2話
人間同士が争うと言ってもそこには厳密な原因が存在する。
それは他者を妬み恨むなどと言った抽象的なことではない。
最たる例は食糧問題と種の保存だ。
だが、このどららも争いには発展しても、争いの原因そのものを消し去るということはできない。
食糧問題はこの国ではまだ滅多に見られないが、ある国ではクローン食品の実施が開始され軌道に乗っている。
この国でまだ実施されていないのは自然によって生まれたか、科学によって生まれたかという問題に対して、倫理観がそこに割り込んできているからだ。
それも年々の人口の増加によって見方も変わりつつある。
それでも争いは消えないだろう。
統計的な事を見ても食糧不足は貧困な側よりも比較的健康状態のいい側の方が好戦的である。
それに食糧不足で争い起こす人種はほとんどの場合、食糧のある人種に敗れ今まで以上の貧困を強いられ食糧のある人種はそれを何とも思わずに食い潰す。
例え世界に貧困という言葉がなくとも人は争いを止めないだろう。
次に種の保存。
つまり自分の子供に遺伝子を継がせることがある。
これは現代の人々も目にしている通りの医学の発展で分かるだろう。
数十億ある病原菌に対して正確な対処のできるワクチンが作り出され、遺伝子工学の発展で塩基配列を解析された人間なら有害な地域でも暮らしていける。
医学の発展によって種の保存が容易になってきてはいる。
しかし、人が個体である限り自分と同じ者たちが群れ、異質な者たちを排斥する志向は変わらない。
その見えない枠組みがある限り全ての人間が一つになることは出来ないし、出来たとしても途方もない年月と労力を必要とする。
私は考えた。
考えずにはいられなかった。
それではどうすれば真の争いの原因を消すことが出来るのか?
残念ながら私には原因を消すといった偉業は無理だ。
それは今までに挑戦してきた歴史上の人物が物語っている。
私は賢者でも、仙人でも、ましてや天才でもない。
一人の矮小で脆弱な人間なのだ。
人は檻の中に囚われているのだ。
その檻は無知と猜疑心と利己心という生存本能で固められた檻。
そして私もその檻の中に囚われている。
だから私は答えを導き出した。
檻を壊すことは出来なくとも入れ変えることは出来るのではいのか、と。
そして完成したのが〈エロイス〉だ。
人間の約二七四種類という細胞と脳の構造論と感情の理論的機能によって生み出された人工生命。
我ら人間の新しく他者を隔てることのない開け放たれた檻。
私は提案した。
私たち人間の大脳辺縁系の海馬の中にある記憶を記憶媒体に移し、それを〈エロイス〉の培養脳に移植する。
そうすれば〈エロイス〉は新しい人類となって誕生するのだ。
欲求を抑えられた〈エロイス〉は争う理由がなく、すべて同じ素材を使った〈エロイス〉であれば他者を差別する理由もない。
そして何より感情制御によって誰もが誰もを愛し慈しむことも可能である。
彼らの違いは記憶の違いだけで完全な個であり完全な全になれるのだ。
それが私の理想郷!
人類の新しい明日になるのだ!
暗い暗い室内。
私はそこで頭を抱えたまま立ち尽くしていた。
少量の蛍光灯の明かりはラボ内を薄闇の中に浮かび上がらせ、鼻腔を刺激する鉄と潮の臭いが私をさらに混乱させる。
手から滑り落ちた血塗れのメスが床とぶつかる無機質な音もどこか遠いとこの出来事ように聞こえた。
スピーチは失敗だった。
私の考えを彼らは非難し、私の理想郷を嫌悪の対象とした。
私を天才と言っていた者は愚かな狂人と嘲笑し、私の助手や研究員は私を間違っていると糾弾し去っていった。
それでも私の周りに集まってくる者もいた。
彼らは社会から排斥され、行き場をなくし、世界の不条理に挫折した者たちであった。
そして私は気付いたのだ。
私が異端であったことに。
何とも皮肉だ。ガリレオもコペルニクスも最初は非難されていたがそれでも最後は認められた。
だが、私にそれはない。
私は人間の檻を破壊しようとした。それは彼らが檻によって縛られているからだと思ったからだ。
だが、違った。檻は人間を縛りながらも人間自体を守っていたのだ。
そしてそれを破壊し、作り変えようとした私は認められることはない。
彼らには明日の存在が明確に存在しているのだ。
それは明日の見えない私や異端の汚名を被せらされた者たちとの決定的な違いであった。
私は手術台の上にいる少女に目を向けた。
彼女は息をしていなかった。
頭部を開き頭蓋骨を除去され、脳を包んでいた硬膜が開かれた状態で大脳辺縁系の付近に多数の記憶媒体用の装置を取り付けられた少女の死骸だった。
これで私の元に集まった全ての異端者は死に絶えた。
彼女も他の者たちも私の理想に近づくために自ら進んで実験体になったのだ。
だが、そのどれもが失敗した。
いくら機材が揃っていようと肝心のスタッフがいなければうまくはいかない、それに理想郷を認めさせようとする気持ちが私を焦らせていたのかもしれない。
私は少女の虚無の瞳に僅かに残る世界への憎悪と他人への猜疑のかがり火を消してやるためにそっと静かにその目を閉じた。
もしかすれば少女の憎悪も猜疑も私自身に向けられたのかもしれないという考えは無理やり心の中に沈めた。
その時荒々しい音ともに扉が破壊され、覆面を被った男たちが乱入してきた。
「き、君たちは一体……?」
「動くんじゃねぇ!」
男は叫ぶなり手に持った銃を私のほうへ向け威嚇の声を叫ぶ。
だが、それは手術台の死骸を見るなり驚愕の声に変わる。
「な、何だこりゃ!?」
さらに他の男たちが手に持った携帯電灯で培養槽を照らし出し悲鳴と嘔吐を吐き出す。
「に、人間のすることじゃねぇ……!」
彼らが見ているのは私の元に集まった異端者たちの死骸。
だが、それらは本来の人間の姿と酷似していないだろう。
微笑ましく永遠の恋を望んでここに来た男女は両手と両手、両足と両足を互いに共有し左右の顔が接着した顔面で笑みをを作っていた。
子供を〈エロイス〉にすることで孕まされた我が子を次の世界の希望にしようとした身重の母親は口から胎児を出産したまま絶命していた。
失明した自殺志願者の男は視神経でつながり顔から飛び出したいくつもの眼球を慈しむように手の平の上に乗せていた。
すべて実験に失敗したがせめてもと思って私がやったことだった。
「てめぇ! それでも人間か!」
最初に叫んだ男が私の胸倉を掴み額に銃口を突きつける。
金属のヒヤリとした感触が皮膚を突き抜けた。
覆面の上からでもわかる明確な殺意を持つ人物の声は私にはまだ幼く聞こえた。
「悪いが私には人間なんて器に興味はない。それにここにいる彼らは理想郷に辿り着けなかったがそれでも理想を望んでいた。だから私がせめて姿形だけでもと思ってやったことだ」
「このっ……!」
男は銃を握っていない方の腕を固めて殴ろうとしたのだろうが、それは後ろから伸びた腕に掴まれて止まる。
「やり過ぎだ。少しは自重しろ」
「す、すまねぇ」
今度は少し落ち着いた感じの男が私の前に現れる。どうやらこの人物が覆面たちのリーダーのようだ。
男は丁寧な物腰で覆面を外すと、そこから金髪が零れ端正な顔立ちをした美丈夫が現れる。
そして彼は優雅とも言える口調で話し出した。
「お初にお目にかかります、博士。私は反クローン団体を指揮しているものでして理由あって名前は明かせません。あなたを捕らえに来たつもりだったんですが――――」
そこで言葉を切り困ったような顔で辺りの惨状を見回す。
「――――これだけの事をしているとは思っていませんでしたよ。そこであなたを司法に引き渡そうと思いますが構いませんね?」
「おい! ちょっと待て!」
「お前は黙ってろ」
声を張り上げた覆面の男を美丈夫は静止し、私を睨むような目で見る。
私はただ眼を伏せるだけに止める。
私の態度を了承と取ったのか美丈夫は近くの仲間に合図して手錠を嵌めさせると部屋の外へと連行する。
「最後に一つ聞いてもいいですか?」
背中越しに美丈夫の声が聞こえてきた。
「この惨状は科学の栄光として処理されるのですかね?」
私は何も言わずにそのまま歩き去る。
答える気などない。
だが、もし答える気ならこう言うだろう。
全ては理想郷のため、と。




