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アスガルド・サガ(ASGARD SAGA)  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ05-2「新旧対立と三十年戦争(2)」

 またアスガルド人が持ち込んだ新大陸の作物栽培が、16世紀後半から北ヨーロッパ各地で始まる。

 そして16世紀末頃になると国策によって栽培が普及し、貧しく寒い筈の北ヨーロッパ地域の人口が大きな上昇曲線を描くようになった。

 最初の栽培はアスガルド商人が借り上げた農地で行われ、人々に振る舞って普及促進に努められたりした。

 この人物がノルド王国の男爵位を持っていたため、当初作物の名前を隠語として「男爵」と呼んだりもした。

 

 そして「奇跡の作物」と言われたこの農産物こそが、カトリック教徒や正教徒、ユダヤ教徒に対して呪いがかけられていると宣伝されつつ新大陸から持ち込まれたパタタ芋だった。

 パタタ芋はカロリーが高く、寒冷な地や荒れ地でもよく育ち、地中に実を付けるため鳥害にも強く、しかも一年に何度も栽培と収穫が可能という夢の様な作物だった。

 しかも穀物ではなく野菜の一種のため、航海中に食べれば壊血病の予防にもなった。

 ついでに言えば、小麦ではないのでキリスト教世界での税の対象にもならない作物になる。

 

 芽に毒があったり、連作で地力が衰退すると病気にかかりやすいなどの欠点はあったが、作り方は既にアスガルド人がよく知っていたので、そうした欠点を補うことも十分可能だった。

 

 ただしパタタ芋は、古い邪教を信奉するアスガルド人がもたらした「悪魔の実」だと流布された。

 一方では、アスガルド人と同じ血を持つノルド系民族には無害だが、他の人種には有害な作物だという説も流布された。

 そして迷信と現実二つの要素による説がヨーロッパに広まったため、パタタ芋が北ヨーロッパ以外に広がるには、さらに1世紀以上の時間が必要だった。

 パタタ芋の威力を知るアスガルド人が仕掛けた策略が、見事に嵌った結果だった。

 

 そしてパタタ芋の栽培を精力的に進めた北ヨーロッパでは、目に見えた人口増加が短期間のうちでも見られ、当然国力の基礎を大きくすることになる。

 これにアスガルド人が持ち込んだ銀による経済の活性化が加わり、北ヨーロッパ中心部の発展へとつながっている。

 


 そうした中、17世紀に入って大きく隆盛した北ヨーロッパの国が、スウェーデン王国だった。

 

 西暦1611年に17才で王位についたグスタフ・アドルフと、アドルフによって即位の翌年宰相となったアクセル・オクセンシェルナの二人の天才によって、当時低迷した国だったスウェーデンは見違えるように強大化していく。

 当時弱兵だった軍の建て直しはアドルフ王自らが、内政は宰相オクセンシェルナが担当した。

 

 また17世紀初頭からノルウェー、デンマークなどと同様にパタタ芋の栽培が進んでいたため、北ヨーロッパの他の国より農業に向いていた事もあって人口の拡大が最も大きかった事も、スウェーデンの拡大を大きく助けた。

 

 1620年代には、アスガルド船もスウェーデンの王都ストックホルムにも頻繁に訪れるようになった。

 ストックホルムは環バルト交易の中心として栄え、スウェーデン自身もバルト海沿岸地域での勢力を拡大した。

 このため同時期にロマノフ王朝が成立した頃のロシア地域では、かつてヴァイキング達が作った国々(ノブゴロド王国など)の生き残りを集め、ドイツ騎士団領の残骸を併合して直接的領土を拡大し、当時成立して間もないプロイセン公国との間には姻戚関係を結んだ。

 同じプロテスタントを信奉する北ドイツ地域への進出も熱心に行われるようになり、次なる争乱が始まる頃にはスウェーデンはヨーロッパ北部のプロテスタント国家群の中心的役割を担うまでになっていた。

 

 それだけの経済力と国力を、スウェーデンが有するようになっていた何よりの証拠だった。

 


 そしてヨーロッパの人々にとって問題を大きくしたのが、北ヨーロッパ地域では16世紀の早い段階から宗教改革が進み、スカンディナビア半島からバルト海沿岸部一帯がプロテスタント地域になっていたことだった。

 

 17世紀序盤、ヨーロッパ世界はカトリック教国のイスパニアが最も強大な国家だった。

 同じカトリック教国のフランスは、国内のプロテスタントの弾圧と内戦(ユグノー戦争)を終えるも、国力の回復過程にあった。

 エリザベス女王のもとで国教会という独自の新教を作り出したイングランドは、ローマ教会からのくびきからは脱するも、いまだ近隣諸国やアスガルドとの小競り合いに終始し、国力の拡大や他の地域への進出はままならなかった。

 しかもイングランドは、経済面でもネーデルランド、北ヨーロッパ諸国に圧倒されていた。

 

 北ヨーロッパ諸国は、商業的成功と人口増加によって国力を大きく増していたが、スウェーデンはロマノフ朝へと変わったロシアとの対立を深めていたため、ヨーロッパ中央への影響力を高められないでいた。

 

 東欧の雄ポーランドとバルカン半島から東地中海を制覇するオスマン朝トルコは、いまだ広大な領土を有していたが、国内の停滞によって能動的に動けるだけの力を既に失っていた。

 

 そしてモザイク国家の神聖ローマ帝国は、新教と旧教の入り乱れた地域で、この頃のヨーロッパの「火薬庫」だった。

 

 そして新教と旧教の対立が、1618年に激発する。

 

 ドイツ地域での様々な規模での戦闘の連続はあしかけ30年間続いたため、後世「三十年戦争」と呼ばれる事になる。

 

 戦乱によりドイツ中原は壊滅的打撃を受け、地域によっては総人口の実に3分の2が何らかの理由で死んだとされる。

 

 戦争の基本は、北ヨーロッパ諸国とネーデルランド、北ドイツの新教プロテスタント勢力と、神聖ローマ帝国や他のドイツ諸侯とそのパトロンであるカトリック教国のイスパニアとオーストリア(=ハプスブルグ家)による戦争だった。

 つまりヨーロッパ世界で最大規模の宗教戦争だったのだ。

 

 長期間続いた戦争は錯綜したが、初期の頃は新教、旧教で分かれたドイツの小国同士による戦争だった。

 しかし後ろにイスパニア(ハプスブルグ家)とスウェーデン、ネーデルランドなどが着くことで戦乱は長引き拡大した。

 小国同士では大した戦争は出来ないのだが、戦費を色々な国が融通するためドイツには大量の傭兵が流入し、戦争期間以外で傭兵は食い詰めてしまうため、雇われない傭兵という人災がドイツの大地に酷い惨禍をもたらす事になる。

 

 1624年にフランスでリシュリューが宰相となると、彼は新旧対立ではなくフランスの国益の為に反ハプスブルグ的動きを行い、旧教国のフランスが新教側を後ろから支援するようになる。

 直接的に動いた最初の国は、デンマークだった。

 


 16世紀後半からの経済的成功で国力を増していたデンマーク王国は、欲をかいてフランスの支援をアテにしてドイツ国内に深入りしすぎ、大傭兵隊長ヴァレンシュタイン(アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン)によって散々にうち破られ敗北を喫した。

 このため一時的に旧教勢力がバルト海にまで勢力を拡大するが、これを格好の口実と捉えたスウェーデンがついに参戦。

 数年前までロシア人と睨み合っていた精兵を、一気に北ドイツ平原に進軍させた。

 

 そして時期を得た事、「北の獅子王」と謳われた勇猛なグスタフ王の手腕もあって、スウェーデン軍が戦争を有利に運んだ。

 

 しかしこれに危機感を覚えた旧教側の皇帝軍(神聖ローマ軍)は、一度は解雇した大傭兵隊長ヴァレンシュタインを再び雇い、傭兵達を集めてスウェーデン軍に対峙させた。

 

 だが、皇帝軍側の事実上の盟主であるハプスブルグ家及びイスパニアは、既に財政的に逼迫していた。

 対するスウェーデンは、自らの国力拡大に伴う経済力に加えて、アスガルドのノルド王国からの多額の支援もあって、ドイツ中原に大軍を展開していた。

 最大時には、現地傭兵だけで5万人いたとすら言われる。

 

 このため戦争全般は、スウェーデン優位で動いた。

 しかし今度は兵力が不足する皇帝軍が戦闘を避けるようになったため、グスタフ王は一計を案じる。

 

 軍を二つに分けたグスタフ=アドルフ王率いるスウェーデン軍は、一軍が戦争を決するべくウィーン包囲の動きを取り、王自ら率いる3万5000の軍が、ようやく戦場に出てきた天才的戦争手腕を持つ大傭兵隊長ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍との決戦を強要して、先の皇帝軍を蹴散らしたのと同様に新戦術によって粉砕した。

 

 この戦いが、戦争中盤の帰趨を事実上決したと言われる「リュッツェンの戦い」だった。

 

 スウェーデン軍の勝利は、統制の取れた大軍と優れた武器は、今までにない大人口と経済発展、そして遠く新大陸から援助するノルド王国のお陰だった。

 最盛時のスウェーデン軍は、合計10万もの大軍をドイツ各所に展開し、ネーデルランドに手を焼いたイスパニアが財政破綻にひた走るのを後目に勝利を積み重ねた。

 

 そして1634年、ドイツ南部のネルトリンゲンで和約が成立することで、スウェーデンがこの時点での勝利を決めてドイツに確固たる足場を築く。

 これで「北の大帝」と称えられたグスタフ王とスウェーデン軍のかなりが、祖国に一旦戻った。

 流石に戦費が苦しくなった事と、スウェーデンには、ポーランド・リトアニアという旧教国とロシア帝国という別の敵も存在したためだ。

 

 その間新教、旧教双方で錯綜する動きが出た。

 


 新教側のイングランド王国は、イスパニアの制海覇権を衰えさせるべくネーデルランド連邦と共に主に海で戦ったが、イスパニアが事実上財政破綻して勢力が衰え、ヨーロッパ中原でスウェーデンが力を増してその力を海外進出にまで傾けるようになると、今度は露骨にスウェーデンと対立するようになった。

 そしてイングランドは、直接スウェーデンとは戦わずに、旧教勢力だとしてブリテン島北部のスコットランド王国と隣のアイルランド王国への攻撃を行い、北ヨーロッパの力の大きな部分を占めるアスガルド人の努力を、スコットランド、アイルランドに向けさせた。

 当然、ヨーロッパの勢力図は大きく動いた。

 

 そしてイングランドの変節が、遂にフランスを戦争の表舞台に立たせることになる。

 

 北ヨーロッパ諸国が財政面でヨーロッパ中原に大軍を送り込めない状態と、イスパニアが内実大きく衰退しているのを見て、自らの国益拡大のために新教側で参戦に転じたのだ。

 

 フランスの宰相リシュリューとスウェーデンの宰相オクセンシェルナ合同の脚本演出による、三十年戦争の総仕上げの始まりだった。

 

 フランスは、主に南ネーデルランドやフランシュ・コンテなど本国近辺のハプスブルグ領を攻撃した。

 ネーデルランドも、主に近隣のハプスブルグ領土を攻撃した。

 一方のスウェーデンは、プロテスタント諸侯を再び糾合して、ハイルブロン同盟を結成するなどの成果を挙げて緩んでいた体制を再構築して、皇帝軍やドイツ中原のハプスブルグ領を圧迫し続けた。

 

 そして四面楚歌となったイスパニアは、軍事的にもフランス軍に大敗を喫してしまう。

 ハプスブルグ家の領域全体も財政破綻を迎え、神聖ローマ帝国の皇帝側の実質的な敗北によって戦争は終わりを迎える。

 東や北でも、依然としてグスタフ王が陣頭に立つスウェーデン軍が、皇帝軍、一部ポーランドを含む旧教軍、さらには早くも蠢動していたロマノフ朝ロシアとの戦闘にも勝利を飾った。

 海でも、スウェーデン、ネーデルランド、フランスによる連合艦隊が、イングランド海軍を粉砕していた。

 

 西暦1648年に世界初の国際会議である「ヴェストファーレン条約」が結ばれ、ヨーロッパ世界は新たなステージへと向かうことになる。

 


 なお条約により、フランスはアルザス・ロレーヌ地方ばかりか、イスパニアより南ネーデルランドの半分を獲得した。

 正式独立を勝ち取ったネーデルランドは、戦争の最後に南ネーデルランドにフランスと呼吸を合わせて進軍して、南ネーデルランドの北半分を得ることに成功していた。

 この結果イスパニアは、ライン川地域の領土をほぼ全て失い、国力衰退がさらに進むことになる。

 この他、スイスも正式な独立を獲得しているが、最も大きな成果を得たのがスウェーデンだった。

 

 スウェーデンは、神聖ローマ帝国領のうちバルト海沿岸のほぼ全ての領有が認められた。

 既に姻戚関係が深まっていたプロイセン公爵領も、国力差からスウェーデンの属領と認められ、北ドイツ内陸に進んだブランデンブルグ地方の支配権も得た。

 さらに、ブレーメンなど北海に面した地域の多くの権利も獲得し、スウェーデンはデンマークを介することなく外洋(北海)に出る事ができるようにもなった。

 

 何より、ヨーロッパの大国としての地位を確立し、グスタフ王が没して後も長らく北ヨーロッパの盟主として活躍する地位を得ることになる。

 

 そしてその後のヨーロッパは、17世紀の間はフランスとネーデルランドの対立が強まり、ネーデルランドを支援したスウェーデンなどの新教勢力と、フランスなどの旧教勢力という形での戦争や競争が続くことになる。


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