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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ07-1「建国アスガルド帝国(1)」

 アスガルド歴605年(西暦1655年)7月4日、ミシシッピ川中流域の要地エリクソン市で「アスガルド帝国」の建国が宣言される。

 

 エリクソン市は反乱軍指導者となっていたシグルトの領地ステイグリム辺境伯領ではなく、シグルトの妻となったばかりのショーズヒルドの父クヌーズソン伯オーラヴが治める伯爵領の中心都市であり、西暦1654年頃から反乱軍最大の拠点となっている場所でもあった。

 当然だが、総人口30万を有するクヌーズソン伯領も反乱軍に加わっていた。

 

 新国家の国号は「王国」ではなく「帝国」とされ、「国王」ではなく「皇帝」が統治者とされたのは、最初からあまりにも多くの辺境貴族や地域が国に参加しているというのが実質面での理由だった。

 また名目としては、王国より上位にあるという事を新たな国民に分かりやすく説明するためであり、またノルド王国に対しての挑戦的意味合いが込められていた。

 このため、帝国という名を冠しているからと言って、別に膨張的だったり侵略的ではなかった。

 むしろ防衛的な国家であり、帝国という名も複数の国が統合された国という文化人類学上での言葉本来の意味に近かかった。

 

 そして新たな国と皇帝の元で属する貴族の序列も大きく変更され、貴族階級、戦士階級の位、平民の扱いについてノルド王国から完全に決別する事になる。

 これまでの戦闘などで武功や功績のあった者は取り立てられ、平民でも戦士階級や貴族に列せられることもあった。

 帝国宰相となったシモン・コルベインも、元の出自は単なる下級戦士階級だが、一気に侯爵に叙せられている。

 

 そして「一旗揚げたければ」という気風が、建国頃のアスガルド帝国に強くあったため、アスガルド世界で燻っていた多くの人材が帝国の元に集う事になる。

 

 腕一つで渡り歩く傭兵、一攫千金を狙う独立商人、腕に覚えのある鍛冶屋、上司に嫌気がさした学者の卵、神殿の停滞と腐敗を憂う神官や巫女、南の海を荒らし回っていた海賊、王国に恨みを持つ様々な階層の人々、玉の輿を狙う娼婦、自作農になることを夢見る小作農民、スクレーリングの解放奴隷、さらにはノルド王国本土を裏切って参じた貴族など、様々な人々が新たに出来た旗の下へと集った。

 中には、アジアからの船でアスガルドに渡った日本人の戦士(武士)や、ヨーロッパで魔女とされて故郷を追われた女性の姿まであった。

 日本人武士の中には、現政権の徳川政権と最後の戦い(大坂の陣)を経験したという老武士もいたと言われる。

 ヨーロッパからも、三十年戦争の終了で職にあぶれた傭兵達の姿もあったという。

 

 集った中には山師や詐欺師、扇動家、寄生虫もいたが、度を過ぎない限りは出来る限り容認され、度が過ぎた者は果断な時代を反映して容赦なく粛正もされていった。

 

 アスガルド世界の多くの者が、ノルド王国以外の新たな可能性に賭けたのだ。

 

 なお当然ではあるが、初代皇帝にはシグルト・ステイグリムがステイグリム朝の初代皇帝シグルト一世として即位した。

 若干二十歳の皇帝誕生だった。

 これをアスガルド帝国側についた現地に根ざす神官や巫女達が、新たな権威を神々の名の下に保証した。

 特に辺境一の賢者と謳われていたユリウス大神官の帝国への参加は、辺境のみならずアスガルド世界全体を揺るがすほどだった。

 

 このためラグナ教も、二つの勢力に大きく分裂することになり、アスガルド帝国は「神官総会」という最高機関を新たに設置した。

 

 当然、王都ヴァルハラにあるラグナ教「神殿総本部」は強く反発したが、軍事的に断絶した辺境に対して実質的に神殿が出来る事は限られていた。

 ヨーロッパでのキリスト教会とは違い、所詮は権力の下部組織、民衆の慰撫機関であったためだ。

 

 また辺境の民の心もノルド中央の神殿は汲むことが出来てなく、そうした溝と格差が当時ノルド王国本土と辺境の間に広がっていた何よりの証拠だった。

 そしてこの時離反した神殿の多くが、地方や辺境にあるが故に住民との繋がりが深く、権威的な中央や都市部との対立が深まっていた事も、決別に大きく影響している。

 


 アスガルド帝国の建国から一年以内に、ミシシッピ川流域のいまだノルド王国軍の支配が及んでいない殆どの地域が帝国に参加していった。

 無論全てではなく、保守的な領主、ノルド王国と繋がりの強い領主は、反発したり明らかにノルド王国側に組みする者もあった。

 東にいくほど王国側と呼ぶべき領主も多く、全体として自治領主、独立領主の4割近くに上ると考えられている。

 しかしそうした多くの領主は、民衆と心が離れている事が多かった。

 このため帝国軍となった反乱軍の攻撃を受けて滅ぼされたり、領地から逃げ出してノルド勢力圏に逃れたりした。

 また、帝国軍が脅しただけで屈する領主も少なくなかった。

 

 そうした混乱も、アスガルド帝国が大きな武力を持っていると分かると、最初は渋っていた領主も率先して従うようになる場合がかなり見られた。

 アスガルド帝国が「勝ち馬」だと目に見える形で分かってきた何よりの証拠だった。

 

 さらには、五大湖西部のミシガン湖近辺にあるシカゴ市などの商工業都市も、最初から帝国に加わっていた。

 他の五大湖商工業都市も、ノルド王国の支配が及んでいなくても協力や帰属を鮮明にするところが多く、これで北アスガルド大陸のヴァイキングの末裔達は勢力を完全に二分することになる。

 

 西暦1656年(アスガルド歴606年)春の時点での勢力を人口で見ると、大ノルド王国が総人口約1000万人、アスガルド帝国が約1600万人、中立状態の五大湖商工業都市群とエイリーク公爵領が合わせて約100万となる。

 その他、どちらの陣営にも参加できない中間地帯やアスガルド帝国に参加するのも難しい辺境、大陸西海岸のアールヴヘイム、南アスガルド大陸などに、合わせて約300万人が居住していると考えられている。

 スクレーリングについては、南部のチェロキー族が50万程度、西部大平原の各スー族を合わせて30万程度で、この二つが人口的な最大勢力だったが、アスガルド人の影響でようやく原始的な国家を作り始めた頃だった。

 

 つまり戦争はアスガルド人の数こそが全てであり、軍事技術が同程度の場合、人口の多い方が基本的に有利だった。

 そしてこの時点で、既に大ノルド王国が占領した辺境地域も多いし辺境のほとんどが親アスガルド帝国のため、国民として数えられる数字はアスガルド帝国が本来二倍以上の優位があった計算になる。

 

 しかし当時のノルド王国中枢は、辺境や内陸部の人口について詳しく把握しておらず、実数の半分程度と見ていた。

 これは辺境各地が、かなり前から人口を過少に報告して中央に納める税金を誤魔化していた事も影響しているが、ノルド王国の統治体制そのものが劣化している何よりの証拠でもあった。

 

 また、アスガルド帝国に参加した多くの地域が、入植から一世紀を経ていない地域や開拓村ばかりで、土地開発程度や社会資本の整備など、富の蓄積という点を比べると三倍以上も大ノルド王国が有利だった。

 工業(※手工業)生産力も、大ノルド王国が大きく勝っている。

 

 そうした違いは、一般的支配階層の住む家で端的に表現できた。

 ノルド王国の都市に住む中間層以上は、焼き煉瓦や石、瓦屋根で作った丈夫で高価な家に住んだが、アスガルド帝国は都市部の富裕層でも多くが低層の木造住宅住まいで、辺境では丸太小屋ログハウスという場合も多く見られた。

 開拓村らしい、砦内の粗末な建物に居住している事も多かった。

 当時から行われるようになっていた軍隊の衣装も統一される事はなく、質はともかく見た目が質素な場合が多かった。

 鉄砲以外の装備も刀剣よりは斧や鎚、各種槍が多かった。

 生産単価が刀剣よりも安いからだ。

 鉄砲も、軍用ではなく猟銃が主体だった。

 

 鎧の方は、既に金の掛かる全身甲冑を付ける時代はマスケット銃の普及で過ぎていたが、胸甲や兜など鋼鉄の立派なものを持っているのは、ほとんどの場合ノルド王国兵だった。

 アスガルド兵の多くは皮の衣服程度で、鎧を付けても部分的に鉄を付けた皮の鎧程度に止まっていた。

 マスケット銃と小剣だけをもった猟師のような格好がアスガルド帝国軍の多くを占めていた事は、当時の絵画などでも伝えられている。

 ノルド王国戦士の、白銀の甲冑に絹のマントと対比した姿が良く使われてもいる。

 

 当時のノルド王国の年代記や文献、手記にも、アスガルド帝国軍を野蛮人の群や貧乏人の群と頻繁に呼んでいた事が残されている。

 加えて言えば、ノルド王国は和平が成立するまでアスガルド帝国軍を反乱軍と呼び続けていた。

 

 ただし、五大湖商工業都市がこの頃のアスガルド全体の工業生産(当然手工業)の中心を占めており、かなりがアスガルド帝国に協力しているため、アスガルド帝国が極端に不利と言うことはなかった。

 


 またアスガルド帝国が人口面で大きく有利だと言っても、本当の辺境部は開拓から日が浅い地域も多いため、人口がそのまま戦力につながるわけではなかった。

 また領域が広いため、兵士として使える数も限られていた。

 このためアスガルド帝国では、志願の見習い兵に限り満年齢で12才まで対象を下げて兵士を集めていた。

 少年兵の殆どが今で言う見習い兵や候補生で、後方支援を担当させる為の軍属扱いだったが、特に初期の頃は兵力が不足する場合が多かったため、成人前でもかなりの数が前線での戦いにも参加した。

 貴族や戦士階級では、特に少年兵の志願が多かったと言われてもいる。

 ノルド王国が「子供の軍隊」と蔑んで大いに侮った程だった。

 

 兵士の中には、責任階級がほとんどだったが、女性兵士(指揮官)の姿もあったという記録がアスガルド年代記には残されている。

 そうした女性兵士は、神話に出てくる戦士達を戦いの野へと導く死の妖精「ヴァルキュリヤ」に見立てられ、アスガルド兵の士気の鼓舞に使われたりもしたとされる。

 白馬に乗り白銀の鎧と羽根飾りの付いた兜をまとった女性戦士というお伽噺上のヴァルキュリヤの姿も、この頃に誕生したと言われる。

 また、勝利の祈祷のため前線に赴いた神官達に混ざって、神殿の巫女(=ヴォルヴァ)もいたという記録もある。

 限られているとはいえ女性が戦場に姿を見せたことから、それだけ初期のアスガルド帝国は人材が不足していたと見るべきだろう。

 

 だが一方では、鉄砲という新たな武器については、狩猟やスクレーリングとの小競り合いが日常的なアスガルド帝国人の方が遙かに扱いに長けていた。

 それに、辺境での生活そのものが過酷のため、徴募された場合の兵士の質はノルド王国の方が劣っていた。

 アスガルド帝国人は、女子供でも銃(猟銃)や馬に長けていることが多かった。

 そして銃という武器は、射撃時の反動さえ何とか出来れば、体の大きさに関係なく高い殺傷力を発揮できる兵器だった。

 しかも遠距離から相手を倒せるので、体力や体格の問題もあまり考えなくて良いのが大きな利点だった。

 ヨーロッパでは時代遅れとなりつつあった騎馬銃兵(龍騎兵やカラコール騎兵)は、広大な大地での遊撃戦に使われることで王国軍にとって常に脅威となった。

 

 また戦闘や運搬にも使える馬の数は、生活と密着している辺境の方がずっと数が多く、その気になれば非常に多くの軍用馬を用意できた。

 このため、牧草(干し草)と水さえ確保できる状況ならば、軍隊全体の機動性や遠距離行動能力が大きく向上し、騎兵の数も桁違いにアスガルド帝国側が多かった。

 

 アスガルド帝国がとかく不利だったと言われる火薬の原料調達についても、家畜の糞尿から取る技術(※土硝方)が広く用いられたため、少なくとも量において不利となる事はなかった。

 


 そして何より、初代皇帝となった若きシグルト一世は、戦争の天才と言える才能を持っていた。

 宰相のコルベインは、現代で言うところの経済を理解した優れた実務政治家だった。

 また二人は組織作りと運営が非常にうまく、寄席集まりに過ぎなかった反乱軍や初期のアスガルド帝国をたった数年で組織し、そして国家として機能するように作り替え、巨大な戦争を運営できるようにしていった。

 だからこそ、この二人が新たな国家の中心に立ったとも言える。

 

 シグルト一世が戦争の天才だったのも、当人が軍略に優れていた事や可能な限り最前線に立った事よりも、優れた軍人、将軍、参謀、政治家、役人などを見つけだして適材適所につけ、彼らに縦横に手腕を振るわせたからだという説も多い。

 残された絵画や逸話とは裏腹に、シグルト一世が最前線で銃を撃ち剣を振るうことは実際皆無だったと言われる。

 彼は、近世という時代に合致した戦争指導者であり統治者だった。

 少なくとも、スウェーデンのグスタフ王のように、一人で馬を駈けたりはしなかった可能性が高い。

 

 なお、個人の能力や資質、能力とは関係ないのだが、後の世に伝わる肖像画や文章とは違い、シグルト一世の本当の姿は平凡だったと言われる事が多い。

 赤毛だったのは間違いないが、風にたなびく深紅の長髪はカツラか髪飾りだったと言われている。

 

 戯曲などでは、シグルト一世が硬派な美丈夫(美男子)でコルベインが怜悧な印象の秀才的人物とされるが、両人とも外見は取り立てて特徴がなかったと言われる。

 それに対してシグルト一世の妻となったショーズヒルドは、その後の皇帝家の系譜に容姿に秀でた者が多い事から、後世に伝わっている通りの見目麗しさだったと考えられている。

 


 一方ノルド王国だが、国王や大臣、将軍達が能力的に無能ということはなかった。

 本当に、後世に伝わるアスガルド帝国側の年代記やサガ通りの卑怯で無能揃いであるなら、もっと早く戦争は終結を見ていただろう。

 ノルド王国そのものが、滅びていたかもしれない。

 

 ノルド王国の苦境は、300年近く経過して権威主義的で腐敗した貴族社会と古い政治機構が主な原因だった。

 

 国王のエイリークソン六世は、標準的な知識と教養、見識を持つ為政者だと当時と後世双方で評価されている。

 無能ではないが凡庸と言われる事の多いノルド王国の将軍の中では、途中から戦争大臣に任じられたチュールソン子爵が秀でていた。

 彼は肥満体の中年男で、前線での武勇はほとんど無かったが、数字や経済に詳しい人物だった。

 彼の手腕と彼が戦争に引っ張り出した数学者、自然哲学者(科学者)、そして事務処理能力に長けた役人達無くして、ノルド王国がこの後起きる大規模な戦争を乗り切ることは出来なかっただろうと言われている。

 チュールソン子爵の戦争運営は、この当時のノルド王国のほとんどの人にとっては魔術や奇術に等しいほど不可思議なものだったが、戦争を運営しているのは確実に子爵達だった。

 国王も全幅の信頼を寄せて、子爵に多くの権限を与えている。

 

 このためチュールソン子爵は、迷信的な意味での魔術師だと考えられたほどだった。

 もっともこの場合は、キリスト教的な負の捉え方での魔術師ではない。

 ラグナ教もしくはノルド神話における主神といえるオーディンは、戦いの神であると同時に学者や魔法使いでもあり、魔術師という例えも政治や軍事で優れた人物に送られる一種の称号のようなものだった。

 そしてそうした言葉が出るほど、アスガルド戦争中盤以後は優れた戦争運営者を必要としたと言えるだろう。


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