1話
私は奇妙でならなかった。
その原因は、なぜ人は他者と争うのかということに尽きる。
人間は子供のころから争っている。
幼少時の私の周りでは男子たちが腕力や背の高さを競い合い、女子たちは持ち物や親の地位を自慢し合う。
さらに年齢を重ねれば学校へ行き成績や運動能力といった厳密に測られるものによって良し悪しが決まり、その他にも容姿、作法、友人の数、任される役職、さらには自分よりも上に位置するものに対する媚のへつらい方によって争いは続く。
社会に出れば汚職に汚れた大人たちが互いに責任を擦り付け合い、少しでも権力と財産を手に入れるために他人を利用し裏切るために裏で糸を引く。
その争いに敗れた者は生きる場所を失い、家族を失い、何も見出すことも出来ず朽ち果てるか、さらなる強者へと利用され捨てられるかしかない。
そして敗者は何も語れず、勝者だけが語る。
すなわち、こう言うのだ。
「ああ、世界とはなんと平和で素晴らしいのだ」
私は考えた。
考えずにはいられなかった。
人間全てが幸福に全ての人間が平和の中に没するための理想郷はないのかと。
だが、残念ながらそんなに都合のいいものは存在しなかった。
かつて哲学を説いたギリシアの学者は言った「無知の知を知れ」、と。だがそれでも人は知ろうとしない、互いに互いを傷つけ合う無意味さと非効率さを。
哲学では人を救えなかった。
かつて古代文明の王は「復讐法」なるものを作った。人が人を傷付ければ、被害者は加害者を傷付けてもいいという法だ。
だが、これはより一層の憎悪を増すだけで、王の死とともに憎しみは爆発し互いを殺し合った。
他にももちろん数々の法律が生み出されたが、人を縛れても人を救うことは出来なかった。
歴史上多くの者が人間と世界を救おうとした。
それは君主であったり、政治家であったり、宗教学者であったり、医者であったり、科学者であったり、牧師であったり、革命家であったり、果てにはただの農民であったりした。
だが、その誰もが完全に人を救い理想郷を創り出したことはない。
彼らは勝利者にはなれても創始者にはなれなかったのだ。
私は考えた。
考えずにはいられなかった。
ならばせめて争いの原因を除去するのではなく、何か別のものにその方向性を向けるかもしくは争いが過ぎ去ったと思わせることが出来ればいいのではないか。
そう考えた。
誰かが誰かを憎む理由をなくし、嫉妬する理由をなくし、傷付ける理由をなくす。
このシステムは何と効率的なのだろうか!
これこそが理想郷!
これこそが我々人類の素晴らしき未来なのではないか!
そして私の研究は始まった。
◆
「博士、問題だったP-〇〇八番が自立呼吸を開始しました。それから、あと十五分ほどでスポンサーの役員数名が来るとの連絡が入りました」
いつも通りにラボに入るとその若い助手は私に声を掛けてきた。
ここ研究所では所長の私だが部下から呼ばれるときは“博士”の愛称で呼ばれることが多い。
私は軽く返事を返すと優先順位を即座に導き出して舌先に乗せる。
「P-〇〇八番のここ一週間の経過記録を見たい。すぐに取りに行ってくれないか?」
「はい」
履歴書に書いてあった通り二五歳の若い助手は人好きのする快活な返事をすると目的の資料を探しに走っていく。
私はその後ろ姿を見送るとエレベーターに乗り込み目的の部屋へと向かう。
途中何人かの職員とすれ違うがそのどれもが私に親しみ深い笑みを投げかけてくる。
皆、私のことを次世代の天才と慕い、この人なら荒廃した世界を正してくれるのだろうと考えているのだろう。
私の理想郷の話はまだ誰にもしていない。だが、話そうとしていない訳ではないのだ。
今度、大きな学会でスピーチを任されることに決まった。
そこで全てを語ろうと考えている。
やがて目的の部屋に到着し実験体-〇〇八番が入った培養槽を覗き込む。
薄緑色の羊水の中に浮かぶのは人以外の人、命以外の命。
遺伝子の塩基配列の複製のよって作られた生命。
自我を抑えられ、欲望を失った人間。
人よりも完全な存在。
あらゆる感情を制御されたクローン人間である。
次世代の人類であるため〈エロイス〉と私は命名した。
背後で扉の開く気配とともに複数の人物の足音が部屋の中に反響する。
私が振り返るとそこには資料を持った助手と警備員に連れられたスポンサーである会社の社長と役員が控えていた。
「研究は順調に行っているようだね。そして、これが君の作り上げた〈エロイス〉か」
社長は値踏みするような眼で培養槽の中の日系人としか思えない少年を見つめる。
「しかし、これが本当に我々人間のように動けるのかね? とてもそうは見えないし、まだ子供ではないか」
「その点はご心配要りません。成長過程は通常の人間の十倍ですからすぐに成人と同じ大きさになりますし、自我も抑制されている訳ですから不平不満を言うこともなく人間に忠実です」
だが、人間が〈エロイス〉に代わればそんな事は意味のないことですが、というのは次のスピーチで言うことにしている。
「うむ、それは結構だ」
それだけで言うことは言ったのか社長は踵を返して部屋を後にしようとする。
が、途中で歩みを止めて振り返る。
「今度のスピーチでも期待しているよ」
と言ってさっさと部屋を後にした。
私は何ともいえない顔をしていただろうが今やらなければいけない事を思い出し、助手から資料を受け取ると次の思考へと考えを移行させた。




