第三十二話 悪意と善意と
「大谷!」
道路にうずくまった俺のところに駆け寄ってきたのは、大谷まどかだった。自慢の金髪が乱れている。なぜ大谷がここに? それに、こんなに涙を流しているなんて、いったい何があったんだ。
とまどう俺をよそに、大谷は俺の右腕を掴み、引き起こそうとする。
「片桐さん、早く来て! 未来が……未来が大変なんです! 早く!」
俺を見つめる大谷の目は真剣だ。七瀬を見つけたのか? 七瀬がこの先にいるのか?
「七瀬はどこだ!」
「こっちです。今は私のカレが守っています。急いで!」
大谷の彼氏が守っているということは、山さんという奴がいるんだな……。七瀬、今すぐ行くから無事でいてくれ。大谷が来た方へ走り出す。さっきまでの脱力感が嘘のようだ。
百メートルくらい走ったところで、後ろを走る大谷から「そこの白いホテルです!」と声が聞こえた。走りながら、塀で囲まれた白い建物を見る。どこから入るんだ? あそこか! 門が見えた。
そのまま門をくぐると、出入口の前で二人の男が揉み合い言い争っていた。あれは大谷の彼氏か? 革ジャンにジーパン姿の茶髪男を取り押さえているようだ。
「お前、自分が何やっているか分かってるのか!」
大谷の彼氏が、茶髪男を怒鳴りつけている。
「いってーな、放せよ!」
「こんな事してただで済むわけないだろうが!」
この茶髪男が『山さん』なのだろう。大谷の彼氏は、左手で茶髪男の右肩を押さえつけて、右手で茶髪男の右腕を締め上げている。茶髪男は痛そうな顔をして拘束から逃げ出そうとしていた。
そこから少しはなれた所に七瀬がへたり込んでいた。下を向いて……泣いているのか? 七瀬の前に立って声をかける。
「七瀬」
七瀬は恐る恐るこちらを向いた。七瀬と目が合う。その顔は涙で濡れていた。
「主任!」
七瀬は、立ち上がると縋りついてきた。七瀬を受け止め、肩に右腕をまわしてしっかりと抱きしめる。
「主任! 主任! 怖かったです……」
そう言うと、七瀬は華奢な体を震わせてむせび泣いている。怖い思いをさせてしまったな。七瀬の頭を撫でた。大谷も追いついてきて、今は七瀬に寄り添っている。
堰を切ったように声をあげて泣きじゃくる七瀬から酒の臭いがする。酒を飲んだのか? 茶髪男を睨む……こいつが七瀬に酒を飲ませたのか……。その時、大谷の彼氏が俺に声を掛けてきた。
「片桐主任。こいつ、このホテルに七瀬さんを連れ込もうとしていたんですよ。七瀬さんは嫌がっていて、幸い僕たちが通りかかって押さえることが出来ましたけど……」
やはりそうだったのか。この男、なんてことをするんだ! 金髪男に話しかける。
「おい、お前、これはどういう事だ? そもそもお前は誰なんだ?」
男は一瞬俺を見た後、目を逸らすと唾を吐きすてた。答える気はないらしい。なんなんだ、この男は……ふざけている。
「片桐主任。この男は、資材管理部の山下ですよ」
茶髪男――山下を締め上げたまま、大谷の彼氏が答えてくれた。山下……それで『山さん』なのか。真っ直ぐ山下を睨み付ける。俺の胸に怒りが沸々と沸き上がってきた。
「お前、七瀬をどうするつもりだった?」
「この期に及んで何を聞くかと思えば……ラブホでやる事なんて一つに決まってるでしょうが」
そう答えた山下は、俺を嘲るように笑っている。反省するそぶりはまったく見えない。こいつは女性をなんだと思っているんだ!
七瀬の震えがさっきよりも大きくなった。あんなひどい言葉を聞いたら怖がるに決まっている。俺は七瀬を強く抱きしめた。大谷の彼氏が山下を怒鳴りつける。
「ふざけるな! 七瀬さんは酔ってフラフラになっているのに……無理矢理も同然じゃないか!」
大谷の彼氏は顔を真っ赤にして怒っている。山下はヘラヘラ笑いだした。こんなやつに七瀬は……。すると、大谷の彼氏が山下の腕を強く締め上げた。
「いててててて!」
「お前、今まで何人の女の子を不幸にしてきたんだよ。こんな事をしてどうなるか分かっているんだろうな!」
大谷の彼氏が、山下に追い打ちをかけた。しかし、山下は何も答えない。それどころか相変わらずヘラヘラ笑っている。
大谷は心配そうな顔をして自分の彼氏を見ている。
「……最低」
大谷が呟いた。本当に最低だな。七瀬の震えは止まらない。右腕から七瀬の震えが伝わってくる。
この山下という男は許せない。本当に腹が立つ。だけど今は、七瀬のそばにいさせたくない。
「冷静になれ。落ち着け」
自分に言い聞かせる。とにかく七瀬は無事だったんだ。こんな奴の勝手な言い分を、これ以上七瀬に聞かせたくない。
今は七瀬のことを考えよう。俺が七瀬のためにすべき事は、この卑劣な男を遠ざけることだ。
「山下と言ったか。ずいぶん酷いことをしてくれたな。俺の大切な部下に危害を加えようとしたんだ。この件は会社に報告し、企業倫理に基づいて適正に判断を求める事にする。証人もこれだけいるんだ。言い逃れできると思うなよ。覚悟しておけ。分かったらここから立ち去れ!」
俺が言い切ると、大谷の彼氏は山下を解放した。
「お、おぼえてろよ!」
山下は、締め上げられていた腕を押さえながら、吠え面をかいて立ち去ろうとする。ひとつ言い忘れていた。山下が門に差しかかったところで、俺はもう一度山下に話しかける。
「山下、二度と七瀬に近づくな!」
山下は立ち止まったが、振り向きもせずに舌打ちすると走り去った。
* * *
山下が立ち去った後、俺達四人は何も喋らぬまま、ホテルの入り口横に立ち尽くしている。今も七瀬は俺にしがみつき、泣いたままだ。大谷は七瀬の頭を撫でている。俺は、塀の外から山下が戻って来やしないかと警戒を続けていた。
沈黙を破ったのは、大谷の彼氏だった。
「危ないところでしたね。僕たちが通りかかってよかったです」
彼はニコッと微笑んだ。
「もう~、片桐主任、しっかり未来を守ってくれなきゃ困りますよ~」
そう言った大谷は、彼氏の腕に手を回し、誇らしげに彼氏を見つめている。大谷の金髪は今も少し乱れたままだ。俺は七瀬をさっきよりも強く抱き寄せた。
それにしても、なぜ大谷は俺を見つけてくれたんだろう? 聞いてみるか。
「ところで大谷、なんであそこで走ってきたんだ?」
「本当は、歓迎会会場の居酒屋まで走るつもりだったんですよ~。走っているときに、ちょうど片桐主任の叫び声が聞こえて。未来を探してくれてたんだ~と思いました」
大谷は、嬉しそうに答えてくれた。そうか、急いでよかった。あの時絶望して叫んだ声が大谷に届いていたとは……。おかげで少しでも早く七瀬を救い出すことが出来たんだな。
「そうだったのか。助かったよ。二人とも本当にありがとう」
「そういえば片桐主任、ご安心ください。先ほどの会話はすべて記録してあります。山下のこと、うやむやにはしませんよ」
俺の方を向いた大谷の彼氏くんは、胸ポケットから手のひらサイズの機器を取り出した。なるほど、ボイスレコーダーか。さっきの会話を録音していたんだな。
録音データがあれば、山下も言い逃れはできない。あの不届き者の尻尾をつかんだんだな。そう考えていると、大谷の彼氏が俺の前に立った。
「申し遅れました。僕は第二試作品評価課の榎本と申します。まどかがいつもお世話になっています」
榎本くんは、俺に向かって微笑んだ。榎本くんのとなりに来た大谷も、俺の顔を見てニッコリ笑っている。二人には助けられたな。
「こちらこそ、今日は世話になってしまったな。七瀬を守ってくれてありがとう。恩に着るよ」
左手を差し出して握手を求めると、榎本くんは笑顔で応じてくれた。俺の右手は七瀬の肩に回したままだ。左手で申し訳ない。
「いえいえ、七瀬さんはまどかの親友ですし、助けることが出来てよかったです。片桐主任には、まどかが大変お世話になっていると聞いています。どうぞお気になさらずに」
榎本くんとの握手を解いた。解いたばかりの榎本くんの左腕に大谷が腕をまわした。二人のおかげで七瀬は無事でいられたんだな。ありがとう。
「いや、榎本君がいてくれなかったらと思うと……本当にありがとう。大谷もありがとうな。なんとお礼を言ったらいいか……」
二人に頭を下げる。俺一人ではどうにも出来なかった。二人がいてくれなかったら、今頃取り返しのつかない事になっていたかもしれない。七瀬を見つけてくれて、守ってくれて本当にありがとう。
「それじゃあ、僕たちはこれで……」
「片桐さん、しっかり未来を守ってくださいね」
榎本君と大谷は、腕を組んだまま門に向けて歩きだした。俺は二人の背中にもう一度頭を下げた。
大谷たちがこの場を去り、七瀬と二人きりになった。こんな所を誰かに見られたら大変なことになる。早いうちにここから離れよう。
「七瀬、少し歩けるか?」
「主任。私……わたし、こんなつもりじゃ……」
七瀬は、俺の目を見て泣きながら言った。肩を支える腕から七瀬の震えが伝わってくる。ずいぶん怖い思いをさせてしまったな……。
「七瀬、わかってる。もう大丈夫、大丈夫だよ。遅くなってごめんな」
いくら慰めても、七瀬は泣き続けている。こんな状態の七瀬を、無理して歩かせたくない。どうしたものかな……。
その時、目の前を『空車』と表示されたタクシーが通りかかった。
俺は左手を挙げて、そのタクシーを呼んだ。