第三十四話 未来へ向けて
「うっ、うーん……」
何かの物音に目が覚める。夕べは大して飲んだ訳でもないのに、どことなく体がだるい。伸びをすると、伸ばした右腕が壁に当たった。
目を開けると、普段と違うアイボリー色で統一されたスペースにいる事に気が付く。そうだった。ここはカプセルホテルだ。
夕べ、泣きながら寝入ってしまった七瀬をうちに泊めて……
七瀬! 早く自宅に戻らなければ!
いま何時だ? 腕時計を見ると、時刻は八時を過ぎたところだ。そう言えば、矢澤はまだ寝ているのか?
「矢澤、起きてるか?」
寝ぼけながら起きてきた矢澤に「すまんが先に帰る」と伝え、俺はカプセルホテルを飛び出した。
* * *
自宅に帰りつき、玄関を開ける。
リビングに入ると、仏壇の前に正座して弥生の遺影を見つめる七瀬の姿があった。
「七瀬!」
こちらに顔を向けた七瀬と目が合う。心配したけれど、今は落ち着いているように見える。まっすぐ見つめると、七瀬は静かな口調で話し始めた。
「あの……主任、この方は?」
「事故で亡くなった俺の妻だよ」
七瀬の目が見開かれる。こんな事を聞いたら、ショックを受けるよな。俺だってべつに、頑なに隠し通そうと思っていたわけじゃない。知る必要はないと思っていただけだ。
七瀬は何か喋ろうとして口を開いたが、言葉が出てこないのか、押し黙ってしまった。その後、唾を飲み込むゴクリという音が聞こえてきた。そうだよな……急にこんな重い過去を知らされても、簡単に言葉が出てくる訳がない。
この際だから、包み隠さず話してしまおう。
「四年前、いや、もう四年半前になるのか。交通事故でね。俺はある日突然、妻を失ったんだ」
「そうだったんですか。綺麗な人ですね……」
七瀬はスッと立ち上がり俺を見た。その表情からは感情が消えている。何を考えているのだろう。分からない。
随分と顔色が悪い。青ざめている。昨夜の事で、反省して自分を追い込んでいるのかもしれない。今は叱ることはできないな。
今日のところは家に送って行こう。
「クルマで送って行くよ」
「せっかくなんですが、今日は一人で反省して電車に乗って帰ります」
七瀬は小さな声でつぶやいた。
だけど、こんなに落ち込んでいる七瀬を一人で帰らせるわけにはいかない。
「いいや、今日の七瀬は心配だ。クルマで送らせてもらうぞ」
今日はおとなしく俺の言う事を聞いていろ!
「……」
クルマで七瀬を自宅まで送り届ける。車中で七瀬はずっと俯き、無言だった。俺も何となく気まずくて話しかけられないまま、クルマは松木町にある七瀬の自宅アパート前に到着した。
車からおりた七瀬は、辛そうな表情のまま深くお辞儀してから部屋に入っていく。沈んでいるな……。引きずらなければいいんだが。そんな風に考えながら帰途に就いた。
* * *
週が明けて月曜日。
もう少しで昼休みというところで、大谷が俺のところにやってきた。手を後ろに組んでニヤニヤと笑って、俺の前に立つと話し始めた。
「片桐さ~ん。この間は、未来がお泊りしたんですって~。片桐さんのおうちに泊めてもらったそうで、ありがとうございました~」
お前なぁ、家に泊めたとか大きな声で言うなよな。事務所には他にもたくさん人がいるのだから。
「大谷、声が大きい! 俺は変な事してないぞ!」
「そうなんですか~、残念!」
「何言ってんだお前、変な冗談はやめろよ」
上司と部下だぞ。変な噂が立って困るのは七瀬のほうだぞ。
大谷の顔が急に深刻なものになる。
「未来が元気ないんですよ。片桐さん、元気付けてもらえませんか?」
ホテルに連れ込まれそうになったんだ。無理もないな。
その時、後ろから肩を掴まれた。振り向くと、にやけた表情の矢澤が立っていた。
「えーと片桐さん? 先ほどは、色々と聞き捨てならない発言があったようですね。七瀬を自宅に泊めたってどういう事ですか?」
矢澤に両肩を掴まれた。これは逃がさんぞという意思表示だろう。矢澤は一層ニヤニヤしている。
「あ、いや、それは……」
「歓迎会の晩は、私とカプセルホテルに行きましたよね? その辺、じっくり詳しく話してもらいましょうか?」
嫌な予感しかしない。大谷もニヤニヤしている。二人の顔が同じに見えるよ。さすが上司と部下だな。
そのまま俺は、矢澤と大谷に腕を掴まれ、引きずられる様に廊下へ連行される。
「片桐さん、定食を食べに行きましょう。逃がしませんからね」
「私も逃がしませ~ん」
これはどうやら今日の昼食は俺の奢りになりそうだ。仕方ない。だけど、矢澤も大谷もそんなに引っ張るな。腕がちぎれるだろうが。
三人で七瀬を誘い、定食屋に向かう。
* * *
正門を出て大通りを渡り、五十メートルほど進んだ所に、美味いと評判の定食屋『千寿庵』がある。千寿庵の中は、昼時ということもあって大変混雑している。外で十分ほど待たされたが、四人席のテーブルを開けてもらった。
俺の隣に矢澤が座り、七瀬の隣に大谷が席に着いた。それぞれに定食を注文し、店員が料理を運びこんできて、黙ってみんな定食を食べる。七瀬がしゅんとしているので空気が重い。
定食を食べ終えてから、新人歓迎会の夜の事情を三人に説明した。
すると、俺の説明を聞くにつれて、七瀬はだんだんとうつむき加減になっていった。
気落ちした七瀬に気づいたのか、大谷が元気な声で矢澤に話を振る。
「矢澤さ~ん、カプセルホテルってどんなところですか~? 主任二人で同じ部屋に泊まったんですか~?」
「カプセルホテルっていうのはな。蜂の巣みたいなところだ」
確かに睡眠スペースは、蜂の巣のようだ。
「へえ宇宙船の中みたいですね~。私も泊まってみたいです~」
大谷が元気な声で答える。七瀬を元気付けようと、わざとふざけているんだな。七瀬はいい友達を持った。でも、カプセルホテルに女性って聞いたことないような……。
「女性専用なんて聞いたことがないし、多分ないと思うぞ」
「カプセルの中には何もないんですか~?」
確かにテレビはあるが、流れている内容が悪いな。これを女性に知られてはいけない。
大谷と話をし終わった後に七瀬の方を向くと、七瀬はしゅんとした顔で俺たちの話を聞いていた。話の内容は全く頭に入っていないだろう。
「七瀬、ちょっといいか?」
「なんでしょうか」
表情を変えずに返事が返ってくる。距離を感じる答え方だな。これは厄介かもしれない。ここは真剣に受け答えしたほうがよさそうだ。なんとか七瀬の心を上向きにしなければ……。
「お前は被害者なんだから、そんなに落ち込まなくてもいいんだぞ」
「それでも、主任に迷惑をかけてしまいましたし、会社にも迷惑をかけてしまいました」
「お前は大事な部下だ。迷惑だなんて思っていない。俺の家に泊めるくらい当然の事だよ」
大谷がニヤニヤ笑って、テーブル上に置かれた七瀬の手の甲を、指でツンツンとつついた。
「片桐さんが~、未来のこと大事だって~!」
「当たり前だろう!」
七瀬も大谷も大事な部下だからな。
矢澤がにっこり笑って「そうだぞ」と言った。
「主任が私のことを大事……。心配してくださったんですね」
「ホテル街を随分走って探し回ったんだぞ。あんなに慌てて走ったのは学生の時以来だ」
七瀬の頬が少しピンク色に染まってくる。そして瞳の奥の輝きが増したように見える。
「主任、本当にありがとうございます」
七瀬はペコリと頭を下げた。そして顔を上げると、瞳がキラキラと輝いている。
大谷がほっこりした顔をして笑っている。
「未来、よかったね!」
「うん!」
七瀬は満面の笑みを浮かべて、大谷に頷いた。
「これから七瀬のお守り担当は、片桐さんですね。家にも泊めてもらった事だし」
「それとこれとは関係ないだろう」
今回は特別なだけだ。部下がそう何度も危ない目に遭ってはたまらない。
「主任、これからもよろしくお願いします。私、一足先に仕事の準備をしてきます。失礼します!」
そう言って七瀬は、ひまわりのような笑顔を残して一足先に会社に戻って行った。
「七瀬もずいぶん元気になったようだが、これで良かったのか?」
大谷と矢澤はニヤニヤ笑いを浮かべて、生暖かい視線を俺に向けていた。
* * *
夕方、俺は課長に会いに行く。課長には土曜日の時点で、新人歓迎会の日に起きた事件の事は報告してある。今日は、会社としてこの事件をどう扱うのか、会社の見解を聞きに来た。
課長の説明では、山下は聴聞会議の席に呼ばれ、そこで一部始終を素直に証言したらしい。過去にあった余罪も色々と明らかになったという。その結果、七瀬の責任問題は不問とし、山下は本日付けで懲戒免職となって会社を去った。
七瀬の事が会社で責任問題とならなかった事に、俺と矢澤はほっと胸をなでおろした。
俺たち二人は、大谷と七瀬の笑顔を見続けられる事を素直に喜んだ。