では少なかったが、海外において新教国のネーデルランドやイングランドの邪魔も頻繁に行うようになっていく。

 

 しかも先年は、三十年戦争に散々介入されたばかりだった。

 

 このため北ヨーロッパ諸国を除く海外進出能力を持つ殆どの国が、北アスガルド大陸で燃え広がりつつある巨大な戦乱に何らかの価値を見いだしていた。

 

 ある国は、アスガルド内を少しでも長く対立させることで、アスガルド人の海外進出を停滞させようと画策した。

 またある国は、アスガルド人の国力、経済力が衰えるなら、どのような手段でも講じる積もりだった。

 別の国は、純粋にノルド王国への恨み又は国益から、対向者であるアスガルド帝国を支援した。

 片方もしくは両国に援助することで、新大陸に拠点又は足がかりを得ようと動いた国もあった。

 商人の中には、見境無く武器や物資を売り歩いた者もいた。

 各教会勢力は、戦乱による荒廃こそが自分たちの教えを広める絶好の機会だと考え行動した。

 

 そしてヨーロピアン全体の内心としては、できるならアスガルド人そのものが大きく衰退したり、国が成り立たないぐらいの戦乱になってくれないかという思惑もあった。

 そうすれば、自分たちの新大陸進出がより容易になるからだ。

 しかしアスガルド人の人口、経済規模、そしてヨーロッパとアスガルドの距離を考えると、妄想に近いことを実感しなければならず、多くのヨーロピアンが現実的行動を選択した。

 

 そして事態は、三十年戦争を立場逆転したような形で推移するのだが、戦争そのものは三十年も続かなかった。

 

 戦争は西暦1665年(アスガルド歴615年)に決着が付き、ノルド王国がアスガルド帝国の独立を事実上認める形で決着がついた。

 戦争自体は西暦1652年勃発とされているので13年間続いた事になるが、激しく戦ったのは後半部分においてだった。

 


 戦争は、常に二つの勢力による戦いで、平原での戦闘が多く規模が徐々に大きくなっていったため、ヨーロッパ諸国はそのうちまともに支援が出来なくなった。

 漁夫の利を狙った干渉や出兵、さらには領土の獲得といった事は、北アスガルド大陸に対しては全くできなかった。

 若干数の傭兵や、北ヨーロッパから派遣された観戦武官、軍事顧問が海を渡った程度だった。

 物好きと言える者の中には、キリスト教世界を棄ててアスガルド帝国に参加した者もあった。

 

 戦乱の規模は、勃発当初は100名単位、大規模でも数千名単位での戦いが主体だった。

 これは主にアスガルド帝国が組織面で大軍運用能力に欠け、ノルド王国は海兵隊以外のまともな陸上戦力そのものがなかったためだった。

 加えて、両国の有する領土が広すぎるため、軍隊がいくらいても足りないと言う状況が横たわっていた。

 

 しかし、アスガルド帝国が辺境領土の寄り集まりから一つの国として運営されるようになってからは、1万人から3万人規模の軍勢を編成するようになる。

 陸軍力をおざなりにしていたノルド王国側も、徐々に陸軍の整備に力を入れ、ほぼ同規模で軍団の規模を拡大していった。

 そして似たような規模、質による戦闘が頻発するようになったため、一つの戦闘で勝ち負けが発生しても全体の結果としては影響は少なかった。

 この時期の軍隊規模に対して国家経済の戦争継続能力の方が高かった事と、戦争を行う領域そのものが各地に分散されていたため、毎月のようにどこかで戦闘が起きて、季節に一度は数万人単位の大規模な会戦が発生した。

 大規模な会戦では、ヨーロッパの三十年戦争同様の兵器と戦術が一般的に用いられ、方陣を組んだ巨大な兵団がぶつかり合った。

 

 そして戦争が大規模化した1658年頃からの戦いでは、片方の軍団の規模は10万人の単位に乗る事が毎年のように起きた。

 軍事組織、戦闘集団の規模が、ようやく国力と領土に追いついてきた結果だった。

 アスガルド帝国軍でも、1660年代になると統一された衣装が何とか支給されるようになっていた。

 

 そして規模が大きくなると、国民の多くが屯田兵や入植者だったアスガルド側が、兵士の質の面としての優位を活用するようになる。

 戦争初期に少年兵だった者も、生き残った者は戦争最盛期にはちょうど良い年頃の熟練兵になった。

 抜擢人事が一般的だった建国頃のアスガルド帝国軍では、元の出自が貴族や豪族以外でも二十歳前後の将軍までが出現した。

 この戦争でのアスガルド帝国ほど、若い世代の軍指揮官が多かった事は希だろう。

 大貴族レイヴソン公爵家のロロ公子や、美丈夫でも知られたヴォルソン将軍などがその典型だろう。

 猛将を謳われたエイナール男爵(その後侯爵)家のマグヌス将軍も、講和時点で二十代後半でしかなかった。

 現代に比べて寿命が短い時代だったとは言え、やはり若い世代が非常に多かった。

 


 そして西暦1660年代に入ると、アスガルド帝国軍が各地の戦場で勝利する事が増えた。

 

 戦争前にノルド王国が占領した辺境領や入植地も次々に開放され、アスガルド帝国に参加した。

 この頃には、五大湖商工業都市の殆どがアスガルド帝国を支援するようになる。

 

 そして追い風を受けるアスガルド帝国は、戦争を行いつつ国家制度の整備を押し進めた。

 この中で遷都が実施され、首都エリクソンは「興りの都」として過去に置かれ、新たにミシガン湖南端のシカゴ市を改名し、「フリズスキャールヴ」と名付け新たな帝都とした。

 ちなみにフリズスキャールヴの語源は、ノルド神話(ラグナ教)での主神オーディンが座る椅子の事を指す。

 ノルド王国の王都ヴァルハラより上だという、背伸びした命名だったと言えるだろう。

 

 そして前向きな遷都で意気上がるアスガルド帝国軍はさらに攻勢を強め、戦争開始前にノルド王国軍の進入を受けた地域の多くを「奪回」した。

 実質的な始まりの地となったオハイオ侯爵領も、遂に全てが奪回された。

 つまりノルド王国は、「本国」しか残さないまでに追いつめられる事となる。

 兵力動員数も、完全にアスガルド帝国が上回るようになっていた。

 

 このため窮地に立ったノルド王国は、南部の有力なスクレーリングだった南部チェロキーの大部族と、技術供与と一部領土返還を条件とした同盟を結んで戦争を継続しようとした。

 

 これは数年前に北部のエイリーク公爵領が、事実上の中立宣言を出したことが影響していた。

 人口希薄な同地域をヨーロピアンから防衛するために、アスガルド人全体として必要な措置だったため両者から受け入れられたのだが、このため両国は北方から敵を迂回攻撃する事が事実上出来なくなった。

 

 そこでノルド王国は、南部からのアスガルドの攻撃に備えるため、もしくは南からの侵攻もしくは牽制を行うため、チェロキー族を使うことにしたのだ。

 思惑としては、後者の方が比重が大きかっただろう。

 

 だがこの頃のアスガルド帝国は既に2000万の人口を抱えるまでに拡大しており、軍隊の総数も後先を考えず根こそぎ動員を行えば、100万という当時としては途方もない数が見えていた。

 実際、30万人近い兵士がこの当時存在していた。

 半数近くがそれぞれの地域の防衛用だったが、残り半数は北アスガルドの大地を活発に歩き回っていた。

 総人口に対して兵員数が限られていたのは、国土が広すぎることと、戦費が追いつかなくなっていたためだ。

 

 そしてノルド王国にとって苦肉の策だったチェロキー族懐柔だったが、当時のチェロキー族程度の人口規模では、巨大農業国家であるアスガルドの大人口に対向する事は既に不可能となっていた。

 牽制どころか防波堤の代わりにもならずに、ほとんど一撃で粉砕された。

 それまで中立だったから見逃されていたチェロキー族は、呆気なく蹂躙されることになった。

 そしてアスガルド帝国の大軍は、地形障害(湿地など)に苦労しながらもノルド王国の南部を囲むことに成功する。

 

 だが、アスガルド帝国軍は2年以上もチェロキー討伐と平定に時間を割かざるを得ず、ノルド王国側としては多少なりとも時間を稼いだので、それなりに評価された。

 原住民達は、巨大化した白人国家の犠牲者でしかなかった。

 


 チェロキー壊滅後の西暦1664年9月、事実上最後の決戦となる「ラールステンの戦い」で、ノルド王国軍は決定的な戦いにおいて大敗を喫する。

 

 「ラールステンの戦い」では、帝国軍24万、王国軍17万と帝国軍が圧倒的に優勢だった。

 そしてこの大戦力が、双方の都の中間近く、ノルド王国領内に少し入った台地上の地形に展開した。

 ノルド王国にとっては、ここで負ければ国家の中枢である北東部沿岸都市が丸裸にされる。

 帝国軍は、既に戦費と動員が限界に達しており、ここで勝たなければ中途半端な講和を自ら求めなければならなかった。

 

 この戦いは、アスガルド帝国軍が誘う形で大軍を集めて進軍し、乗らざるを得ないノルド王国が集められる限りの兵士を集めた結果だった。

 故に、この戦いは「決戦」となった。

 

 戦場は、数十万の大軍が十分な機動を行うには不十分な地形で、北西には五大湖の一つエリー湖があり、南東部は森林の生い茂る広大な台地が広がっていた。

 しかも王国は本国手前の最後の防衛線のため、動くに動けなかった。

 

 このため戦いは、大軍同士の正面決戦となった。

 双方の総指揮官にも皇帝と国王が立ち、17世紀最大規模の戦闘となる。

 同種の戦いとして、日本の「関ヶ原の戦い」を持ち出す研究家もあるが、規模において2倍以上、鉄砲装備率は日本での方が多かったが大砲、騎兵の数ではアスガルドの戦いの方がずっと多く、規模を10倍にしたヨーロッパでの戦いの方が似ていると言える。

 

 この頃のアスガルドでの戦いは、総指揮官の大将軍(元帥)が戦場全体を統括して指示を与え、将軍などの各指揮官がそれぞれ軍団や兵団(数千から1万程度)を指揮する形を取っていた。

 通信伝達手段が馬と徒歩、遠距離を確認する手段が初期的な望遠鏡しかない時代では、一人の総指揮官が全てを指揮することは不可能だったからだ。

 このため両陣営は伝令網の整備に力を入れ、総指揮官は将軍達をいかに巧く使いこなすかが戦場では求められた。

 そして個性と能力ではアスガルド帝国軍が、統率と服従ではノルド王国軍が勝っていた。

 これはそのまま戦闘にも反映され、攻撃の帝国軍、防御の王国軍という事になる。

 


 そして両国の国家元首が大将軍となったこの戦いでは、戦闘開始当初は双方の前衛がぶつかり合う、ありきたりな戦いとなった。

 騎兵を迂回突破させる場所も地形もなく、砲兵を有利に展開できる場もなかったし、十万の規模同士となると砲兵の優位も局所以上の効果はなかった。

 この戦いでのアスガルド帝国軍など、各将軍が指揮する軍団の数だけで、30近くにも及んでいたのだ。

 

 戦闘は午前10時頃から始まるが、そのまま正面で双方合わせて十万人以上の戦力が銃と槍でただ潰し合う戦闘が3時間が経過するも、あまり変化はなかった。

 しかし徐々に兵力差が影響し、数に勝る帝国軍が押し始める。

 そこで帝国軍は、戦線中央部に対して予備兵力を投入。

 次は予備兵力の投入合戦となり、戦線中央は互いの大軍がひしめきあって完全に膠着。

 この時点で既に午後3時で、王国軍側には今日の戦闘はこのまま終わるという雰囲気が出始めていた。

 最初から戦っている将兵は、既に疲労困憊と言える状態だった。

 

 だが少しの油断から王国軍左翼にほころびが見え、ここに帝国軍は既に展開していた分に加えて予備の騎兵、しかも最精鋭の騎行兵団を投入。

 約1万3000騎もの大騎兵集団が、まずは防戦に出てきた目の前の大きく数の劣る王国軍騎兵を蹴散らし、そのまま王国軍左翼へと突進。

 その後一気に戦場を旋回して、王国軍主力部隊に対して突撃を敢行した。

 

 これで王国軍左翼が崩れ、混乱が波及した中央でも乱れが見えた。

 特に王国軍にとって痛かったのは、砲兵隊の一翼が騎兵への対応が遅れて完全に蹂躙された事だった。

 しかも遺棄された砲の半分以上がそのまま追いついたアスガルド兵(歩兵、砲兵)により運用され、自らの砲が王国軍に降り注いだ。

 

 この機に帝国軍は、さらなる予備兵力、中央部に待機していた近衛重騎兵隊を突撃させ、完全な戦線突破に成功する。

 

 これで勝敗は完全につき、ノルド王国軍のエイリークソン六世は全軍に後退を命令。

 アスガルド帝国軍は、夕闇の迫る中の追撃戦に移った。

 

 王国軍本陣は殿のおかげで辛うじて待避に成功するも、王国軍の三分の二が包囲殲滅されて崩れ去り、日が完全に落ちるまで続いた追撃戦を最後として、最低でも数日間は続くと予測された戦いは一日で決する。

 

 王国軍の戦死者、捕虜合わせて10万以上という歴史的な大敗であり、軍主力の半数を失ったため残りも士気が崩れていた。

 負傷者を含めると、その損害は全軍の三分の二にも達した。

 

 なお、1日でケリがついた事も、この戦いが日本の「関ヶ原の戦い」と比較される理由であることを追記しておこう。

 


 その後王国軍は体制を立て直すことも出来ず、4日間で戦場から100キロ以上後退した。

 この段階でノルド王国のエイリークソン六世は、今まで反乱軍と呼んでいた帝国軍を、正式に「帝国軍」と呼びかけた上で停戦と和平を求める事になる。

 つまり、自ら敗北と独立の二つを同時に認めたのだ。

 

 一方勝利した帝国軍も、戦いで1万5000人の戦死者と4万人の負傷者を出した上、既に戦費が底をついていた。

 このため、ノルド王国の名誉ある停戦と和平への呼びかけに応えることを決定した。

 帝国軍の一部には、王都を落としてアスガルド世界を事実上統一してしまうべきだという強硬意見もあったが、シグルト一世は和平を是とした。

 

 なお、アスガルド帝国が和平を是とした戦費以外での理由は、これ以後の戦いは相手側の国土防衛戦となるため、戦争に手間が掛かる可能性が高かったという要素が大きかったからだ。

 決戦勝利に伴う戦争全般の攻守逆転の状況が、アスガルド帝国に和平を求めさせたとも言えるだろう。

 

 そしてエイリークソン六世とシグルト一世の初の会見が行われ、ノルド王国がアスガルド帝国の独立承認を最低条件とする事で、停戦と暫定的な和平の成立が宣言された。

 

 なお正式な講和会議は翌年の1665年春に開催され、停戦ラインの近くにあったエリー湖畔の自由都市ソルベルグ市で「ソルベルグ会議」として行われる。

 

 この会議によりアスガルド帝国は正式に独立を承認され、両者の国境線が確定された。

 それに加えて、メヒコ以南のアスガルド大陸沿岸を除く大東洋利権全ての譲渡も行われ、これをノルドからアスガルドに対する賠償とされた。

 

 また同会議では、五大湖商工業都市群の有力都市が、そのまま自由都市として認められた。

 この背景には、中立を貫くことで事実上の独立を果たしたエイリーク公爵領と、当時のアスガルド人の考えが影響していた。

 これ以後エイリーク公国と言われる地域と五大湖商工業都市群が隣接しているため、今後も混乱が予測される二大国が手を出せない緩衝地帯、中立地域が必要だと多くのアスガルド人が考えた末の結果だったからだ。

 

 戦争がこの段階で終わったのも、このまま戦乱を続けてどちらかが完全に勝利するまで行っていたら、必ずヨーロッパからの大規模な干渉を受けて、アスガルド人そのものが大きな損害と脅威を受けるようになると言う認識があったためだった。

 

 そう思わせるほど、終戦頃のヨーロピアンによる海での蠢動が激しくなっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 作者様にお願いなのですが、このシナリオ(?)の最後のまとめの場所でもいいので地図を置いてもらえませんか?史実と乖離しすぎてどうも分かり辛くて...
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