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四季の物語

夏の色




「夏の色……」

 彼女の言葉に、僕は顔を上げた。

 その言葉が僕に向けて発せられたのだと思ったのだ。

 でも、僕の目の前にいる彼女はぼんやりと窓の外を見ていた。

 彼女の前に広げられたノートの英文和訳も途中で止まったままだ。

 僕はやりかけていた数学の問題集に目を戻した。

 問三のカッコ2がどうしても分からない。

 しばらく試行錯誤を繰り返し、やがてそれが全部堂々巡りになってしまうと、僕は諦めてシャーペンを置いた。

「夏の色がどうしたの?」

「えっ!?」

 彼女は驚いて僕を見た。猫みたいにくるくると表情の変わる大きな目で。

「やだ、聞いてたの?」

「聞こえたんだよ」

 僕は訂正した。

「それで……? 夏の色がどうしたの?」

「うん……」

 彼女はちょっと困ったような顔をした。言おうか言うまいか迷っているようだった。

「……つまんない話だよ?」

「受験勉強よりは面白いよ、多分」

「夏にはね……色があるの」

 彼女はそう切り出した。

「たった一色だけ、夏の色が」

「ふうん……どんな色?」

「秘密」

 彼女は長い髪をかきあげて悪戯っぽく笑った。

「っていうか、私も知らないの」

「なんだよ、それ。誰に聞いたの?」

「死んだお祖母ちゃん。いつか私にも分かるときが来るって……そう言ってた」

「ふうん。……でもきっと明るい色だろうな。海の青とか、森の緑とか」

「……うん」

「でも、オレたちの夏はさしずめ、灰色の夏ってとこか? 何とか現役で受かって薔薇色の春を迎えたいよ」

「そうだね」

 彼女は少しだけ笑った。なにか言いたそうだったけど、僕の口から一瞬早く、下らない言葉が出た。

「ねえ、この問三のカッコ2分かんないんだけど……」

 彼女が一瞬だけ、悲しそうな顔をした。けれどその表情はすぐにいつものふんわりとした笑顔に包まれて消えてしまう。

「え、どれどれ?」

 彼女は僕のノートをひょいと覗きこむ。

「あー、これはね……」

 彼女が解説を始め、それで夏の色の話は終わりになってしまった。



 高校三年の夏。

 僕たちの未来はまだ混沌としていて、受験という壁を乗り越えなければその後に続いているであろう長い道を見はるかすこともできなかった。

 だから、僕ら前向きな受験生たちは、とにかくその壁を乗り越えることに全力を注ぐ。

 たとえ、乗り越えたところで見える未来がわずか四年分しかなかったとしても。



 市立図書館を出た僕たちに、もわっとした耐え難い熱気が襲ってきた。

「ぐわ、暑いなぁ」

「だって夏だもん」

「それにしたってこの暑さは反則だぜ。ちょっと待ってよ、ジュース買いたい」

「あ、私ウーロン茶」

「残念だなぁ。オレはコーラが飲みたいんだ」

「ぶー」

 僕は自販機の前に立った。小銭を入れ、コーラのボタンを押す。

 がたん、と音を立てて、出てきたのはウーロン茶だった。

「……はい」

 僕はそれを彼女に投げ渡した。

「わっ」

 彼女は慌ててキャッチして、

「どうしたの、これ」

「どうしたの……って、ウーロン茶だよ」

 言いながら僕はもう一度小銭を入れて、ウーロン茶のボタンを押す。

 がたん、と音を立ててコーラが出てきた。

 僕たちはそれを飲みながらしばらく歩いた。コーラはすぐにぬるくなって、甘ったるい砂糖水に変わった。

「飲む?」

 僕の問に彼女は当然のごとく首を振ったので、僕は中身を道の脇の草むらに撒いてから缶を近くのゴミ箱に捨てた。

「あ、もったいない」

「蟻にあげたんだよ」

「そうやって自分をごまかしてばかりだといつかひどいことになると思う」

「……」

 僕らがいつも別れる児童公園の前に着いた。

 この先の道を右に曲がると僕の家の方、左に曲がると彼女の家の方、そしてこの道をまっすぐ行くと僕らの通う高校がある。

「ねえ」

 彼女が僕の腕を柔らかく引っ張ってきた。

「公園、寄ってこうよ」

「珍しいね」

 僕はちょっと微笑んだ。

「前に誘ったら暑いからやだって言って帰っちゃったのに」

「あの日は、だって」

「ん?……ああ、女子は色々あるよね」

 訳知り顔で頷くと、彼女は、バカ、と言いながらそっぽを向いて公園の中にすたすたと入っていってしまう。

 僕も慌てて後を追う。

 僕が公園に足を踏み入れるのを待ち構えていたかのように、セミが一斉に鳴き始めた。僕はその大合唱の中、きょろきょろと彼女を探した。こんな真夏に公園で遊んでいる子供は一人もいない。

「こっちこっち」

 彼女が滑り台の陰からひょい、と姿を現した。僕の方を見ながら微笑んでいる、夏の木漏れ日の中の彼女は……なんて言うか、すごく幻想的だった。

「……どうしたの?」

 ぼんやりと彼女に見とれていた僕に、彼女が不思議そうな顔で近づいてきた。

「あ、いや……」

 僕は慌てて首を振った。セミは相変わらずやかましい。

「でも懐かしいよね」

 と彼女。

「昔はよくここで一緒に遊んだよね」

「えっ!?」

 僕はうろたえた。

 彼女と初めて出会ったのは高校二年のとき。

 クラスメイトとして一緒になったのだ。

 お互いの家の距離は遠くないのだが、学区の違いで小学校も中学校も一緒にならなかった。

 だから、彼女とこの児童公園で遊んだことなんてないはずだが……

「忘れちゃったの? ほら、去年」

「……」

 僕はやや呆れ顔で彼女を見た。

「去年のことは、昔って表現しないぜ、普通」

「えっ、そうかなぁ」

 彼女はさして気に留めた風もなく、ブランコの方に駆けていく。

「入試の国語、平気か?」

「平気だよ。そんな問題出ないもの」

「そりゃそうだ」

 僕は、ブランコに腰かけてきぃきぃと揺らしている彼女に近付いていった。

 彼女は近付いてくる僕を、澄んだきれいな目で見つめている。

 僕は空を振り仰いだ。公園の木々の緑を、強い夏の陽射しが通り抜けてくる。

「……夏の色」

 僕は呟いた。空の青。木々の緑。ブランコのオレンジと彼女の瞳の茶色。

 え、と彼女が声を上げる。

「知りたい」

 彼女に目を戻して、僕は言った。

 宝物の在りかをこっそりと教える海賊みたいな喋り方で。

 彼女はぽん、とブランコを飛び降りた。

 その勢いのままで僕に抱きついてくる。

 僕は二歩よろけてから、そこでなんとか踏みとどまり、彼女の背中に腕を回した。

 そのまま、五秒くらい経った。

 くすり、と彼女が笑った。

「暑いね」

 彼女の華奢な体は柔らかくて、ずっと抱き締めていたかったけれど、夏の陽射しはそれを許してくれなかった。

「そうだね」

 僕は答えて、彼女の体を離した。

 彼女の額に汗の粒ができていた。僕も鼻の頭に汗をかいていた。

「帰ろうか」

 僕は言った。セミの合唱が不意に止む。

「うん」

 彼女は素直に頷いた。

 僕は右手を差し出した。あの太陽も、手を繋ぐくらいは許してくれるだろう。

「送ってくよ」

「うん」

 彼女の手を握って、僕は歩き出した。

 暑い夏。春はまだ遠かった。



 僕たちはいつか知るだろう。

 世の中のいろんな仕組みや、人生の喜劇、悲劇。

 たった一色だけの「夏の色」を知るときも、やがて来るのだろう、彼女の祖母の言葉を信じるのならば。

 けれど、何を知ろうとも、忘れはしないだろう。彼女と一緒に、灰色の壁の向こうに明るい未来を夢見ていた夏、抱き締めた彼女の体温を。

 時間は流れる。緩やかに、けれど確実に。そして僕らは歩き続ける。一歩ずつだが、着実に。未来を知るため、過去を忘れないため。刻むその一歩一歩に、健気な祈りを捧げながら。





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ううう、青春……! 拝読している今がめっちゃ寒い季節だということも忘れ、むかしむかし、みずみずしかったはずの当時の夏へと、あっというまにタイムスリップしました。 夏の臨場感がすごい勢いで目の前にせまっ…
[一言] 面白かったです。 凄く甘酸っぱい気持ちになりました。 大学受験を控えて灰色の夏でも、彼女の祖母の言った意味が今は分からなくても、『今年の二人の夏の味は、凄く甘酸っぱかったね』、きっと忘れられ…
[一言] 次第に暑くなる昨今、不思議な非現実感を持つ作品に出会えて感謝です。ちっともファンタジー要素はないのに。 コーラとウーロン茶。その僅かな捻れが、現実でありながら何処か向う側寄りの雰囲気を醸し出…
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