第三十三話 安らぎの寝顔
タクシーが大通りを進む。七瀬は俺にしがみついて、声を押し殺して泣いている。かわいそうに……怖い思いをさせてしまったな。七瀬の背中を優しくさすってやる。
あの時、タクシーがすぐに停まってくれて、ホテル街を離れることが出来てよかった。あんな所に二人でいるところを誰かに見られたら、どんな噂が立つか分かったものじゃない。
俺の事は、まだいい。だけど七瀬は嫁入り前の娘だ。妙な噂を立てられたら……すぐにタクシーに乗れたのは幸運だった。
「七瀬……」
七瀬は俺の右胸に顔をうずめたまま、時々しゃくりあげるように体を震わせる。その度に七瀬の黒髪が俺の頬に当たる。もう大丈夫だよ、安心してくれ。七瀬の背中に回した右腕で、その小さな体をそっと支えた。
それにしても間に合ってよかった。もしも大谷達が七瀬を見かけなかったら、七瀬を守ってくれなかったら、俺がホテル街に急いでいなかったら……今頃どうなっていたか分からない。
七瀬は今、無事にここにいる。助ける事が出来て本当によかった。でも、本当に怖い思いをさせてしまったな。俺がもっと気をつけていれば……
俺がもっと気をつけて?
気をつけて?
そうだよ、気をつけてだよ! 弥生は、この事を言っていたんだ!
弥生が気をつけるように言っていたのは、七瀬の事だったのか。俺だけじゃなくて、七瀬の事も見守ってくれていたんだな。思い起こせば『だいじょうぶ』言っていた時も、七瀬が小久保さんに傷つけられた。
そうか、そういう事なのか……。
弥生はずっと、七瀬を見守ってくれていたんだ。弥生、七瀬の事も見守ってくれてありがとう。
俺は弥生に思いを込めて目を瞑った。その時、俺を見つめる弥生の穏やかな笑顔が見えたような気がした。
* * *
タクシーが自宅前にゆっくりと停まった。
「七瀬、着いたよ」
七瀬の肩に手を掛け、ゆすったが反応がない。いつの間にか、泣き疲れて眠ってしまったのか。
七瀬を抱えてタクシーをおりる。タクシーの運転手さんが俺の家の玄関を開けてくれた。気さくな人で助かった。
寝室のベッドに、そっと七瀬を寝かせる。よく眠っているな。七瀬の寝顔を見ると、眉間にしわを寄せて少し辛そうな顔をしている。急に酒を飲まされたせいか、少し顔色が悪いように見える。だけど起きる気配はない。すっかり寝込んでしまったようだ。
どうしたものかな……。ここから車で七瀬の家まで送るつもりだったが、無理やり起こすのも気が引ける。今夜は大谷もいないだろうし、一人では心細いだろう。七瀬の体調も心配だ。せっかく寝ているのだから、このまま寝かせておいてやろう。
布団を七瀬にかけてやる。七瀬の寝顔を見ると、頬に涙のあとが残っていた。泣きながら寝入ってしまったんだものな、無理もない。拭いてやろうか。七瀬、ちょっと待っていろよ。
寝室のふすまをそっと開けてキッチンに移る。洗濯済みのタオルを給湯器のお湯に浸してギュッと絞る。よし、これなら熱くないな。
タオルを持って、物音を立てないように気をつけながら寝室に入る。七瀬を見ると、よく眠っているようだ。少し口が開いて規則的に呼吸音が聞こえる。
俺はベッドに腰掛けて七瀬を見る。こうして見ると、七瀬は意外と小顔だったんだな。普段仕事場で見る印象とはまた違って、あどけなさが残る寝顔はまるで少女のようだ。年齢よりも何歳か若く見えるな。
「ふふふ、可愛いな」
七瀬の頬にタオルをあて、やさしく拭いてやる。すると七瀬は「……う~ん……」と小さく声を上げた。おっと、起こさないようにしないとな。せっかく眠っているんだし、起こしてしまってはかわいそうだ。
涙のあとを拭き終えて、もう一度七瀬の寝顔を見る。さっきまでの辛そうな表情は消え、安らかな寝顔になっている。
まったく、今日は危なかった。でも、なんとか守ることが出来たんだな。ヒヤヒヤしたよ。俺も油断していた。もっと警戒しておくべきだった。
守衛さんからの忠告。大谷と榎本くんが、あの場に居合わせた事。それから、大谷が俺を迎えに来てくれた事。そのどれかが欠けていたら、七瀬を助けられなかったもしれない。
そう考えると、本当に紙一重だったんだな。一時は、俺だって七瀬が遠くに行ってしまうような絶望感にとらわれた。でもみんなの助けがあって、守ることが出来たんだ。
七瀬のおでこにそっと手を当てる。熱は無さそうだな。顔色も、さっきよりは良くなってきたように見える。恐らく、知らず知らずに酒を飲まされたんだろう。これならただの二日酔いで済みそうだな。
七瀬を起こさないように、そっと寝室を後にした。
* * *
キッチンに移動して水を一杯飲む。
「ふう……」
やっと人心地ついた。七瀬の事で必死だったから、のどの渇きにも気付かなかった。
もう一度寝室のふすまを開けて七瀬を見ると、穏やかな表情で気持ち良さそうに寝ている。呼吸も落ち着いているし、大丈夫みたいだな。
しかし、改めて見てみると、俺の部屋はずいぶんと殺風景だな。ベッドと箪笥があるだけの、ただ寝るためだけの何の飾り気もない部屋。七瀬がいるからなおさらそう思うのかもしれないが、今度、花の一つでも置いてみようかな。
俺もそろそろ寝るとするか、さすがに今日は疲れた。
ん? 待てよ……俺がこのままこの家で寝るのはまずいんじゃないか?
若い女性を家に連れ込むなんて、客観的に見れば、やっていることはあの山下と同じじゃないか。もちろん俺には、そんな不届きな気持ちはない。だけど、問題は周りの人間がどう思うかだ。
やはり、この状況はまずいよな……。
ここは矢澤を頼ろう。俺は受話器を取り、矢澤に電話を掛ける。
もう二十二時を回っている。矢澤は歓迎会の後、新人たちとカラオケに行くって言っていたけれど、もう家に戻っているだろうか。頼む、矢澤。家にいてくれ!
五回のコールの後、電話がつながった。矢澤、家に帰り着いていたか。
『――片桐さんお疲れ様です。こんな時間にどうしたんですか?』
「今日は、歓迎会お疲れ。ちょっと思い立ったんだけどな。明日は休みだし、今からサウナでもどうだ? 駅前のカプセルホテルで久しぶりにサッパリしないか?」
『いいですね。私もちょうどそんな気分になっていたんです。片桐さんとサウナなんてどれくらいぶりでしょうね。今からそちらに行きますよ』
よし、乗ってきてくれた。だけど、今うちに来られるのはまずい。
「い、いや……二度手間になるし、スクランブル交差点で落ち合うって事でどうだ?」
『了解です。では後程』
そう言うと、矢澤との電話は切れた。
さて、俺も準備をするか。七瀬には置手紙を残そう。
『七瀬、おはよう。ここは俺の家だ
中に入るのは初めてだから戸惑っていると思う
でも安心してくれ
ここは安全だ
朝には戻るから、必ず待っていてくれ
俺は今、矢澤とカプセルホテルに泊まっている
まさか、嫁入り前の女の子と同じ家に泊まるわけにはいかないからな
トイレは階段の横、洗面所は廊下のつきあたりにあるから、自由に使ってくれて構わない
もし夜中に目が覚めても、廊下の灯りを点けっぱなしにしておくから、迷うことはないと思う
くれぐれも俺が戻るまで待っていてくれ
君の穏やかな目覚めを祈ってる
片桐優太 』
ふすまをそっと開けて、寝室に入る。七瀬は……よく眠っているな。ベッドサイドのテーブルにさっき書いた手紙を置き、その上に重し代わりに冷蔵庫から取り出してきたミネラルウォーターを置く。
七瀬はあれからぐっすりだ。呼吸も穏やかで落ち着いているし、これなら大丈夫だろう。
七瀬の頭をそって撫でる。すると、七瀬はもぞもぞと布団の中に潜っていった。ふふふ、こういうところはまだ子供だな。あどけない寝顔に、俺の心がやわらいでいく。
あかりを消して寝室をでる。ふすまは少しだけ開けておく。廊下の灯りが射し込んだほうがいいだろう。あんな事があったんだ。もし夜中に目がさめて、真っ暗だったらパニックを起こしてしまうかもしれないし。
「七瀬、ゆっくり休んでくれ」
俺はそっとつぶやくと、玄関のカギを締め、家を出た。