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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ06-1「アスガルドの分裂(1)」

 西暦1600年代中頃(アスガルド歴600年代初頭)、北アスガルド大陸の商工業地域は戦争景気に湧き、産業規模自体も大きく拡大していた。

 

 ヨーロッパ中原での「三十年戦争」に際して、武器や弾薬、軍艦などの輸出が積極的に行われていたからだ。

 このため、五大湖沿岸で成長しつつあった商工業都市群が大きく発展した。

 

 しかし当時アスガルド唯一の国家であった大ノルド王国は、繁栄しているとは言い難かった。

 

 主な理由は、北アスガルドでの戦争景気が、ノルド王国の出費で賄われていたからだ。

 無論北ヨーロッパ諸国やネーデルランドからの直接の発注もあったが、相手との距離の問題、相手側財力の問題から常に限られていた。

 そしてカトリック教国のイスパニアの国力を殺ぐという戦略目的をのため、ノルド王国が豊富な銀を主な財源として、熱心に北ヨーロッパのプロテスタント諸国を支援していた。

 

 しかし戦争が長引くと、ノルド王国の支援も徐々に苦しくなった。

 自らがヨーロッパに銀を注ぎ込んだ影響で、アスガルドとヨーロッパの銀の価格差も縮まった。

 三十年戦争の主な期間、貿易を含めて毎年銀貨300万枚(ターレル銀貨1枚=35g・合計105トン)以上の銀がヨーロッパに投じられたと言われている。

 ヨーロッパで価格革命が本当に進んだのも、三十年戦争の間だと言われるほどだ。

 

 そして圧倒的資金力によって新教国を支援したおかげで、最も強大なカトリック教国のイスパニアの国力を大きく殺ぐことに成功したのだが、自らも大きく疲弊してしまう事になる。

 当然と言えば当然だろう。

 

 このためノルド王国は、自らの赤字を埋めるためスクレーリング奴隷を大量投入した鉱山での銀の増産だけでは足りなくなり、新大陸での大規模な増税を実施した。

 主な増税対象として、ミシシッピ川中流域の辺境諸侯領と五大湖沿岸の商工業都市群が選ばれた。

 どちらも地方自治の強い諸侯たちが実質的な支配者で、そこからの税金は上がってきていたものの額は常に小さくなり、税制面ではノルド王国の直接支配下とはいえないためだ。

 また、商工業都市群は急速な発展のために自由都市や自治都市が多く、ミシシッピ川中流域もここ100年ほどで急速に発展した入植地群だった。

 


 なお、この頃のアスガルド世界は、もはや一つの国家、一つの王国とは言えなくなっていた。

 

 北東部沿岸を中心に大ノルド王国が存在し、これが唯一国王を君主とした国家だった。

 ヨーロッパなど世界各地の交易や交流も、唯一の国家である大ノルド王国が行っていた。

 またアスガルド大陸に存在する全ての土地、人、物は、最終的に大ノルド王国とラグナ神殿に帰属するとされていた。

 王都ヴァルハラ中心部にある王宮や神殿も、建国頃に比べると見違えるほど立派になっていた。

 建国初期の巨大建造物といえば歴代王の墳墓ぐらいだったが、この頃にはヨーロッパに負けない規模で各種建造物が建設されるようになっていた。

 王都ヴァルハラの町並みも、煉瓦や瓦を用いた建造物や石畳の道が当たり前となるなど、ヨーロッパの主要都市を凌ぐほど立派になった。

 

 そして、国が小さいうちは中世国家規模の国家経営でも問題なかったが、15世紀末で400万人、16世紀末で1500万人の人口を擁する世界、しかも大きく二つの大陸に広がる世界が、一つの中世的国家の下で統治されるには無理が出ていた。

 人口の拡大に伴い場当たり的に役人の数は増やしていたが、統治機構そのものが旧態依然としていたため、突発的な問題には対処できなくなっていた。

 国家システム的には、100万程度の人口を抱える国のものしか持っていなかったのだ。

 キリスト教会の統治システムを持っていれば少しは違ったかもしれないが、アスガルドの人々はキリスト教を棄てた人々だった。

 

 そして、17世紀中頃のアスガルド全域の総人口は、既に3000万人に迫っていた。

 これを一つの国家として見た場合、当時の白人世界では最大級の人口を抱えていると言っていいだろう。

 3000万人という数字は、当時のヨーロッパ世界の三分の一にも達する。

 そうした国が、中世ヨーロッパ的な古くさい統治機構しか持っていなかったのだ。

 

 北アスガルド大陸の中原には、開拓地、入植地にできる無尽蔵の良好な土地が手つかずであるため、土地を開いた分だけ人の数が増えていった。

 このため、国王を皇帝、地方の公爵や辺境伯をそれぞれの地域の国王と考える方が、規模としてはヨーロッパ的となる。

 中世を引きずったままの国の統治体制自体(中央官僚団の貧弱)が、そうした地方に権限を持たせる形での統治しか行えなかったからだ。

 アスガルド世界では、辺境伯爵領という存在は、当たり前のように転がっていた。

 

 加えて、人口地帯の多くは既に内陸部の穀倉地帯へと移りつつあり、五大湖沿岸の商工業都市の発展と拡大を特需以外で継続的に支えていたのも、ミシシッピ川中原の広大なトウモロコシの穀倉地帯の農作物と大人口だった。

 トウモロコシとトウモロコシを飼料とした豚は、中原の人々の力の原動力だった。

 


 これに対して、大ノルド王国の存在する北東部沿岸は牧草地を使った牧畜にはとても向いていたが、あまり穀物栽培に向いた土地ではなかった。

 穀物栽培の主体も、大麦やライ麦といったヴァイキング達にとってなじみ深く北ヨーロッパでよく栽培されていた収穫率、栄養価の低い、寒冷地向きの穀物類が主軸だった。

 主食は相変わらず乳製品のため、農村地帯の人口密度は、低いまま推移した。

 

 ノルド王国自体の中心も北部から南下して、16世紀に入る頃にはノウム・ガルザルなどの南部沿岸都市群が国家経済の中枢となっていた。

 そしてその頃から急速に内陸部、ミシシッピ川流域の入植と開発が進められた。

 このため人口拡大を支えていたのは、間違いなくミシシッピ川中流域の新たな入植地、辺境領群となっていた。

 そうした辺境では、子供や若い世代ばかりで中年や老人の姿は少なく、豊富な労働力を投じることで次々に開拓地を増やしていた。

 文字通りの幾何級数的拡大、産めよ増やせよ地に満ちよという状態だった。

 

 一方で、グリーンランド島から最後にアスガルド大陸に逃れてきた人々が中心になってノウム・グリーンランドを形成し、五大湖北部を中心に広く静かに勢力を広げていた。

 現地は一部を除いて穀物栽培が難しいが、ヴァイキング伝統の牧草による牧畜を中心にした農業に向いた土地が多かったため、かつての暮らしを維持したいと考えた人々が多く住み着いた。

 そして先にアスガルド大陸に来た人々の子孫達が暖かい土地を好んだため、特に争いもなく棲み分けが進んだ。

 15世紀中頃には、ノウム・グリーンランド改め「エイリーク辺境伯爵領群」が作られ、様々な人々が新たに貴族に列せられた。

 人口と領域がさらに拡大した17世紀には、ノルド王族から人を迎え入れたエイリーク公を中心にして公爵領に格上げされた。

 

 同地域の一部では、早くも北海沿岸地域で発明された混合農業が土地ごとに改良されて取り入れられ、農業生産量と人口の拡大を行っていた。

 これが同地域の自立を早め、さらにアスガルド全体にヨーロッパでの革新的農業が広がる契機にもなっていた。

 土地を自ら運営する貴族とは名ばかりの地主達は、自らの生産力拡大、領民の暮らしの向上に積極的だった。

 そうした方が、自分たちがより豊かになることを体感的、伝統的に知っているからだ。

 アスガルドの貴族は、もとが開拓民であるため在地領主が非常に多く、自らの農地を大切にすることが伝統となっている影響だった。

 

 農業の事はともかく、同地域は五大湖からノルン川を経て大西洋に出るルートに存在するため、徐々に五大湖商工業都市群との関係も深めた。

 一方では、アスガルド人より保守的な人々のため、民族的温度差とでも呼ぶべき心理的隔たりが、ノルド王国との距離を年々開けさせることになる。

 


 北アスガルドのミシシッピ中流域以西は、依然として原住民(=スクレーリング)の領域で、西に進むほど樹木が少なく草原ばかりとなるため、農業に向いた地域とも考えられない遠くの大平原においては、一度野生化した馬などの家畜を糧とした一種の原始的な騎馬民族的国家の形成が進んでいた。

 この事は、原住民が初期のパンデミックの打撃から立ち直り、新大陸にいなかった動物(家畜)とのつき合いを自分たちも取り入れた証だった。

 

 北アスガルドの大東洋側では、南部の開けた平原の一角に「アールヴヘイム(妖精の国)」と名付けられた入植地が開かれていたが、遠い場所でもあるため開発はまだかなり限定されたままだった。

 当然ではあるが、アジアから大東洋を渡って移住してくる人の姿はまだなかった。

 故にアスガルド人も、比較的のんびりしていたと言えるだろう。

 

 また両大陸の間にあるエーギル海には、16世紀後半からユーラシア大陸から伝搬したサトウキビのプランテーションが各地に建設され、スクレーリング同士の対立を利用した奴隷貿易によって得られた労働力を活用した資本主義的単品農業が行われていた。

 13世紀から14世紀頃に主に疫病によって壊滅した北アスガルドの原住民人口は、その程度には回復していた。

 そして生産された大量の砂糖は、多くが北アスガルド各地に供給され、余剰の一部が北ヨーロッパへと流れていた。

 

 なお、エーギル海、ソルフルーメン川以北のメヒコ地域から北は全てノルド王国直轄の植民地とされ、北アスガルド地域の同族を遙かに上回る過酷な支配が行われ、アスガルド人の繁栄を支えていた。

 例外は、アルゼンチン(ラテン語で「アルゲンンティン」を意味する)地域の温帯平原に開かれたアスガルド人による新たな入植地ぐらいだった。

 現地ではヨーロッパ由来の農業や牧畜が可能なため、16世紀中頃から大きな国家の統治を嫌う自由アスガルド人の移民が少しずつ進んでいた。

 特に17世紀序盤が終わり北アスガルドのミシシッピ中流域での人口爆発が起きると、ノルド王国領内で余剰した人々の移住が増えていった。

 


 以上の状況を住んでいる人でごく簡単に分けると、権威的な東部沿岸のノルド王国、自由闊達な中部の五大湖、開拓心に富んだ中西部のミシシッピ中流域辺境部、やや保守的で少数派の北部のエイリーク公爵領と言うことになるだろう。

 

 北アスガルド大陸内では、原住民スクレーリングが南部湿原や北部森林地帯、そして西部大平原に依然としてかなりの数が住んでいたが、それは白い肌を持つアスガルド人にとっては、奴隷供給地、もしくはいずれは征服する予定の取るに足らない勢力でしかなかった。

 攻め込まないのも、奴隷供給を維持するためと、土地の多くがアスガルド人の好む農業に向いていないからだった。

 

 そうした中でアスガルド人の中で問題となったのが、北東部沿岸の権力者達が各地のアスガルド人に課した重税だった。

 

 古来より重税による搾取が国家の根幹を揺るがす例が見られたが、この時も例外ではなかった。

 しかも大多数となる入植地での生活を始めた人々は自主自立の精神が強く、商工業者については言うまでもない。

 そうした人々が権力の横暴に反感を持ち、為政者側が行きすぎた場合反旗を翻すのは古今東西どこでも見られた光景だった。

 

 しかもノルド王国の権力者達は、長い間一つの国家以外に選択肢がないという「伝統」に縛られすぎ、一方の辺境の人々は世界が一つではない事を知っていた。

 

 北東部沿岸都市群と辺境農業地帯の距離が1000キロメートル以上離れているという物理的要素も、そうした心の乖離を大きくしていた。

 当時の距離感や交通手段からすると、五大湖沿岸はともかくミシシッピ中流域は東海岸からあまりにも遠かった。

 東部から五大湖沿岸に行くにも河川と運河を使うのが一般的で、陸路は選択肢として副次的だった。

 ミシシッピ中流域に向かうにも、五大湖から陸路と小規模河川を経てオハイオ川に入り、そこからミシシッピ川流域各地に船で行くのが一般的だった。

 大型船をミシシッピ川に入れる場合などは、海をぐるっと回ってミシシッピ川を遡航した。

 

 無論、各地で馬が大量に飼育され、農耕、運搬、移動に活用されてはいたが、馬車が大量に往来することの出来るほど整備された道路は、東部沿岸、五大湖沿岸の一部、そして東部沿岸北部と五大湖東部を進む主要街道ぐらいしかなかった。

 

 北アスガルド大陸が本格的に開発されるようになって、まだ200年から300年程度しか経過していないため、ヨーロッパ中央部のような進んだ交通網にはまだ到達していなかった。

 状況としては、中世ヨーロッパの中部ヨーロッパ地域や同時代のロシア地域が近かった。

 土地の多くは、いまだ動物たちの住む深い原生林であり、人は森の主人ではなく狼や熊が支配する世界だった。

 場合によっては、獣より人の方が弱者となる地域すら見られた。

 

 こうした距離や環境の違いと問題があったため、同じ地域、同じ国という認識を持つことが世界の広がりに伴って年々難しくなっており、北東部沿岸の人々と生涯海を見ない人々の価値観、考え方は離れていった。

 

 そうしたところに莫大な増税とその運搬の話しが権威的な役人の来訪と共に舞い込み、一気に反発がまき起こった。


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