第七話 配属
習慣と言うのは恐ろしいものだ。
夢の事ばかり考えていてうわの空だったが、五年近く通った通勤路は、体に染み付いているらしい。
どこをどう通ってきたのやら……気が付けば正門に差し掛かるところだった。
こんな事ではいけないな……。
今日から新人教育が始まるのだし、気を引き締めなくては。
「おはようございます」
「おはようさん。今日は一段と早いねぇ」
「今日から、新人を受け持つ事になりまして……」
「そりゃ責任重大だ。しっかり面倒見てやりなよ!」
「はい、頑張ります」
いつもの守衛さんと挨拶を交わし、事務棟へ向かう。
階段を上り、製品開発部の事務所に差し掛かった時、誰もいない筈の事務所の奥の方から、ガサゴソと物音が聞こえてきた。
誰かいるのか?
部長か? いや、あの背格好は女性だな。
誰だ、こんな早くに……。
腕時計を見ると、まだ七時半にもなっていない。
後ろ姿を目で追いながら、自分のデスクに近付いていくと、突然その女性が振り返った。
「あっ、片桐主任。おはようございます」
振り向いた女性は、七瀬未来だった。
研修の時は肩に掛かる位のボブヘアだったのに、今は髪を後ろで結んでいるから、一目では分からなかった。
「お、おはよう。七瀬さんだったか……。こんな早くからどうしたんだ?」
「事務所の掃除をしていました」
表情を一切変える事なく七瀬さんは答える。
「ずいぶんと早いな……。しっかり睡眠はとれているのかい?」
「大丈夫です」
そう答えると、再びデスクの拭き掃除を再開した。
どうやら製品開発部のデスクを、片っ端から拭いていたらしい。俺のデスクにも水拭きの跡が残っている。
先週はツンとしていたけど、案外真面目でいい子じゃないか……。仕事の意欲もあるし、研修の時も分からない事は「分かりません」とハッキリ言えていた。あれは誰にでも出来る事じゃない。
これは期待出来るかもしれないな……。
「七瀬さん!」
「はい」
七瀬さんは、手を止めて振り向いた。
「本当はまだ伝えてはいけないんだけど、君の机はここだから」
俺は、自分の隣を指差した。
「え? 私、片桐主任の隣なんですか?」
「嫌か?」
「そんな事ないです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
PCの起動ボタンを押しつつ上着を脱ぐ。
メールをチェックし、先週行われた会議の議事録に目を通しながら様子を伺う。
その間も、彼女は一心にデスクの拭き掃除をしていた。
他の主任連中が捉えた彼女の印象は、一様に「真面目だが、気が強そう」「好き嫌いがハッキリしている」「優秀だが、空回りしそう」と書かれていた。
流石にみんな、しっかり見ているな。
空回りか……全くその通りだと思うよ。
八時を過ぎると、課員が続々と出社して来た。
七瀬さんは、その一人一人に挨拶をしている。
俺のグループメンバーの原田が「あの子、誰スか?」と聞いてきたが、新人とだけ伝えておく。
原田の、女の子だと見るや目を輝かせるバイタリティーには、最早苦笑いしか出てこない。
始業チャイムが鳴り、朝礼の場で新人の紹介が行われる。七瀬もしっかりと挨拶が出来ていた。
「それじゃグループミーティングを始めるぞ」
俺のグループは、俺の他に男性二名、女性一名の合わせて四名体制だったので、七瀬が五人目のメンバーという事になる。
「今日から俺は、七瀬の教育が主業務となる。その為、みんなに業務を割り振って対応してもらう。担当の割り振りは、この一覧を確認するように。
中村!」
「はい」
「暫くは、お前が中心になって業務管理を進めてくれ。不明点は俺に報告。判断に迷う場合は、逐一構内電話で俺を呼び出してくれて構わない」
「わかりました」
「頼むぞ」
中村は、俺の次に経験が長く、堅実な判断をする。こいつに任せておけば大丈夫だろう。
「何か不明点はあるか?」
「あの……主任。これから残業多くなるんスかね? 俺、今日はちょっと約束がありまして……」
原田がエヘヘッと笑いながら質問して来た。
どうせ、こいつの約束は合コンだろう……。
「「お前の頑張り次第だ!」」
俺と中村が異口同音に答える。
実に見事なユニゾンだった。
「ですよね~」
原田はシュンとなった。こいつはもっとプレッシャーを与えた方が伸びるだろう。
「あのぅ……その日に対応した処置内容は、報告を入れた方がいいですか?」
次の質問は、紅一点だった仲宗根からだった。
「そうだな。製品名毎に処置内容と判断理由を、簡単にまとめておいてくれると助かる」
「わかりました」
流石は仲宗根だ。しっかりしていて助かる。
「それじゃみんな、よろしく頼むぞ」
「「「はい!」」」
中村、原田、仲宗根の三人は席を立っていった。
「七瀬、これから工場に行くぞ。 メイクしてるか?」
「少ししてます」
「それじゃ、落としてきてくれ。階段前で待ってる」
「はい」
階段前で七瀬を待って五分程した頃、事務所の扉が開き、最近聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あら~、片桐主任。これから工場にいかれるんですか~。高校出たての小娘を受け持つなんて、大変ですわね~」
話し掛けてきたのは、小久保さんだった。
「仕事ですから……」
「それより私、この前素敵なフレンチのお店を見付けたんですのよ~、宜しければ今度ご一緒に――」
「主任、お待たせしました」
七瀬が駆け寄って来た。
「それじゃ行くか。小久保さん、急ぎますので失礼します。七瀬、行くぞ!」
事務棟から出て、工場棟に向かう。
七瀬は、俺の後ろを離れずについて来ている。
工場棟の入り口が見えて来た時、七瀬が弱々しい声で話し掛けてきた。
「あの……主任……」
「どうした?」
「あっ、いえ……。何でも……ないです」
歯切れの悪さが気になり振り向くと、不安そうな表情をした七瀬の顔がそこにあった。