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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ06-2「アスガルドの分裂(2)」

 17世紀中頃起きた辺境での反発を、当初ノルド王国の中枢は一時的なものだと考えて軽視した。

 自分たち以外に頼る権力と権威がない以上、いずれ従うと考えていたからだ。

 しかし余剰食糧すら生産できるようになっていた地域の人々は、足りない道具は五大湖商工業都市群から得れば良いと考えていた。

 不当な税を納める気も無く、生まれてこの方見たこともない王都に住む権力者に従うことに飽きていた。

 

 そして王国中枢が把握し切れていないほど爆発的に伸びていた辺境部の人口に対して、王国の政策は後手後手にまわり、事態は悪化の一途を辿った。

 遂には軍隊の投入による徴税という手段が取られるが、ここでも問題が発生した。

 

 当時アスガルド人にとっての身近な敵とは、大陸各地のスクレーリング(蛮族=原住民)だった。

 ヨーロッパのキリスト教徒を敵視して軍艦を多数建造しているのは、ノルド王国中枢の北東部沿岸と一部五大湖の商工業都市だけだった。

 しかも実際に敵を見たり敵と戦うのは、船乗りと遠くヨーロッパに派遣されるごく限られた兵士だけだった。

 

 一方で辺境の入植地に住む人々は、攻撃的なスクレーリングに対向するため基本的に屯田兵であり、ほぼ村々の単位で独自の武力を持っていた。

 辺境の村と言えば、丸太の壁で囲んで鉄砲用の狭間と物見櫓を持っているものだった。

 辺境伯、公爵などといった領土がわざわざ設定されていたのも、蛮族の襲撃にいち早く対応するべく作られた軍事システムとしての側面が強かった。

 村を治める領主も、基本的には「戦士ヘリム」と呼ばれる中世ヨーロッパでの騎士や日本の土豪武士に当たる責任階級だった。

 辺境の統治者は、人々を守る(指揮する)ことで一定の特権を享受することを住民から許された存在だった。

 そして開拓地域では、そうした状況が名目ではなく実質面で機能していた。

 多少の例外は五大湖近くの牧畜地帯で、現地では馬の数に比例して男達が騎兵となって戦う伝統が見られるようになっていた。

 また戦士や貴族以外の庶民も、スクレーリング以外にもどう猛な獣から身を守り、日々の生活のため狩猟を行うため、銃の扱い、馬の扱いに慣れている場合が多かった。

 辺境になればなるほど、その傾向は強まった。

 

 そしてアスガルド世界の武器や道具は、五大湖沿岸都市群が主に供給していたため、王国中枢部のある北東部沿岸とミシシッピ中流域の繋がりは低かった。

 16世紀に入る頃から、事実上のアスガルド人最強の陸上戦力を有するのは、ミシシッピ中流域の辺境諸侯達となっていた。

 

 しかも当時はヨーロッパ最新の軍事技術、軍制が、交易船などによって続々と流れ込んでいた。

 陸上戦力に敏感なミシシッピ中流域の人々は、現地の領主を筆頭として最新知識を積極的に軍備に取り入れていた。

 屯田兵の兵士としての訓練も、定期的に行われていた。

 大領主の中には、農閑期に領民を集めて鉄砲と槍を交えた兵団を編成して集団戦の訓練を行うものまでいた。

 そして大領主ともなれば、領内の人口が数十万人という場合もあり、そうした領主が動員する兵力は十分に軍隊や兵団と言えた。

 

 一方のノルド王国そのものは基本的に海軍重視で、ヨーロッパ最新の軍艦を熱心に建造・配備していた。

 また当時の帆船の規模ならば、世界一の流域面積を誇るミシシッピ川は、主流のミシシッピ川はもとよりオハイオ川など大きな支流まで入り込むことができた。

 このため、船に同乗する陸戦部隊の海兵こそ鍛えて揃えたが、遠征可能な陸上戦力そのものはおざなりのまま過ごしていた。

 王室の近衛兵ですら、基本的に海兵だったほどだ。

 

 加えて、王国本土は古い入植地が多く地域の開拓も進んでいるので、既に周辺には反抗的なスクレーリングが居ないことが、そうした状況に拍車をかけていた。

 ノルド王国本国にとっての陸軍とは、蛮族相手の辺境兵の仕事でしかなかった。

 

 そうした状況で、ノルド王国の徴税隊による横暴、そして厳罰として行われた拷問、私刑により死者が出ると、一気に反発が反乱へと傾いていった。

 

 反発は辺境の一体感を生みながら広がり、住民ばかりでなく各地の諸侯もノルド王国に対して力を用いた反発となり、当時辺境で最も多くの人口を抱えていたオハイオ侯爵領が中心となって、王国への翻意を力を用いてでも促すための運動が行われた。

 


 この運動に対してノルド王国中枢は、あり得ない反発だとして 強い焦りを見せ、王国への反乱だと定義して討伐軍を編成することを決定。

 当然ながら、王国領以外のさらなる反発と事実上の大量離反を招いた。

 

 そして西暦1652年、アスガルド暦602年、王国軍が東部沿岸から海を伝ってノルド川かミシシッピ川を遡上し、本国で編成された臨時の陸軍が中心となってオハイオ侯爵領へと入ると、反乱は一気に本格化する。

 

 「アスガルド戦争」もしくは「分裂戦争」の勃発だった。

 

 戦争は、当初大ノルド王国からは内乱だとされ、優れた軍艦で河川を押さえた王国軍の圧倒的有利で戦いは進んだ。

 というより、初期においては個々で戦う以上の力や組織を持たない辺境各地は、次々に撃破されるか戦う前に降伏や恭順を示した。

 侯爵や伯爵といっても、それぞれの人口は多くて30万人程度。

 辺境の開拓半ばの伯爵領となると数万人という事も多い。

 辺境最大と言われたオハイオ侯爵領でも、せいぜい50万人程度の領土となる。

 (※ノルウェーよりも多く、当時のアイルランドも総人口60万程度でしかないので、ヨーロッパ視点なら十分に大人口と言える。

 )

 中世ヨーロッパ的視点から見れば十分な人口を抱えているのだが、富の蓄積や開拓速度、辺境になると若年人口の多さのため、人口ほどの力はなかった。

 戦える男を根こそぎ動員しても、一人や二人の諸侯では動員できる軍事力は、王国軍に対して常に限られていた。

 当面の頭数が揃えられても、軍事組織がない上に、まともな武器が揃わないからだ。

 当然だが、巨大なミシシッピ川を遡上してきた強力な戦闘艦の一斉射撃に耐えられるような軍事施設も、初期の反抗者達は持たなかった。

 まともな金属手工業を持たないスクレーリングに対する防備では、それほど強固な砦や城、要塞は必要ないからだ。

 

 反旗を翻したとして王国の生け贄にされた形のオハイオ侯爵も、最初のうちは何度か小規模な王国軍を撃退するも、有機的に団結して戦うまでには至らなかった。

 当然というべきか、各領主がその場でバラバラに戦うため統率が取れなかった。

 そしてオハイオ侯爵は、ノルド王国中枢から「見せしめ」と考えられ、オハイオ川に本格的に押し寄せたノルド王国海軍の大艦隊と大軍を前に呆気なく敗退。

 領民保護を条件に降伏して、当主マグヌスは見せしめとして公開処刑されてしまう。

 戦争勃発からオハイオ公の敗退まで、一年もかからなかった。

 王国本土が事態を楽観していたのも、ある意味当然とも言える結果だった。

 


 しかし大規模河川から離れ場所の辺境領は、この初期の戦闘でさらに王国への反発を強める事になる。

 特に、納税のための距離もある西の奥地、辺境ほど反発は強かった。

 貨幣経済の浸透が未熟だった奥地では、一定の場所までトウモロコシや小麦などをそのまま税として納めねばならず、納める事も義務に含まれたため、納める側の負担が大きいからだ。

 

 オハイオ公マグヌスも、処刑されることで中原辺境の英雄に祭り上げられていた。

 オハイオ公の第一公子スヴェンも戦死したと偽られて奥地へと落ち延び、再起を図るべく活動に入った。

 初期の反乱に荷担した者達も、おのおの落ち延びてすぐにも活動を再開した。

 辺境の人々は、既に王国の一元的な支配に飽きており、一度の敗北程度で屈するつもりは毛頭なかった。

 

 そして艦船の入り込めない場所は、陸軍力の不足する王国軍も討伐に手を焼いた。

 当然王国軍の反応は過激になり、辺境の恨みはさらに増した。

 そして王国軍の横暴が各地に伝えられると辺境同士の結束も強まり、結束して戦うための組織編成も進んでいく。

 

 これをノルド王国軍は、権高に「反乱軍」と呼んだ。

 


 そうして反乱開始2年目の終わり頃、西部辺境の反乱軍に「核」ができるようになる。

 

 反乱軍の中で中心的役割を担ったのは、ステイグリム辺境伯領の若き領主シグルト・ステイグリムだった。

 彼は成人(※当時の成人は満15才)して余り時を経ていない17才で領地を引き継いだばかりだった。

 

 そして若さのまま反乱に荷担して敗北。

 辛くも生き残って再起を図っていた。

 だが、オハイオ侯爵領での初陣で、才能の一端を示して頭角を現していた。

 ノルド王国軍海兵達が、オハイオ領で反乱軍の多くを取り逃がしたのも、彼の差配(指揮)によるものだった。

 

 そしてその後、シグルト・ステイグリムは高い求心力と指導力を発揮していくようになる。

 さらに、彼の股肱の部下で伯爵領の宰相だったシモン・コルベインは、シグルトの父の代から仕える辺境一とすら言われた逸材で、辺境伯領の優れた統治で当時から名が知れ渡っていた。

 

 そうして、シグルトとコルベインらが中心となり、優れた部下や同士を集めて反乱軍の再編成と組織作りに努め、ノルド海軍の大型戦闘艦艇が入れない内陸部という地の利を活かして戦った。

 彼らが一定の力を持つようになる頃には、オハイオ公スヴェンも反乱軍に合流して旗振り頭の一人となった。

 

 彼ら反乱軍が初期に取った戦法は、当時一般的な密集した軍隊による戦いではなく、一種の遊撃戦と散兵戦だった。

 当時の軍事常識としては破天荒で奇天烈で、兵士の多くが子供の頃から猟師や馬追(牧場経営)をしているからこそ選択できた戦法と言えるものだった。

 またノルド兵も、海兵であるが故に集団戦は不得意だったが、それ以上に広い土地での機動的な戦いには不慣れだった。

 

 ノルド兵との戦いも大規模な狩猟に似ており、ノルド兵はシグルトらが率いる一部反乱軍を、「狼の群」と呼んで恐れた。

 そして「狼の群」は急速に巨大化し、その「獲物」も大きくなっていった。

 

 反乱軍の前に辺境河川にまで派遣された海兵では対処出来なくなり、反乱軍の支配領域は急速に拡大。

 辺境の人々が次々に合流して、組織の中に組み込まれていった。

 そして一定の軍事力を有するようになると、反乱討伐のため河川の奥に入り込んできた中小艦艇を中心に捕獲艦艇を手に入れて「河軍」を編成するようになる。

 そうした上で、強大なノルド海軍の隙を付く形で世界最大級の流域面積を誇るミシシッピ流域の制河権も次々に奪い返していった。

 

 なお当時のノルド海軍は、アスガルドばかりかヨーロッパどころか世界全体を含めても最強と言えるほど強大で大きな規模を誇っていた。

 だが、ノルド王国自身が、基本的にヨーロッパ勢力と対峙しなければならなかった。

 海軍についても同様だ。

 加えて、ミシシッピの広大な流域に戦力を展開し続ける事が難しかった。

 船である以上拠点が必要だが、河川の奥深くではノルド海軍にとって安心できるだけの拠点がなかった。

 また、河川である以上、岸からの距離の問題から簡単に敵の接近を許すような地理環境が多く、本来海を根城とする彼らには非常に居心地の悪い場所だった。

 場合によっては、闇夜小舟で接近されて奇襲を受ける事すらある。

 そして地の利は、殆どの場合反乱軍にあった。

 


 シグルトら反乱軍は、自らの規模が大きくなるのに合わせて、戦い方も変えていった。

 狩猟のような遊撃戦は依然として行われていたが、状況によっては密集隊形の歩兵や騎兵の群による集団戦そのものも取り入れるようになっていった。

 砲兵も奪ったものを中心に編成されるようになり、いつしか三兵編成(歩兵、騎兵、砲兵の三種類)の兵団も有するようになっていった。

 気が付いたら、五大湖商工業都市から辺境へと、農作物などと交換で最新の武器が渡されるようになっていた。

 

 ノルド王国に最終的に勝利するには、大規模集団戦で勝たなければならないからだ。

 

 そしてシグルトらが、幾つかの中小規模の戦闘で圧倒的勝利を飾ると、中立的態度を取っていた辺境伯や入植地が続々と反乱軍に合流するようになり、戦いに勝利するたびに領土と軍事力、組織規模が拡大した。

 

 特に、当時入植が始まってあまり時間の経過していないミシシッピ川西岸の辺境には、西部大平原の強大なスクレーリングに対向するための精強な屯田兵部隊が多数いた。

 

 彼らは、王国に対して反旗を掲げていた五大湖商工業都市からの武器や道具、中原からの農作物の供給の約束を取り付けると、好戦的なスクレーリングの大部族のスー族との一時休戦を成立させて反乱軍に合流した。

 特に周辺の騎兵部隊を統括していた騎行将軍のエイナール男爵は、役職名通り騎馬戦で反乱前からアスガルド中に勇名を馳せており、反乱軍の士気も大いに向上した。

 辺境の警備と防衛を辺境に任せる(負担させる)という、ノルド王国の内政が完全に裏目に出た形だった。

 また同時に、拡大を続ける領土に対して旧態依然とした放漫経営が過ぎたノルド王国中枢の内政失敗でもあった。

 

 そしてそのツケは、巨大な形で現実となる。

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