第九話 相談は速やかに
事務所に戻ると、終業時間の十七時を過ぎたとはいえ、まだ残っている者も多い。
矢澤も自分のデスクに着き、PCに向かっていた。
眉間に深い皺が寄っているところを見ると、今日一日の手応えはあまり芳しくなかったのだろう。
この後、レポートの相談をするつもりだったが、もっと優先すべき問題が発生してしまった。
もちろん、七瀬の事だ。
「矢澤、お疲れ。すまないが第三会議室まで頼めるか?」
「あっ、片桐さん、お疲れ様です。第三ですか? 別に構いませんけど……」
「すまん、頼む。俺はコーヒーでも買ってくるから、先に行っててくれるか?」
「はい、わかりました」
俺の雰囲気だけで、深刻さを察してくれたようだ。やはり矢澤は頼りになる。こんな事、他に相談出来る相手もいないしな……。
自動販売機で缶コーヒーを二本購入する。
第三会議室に向けて急ぐ俺に、階段前で声が掛かった。
「片桐主任、お疲れ様です!」
振り返ると、そこには前回と同じく、派手な姿をした小久保さんが立っていた。
ちょうど帰るところなのだろう。
「ああ、小久保さん。お疲れ様でした」
何というタイミングだろう。
こんな時に小久保さんと出くわすなんて……。
「あの、片桐主任。今日はもうお仕事終わりですが? 宜しければこの後――」
「まだ仕事が残っていますので、失礼します!」
小久保さんの返事を待たずに踵を返し、急ぎ第三会議室へ向かう。
今は彼女なんかに構っている場合ではない。
「矢澤、待たせた」
缶コーヒーを渡すと、矢澤は軽く頭を下げながら受け取った。
「すんません、いただきます。……それで、どうしました? 何か問題が起きたんでしょう?」
「ああ。その事で、折り入って相談がある。人が大勢残っている事務所で話せる内容ではないんだ。それで、ここまで来てもらった」
「なるほど。伺いましょう」
矢澤は居住まいを正した。
「実はな……七瀬が、今日一日小久保さんから睨まれていて怖いと言っててな――」
七瀬からの相談内容を、矢澤に包み隠さず話した。
「う~む。……嫉妬ですね」
組んでいた腕を片方、顎に当てて矢澤は呟いた。
「やっぱりそう思うか……」
「いっその事、ハッキリ言った方が良いんじゃないですか? あんたと付き合う気は無いって」
「だって、彼女は総務からの派遣だろ? 職場の空気がギスギスするのもどうかと思ってな……」
「あの女、確かに総務からですけど、派遣社員ですよ」
「えっ? 俺達と同じ正社員じゃないのか?」
「知らなかったんですか? 半年毎の契約更新で、最長二年の筈ですけど……。二年以内に片桐さんをゲットする気なんだと、私は思ってますよ」
「ゲットって……。そんなの無駄なのにな」
「前にも言いましたけど、あの女は知りませんからね……」
確かに小久保さんは知らない……弥生の事。
俺が、誰かと人生を共に歩む事なんて二度と無いって事を。
薄々感じてはいたが、もしも小久保さんが俺に今以上のアプローチを掛けて来たとしても、それに応える事は断じて無い。
「それで、どうします? 七瀬の方は?」
「んー、暫くは教育の為に俺と一緒に行動するから問題はないと思うんだが、その後だよな」
「逆に、片桐さんと離れるなら、問題解消なのではないですか?」
「他の者……例えば中村あたりに指導を任せるって事か?」
「そうなりますね。中村しか居ないでしょう」
そう言うと、矢澤は口を固く結んだ。
「だが、不自然だよな……」
どうすればいい? ……どうすればいいんだ?
「当面は自分も気にして見ておきますよ。まだ初日です。上司に報告するにしても早すぎでしょう。『急いては事を仕損じる』と言うじゃないですか。大谷も、七瀬とは仲が良いみたいですから……」
「そう言えば、あの二人は同郷出身なんだってな」
「長崎ですってね。実家まで近所らしいですよ」
「そうか……」
「しかし、片桐さん。すっかり肩入れしてますね。これは、かなり七瀬の事が気に入ったと見える」
矢澤がニヤニヤしている。
「馬鹿な事を言うな! だいたい何歳、年が離れていると思ってるんだ。十三だぞ。一回り以上だぞ。有り得ないだろう、そんな事は」
「おやおや……。私は部下として気に入ったのですね、と申しただけですが?」
「あ、当たり前だ。俺をからかうな!」
矢澤を睨みつける。数秒の沈黙。
「そうですか。まぁ私としては、どっちでも良いんですけどね」
沈黙を破ったのは、矢澤の方だった。
「それこそ有り得ないだろう。……この話はこれで終わりだ。レポートは進んでいたのか?」
「もう少しです」
「それじゃ、とっとと仕上げて帰るとするか!」
「了解!」
事務所に戻り、PCに向かう。
差し障りのない事だけ、レポートに入力する。本日の教育内容、注意点、新人の特徴と特性及び特記事項。特記事項は……現時点では、空欄にしておこう。
入力を終え、会社を出たのは十九時を少し過ぎた頃だった。
家に着き、風呂の用意をしながら、途中で買ったコンビニ弁当を開ける。
ちょうど食べ終えたタイミングで、風呂場のアラームが鳴る。湯が張れた様だ。
風呂から上がり、今日の出来事を思い返す。
七瀬は大丈夫だろうか……
七瀬の教育を中村に委ねればいいのか、或いは、俺が小久保さんを拒絶すれば良いのか。いずれにしても現状は、高校を出たばかりの女の子が仕事を学ぶ環境しては好ましくない。矢澤の言う通り、いっその事……。
矢澤は、俺が七瀬を気に入ったと言った。
確かに真面目だし、礼儀正しいし、意欲に溢れている。実際、優秀だとは思う。
だが、異性として意識するかと言うと……
「何を馬鹿な……。有り得ないだろ!」
俺は一人で生きていくと決めたんだ。
大切なものなんて要らない。
失うくらいなら、最初から大切なものなんて無くていい。
無くすのが怖い。
あの悲しみを二度と味わいたくない。
その夜、弥生が夢に出てくる事はなかった。