第三十一話 胸騒ぎ
年度が変わり、四月。
また桜の季節が到来と共に、今季も新人が配属されてきた。
ここは居酒屋前の路地。さっきまで二階フロアを丸々貸し切りにして、部門総出で今年入った新人の歓迎会が行われていた。
もちろん、新人歓迎会は強制参加ではないから、出席出来なかった者や都合の為に途中で退席する者もいた。俺のグループメンバーの中村と仲宗根も、途中で俺に挨拶をして帰っていった。
はじめは同じテーブルにいた矢澤と大谷、七瀬は三十分もすると席を移り、思い思いに盛り上がっている。
矢澤は相変わらず場を盛り上げるのが上手い。巧みな話術で、新人たちをすっかり虜にしている。
七瀬は、若い連中の輪の中で一緒になって騒いでいる。遠目に見ても本当に楽しそうだ。あんな弾けるような笑顔は見た事がない。たまには羽目を外すのもいいだろう。
奥のテーブルで大谷がひとりの男と寄り添うように話し込んでいる。あの親密な距離は……なるほど、あれが大谷の彼氏か。真面目そうで大谷が好きそうなイケメンじゃないか。さすが大谷、そういうところは抜け目ない。
俺はあまり騒いで盛り上がる性質ではないからな。一人でちびちびやっているとするか。
* * *
もうじき二十時になる。そろそろお開きかな?
それから間もなく、幹事の一本締めで歓迎会はお開きとなった。
みなゾロゾロと店から外に出ていく。
部長は帰り際、俺に「ワシがいるとみんなが騒げないだろうから帰るよ」と言った。その言葉には苦笑いする事しかできない。
部長は笑いながら店を去っていった。岩本課長をはじめ全ての課長は最後までこの場に残っている。
かばんを取りに来た矢澤が、俺を意味ありげに見つめてくる。
「片桐さん。私はこれからこいつらと二次会に行きますんで、今日はこれで失礼します」
そう言うと、矢澤は新人達に両腕を引っ張られて外に出ていく。困った素振りをしてはいるが、やっぱり新人達に慕われて嬉しそうだ。
今年はお互いに新人の受け持ちはなかったのに、すっかり人気者だな。あまり羽目を外すなよ。
手を挙げて矢澤に応じる。矢澤、お疲れ! 俺を誘わないところはさすがだ。俺が酒を飲まない事をわかってくれているのはお前くらいだよ。
さてと俺も帰るとするか……。
七瀬はどこにいるかな。さっきまであの辺にいたよな。あれ? いないぞ。先に外に出たのか? 七瀬がいた辺りを見回すが姿がない。おかしいな?
真面目な七瀬が、俺に何も言わずに帰るとは考えにくい。胸騒ぎがする。
外で待っているかもしれない。きっとそうだ。
店の外に出ると、若い連中が幾つかの輪になって騒いでいる。まだ宴会の熱気が冷めないようだ。でも、そこに七瀬の姿は見当たらない。
どこに行ってしまったんだ、七瀬!
店の外にいる集団の顔を確認して回ると、その中に原田がいた。明るめの茶髪がよく目立つ。原田なら何か知っているかもしれない。聞いてみるか。
近寄っていくと、ちょうど原田もこちらに顔を向けた。
「あっ、主任、お疲れっス!」
「原田! 七瀬がいないんだが、どこに行ったか知らないか?」
「さっき『山さん』が七瀬ちゃんをあっちへ連れていったんで俺、止めようとしたんですけど、見ての通り酔っぱらっちゃてて……」
俺の必死な顔を見た原田は、向かって左方向を指差した。指差す方向に目を向けると、その方向はホテル街じゃないか! とにかく山さんという男の事をもっと詳しく聞いてみよう。
「おい、原田。どういう事だ? 山さんって誰だよ!」
「ちょっと主任、怖いです。落ち着いて下さいよ」
「山さんは俺も顔見知り程度なんですが、あまりいい噂は聞かないっス」
「どんな噂だよ。教えろ!」
「……女に手が早いんスよね。とっかえひっかえしてて、いつも女が泣いてるって噂っスよ」
そう言えば守衛さんは、孕ませ男の名前には『山』が付くって言っていた。もしかして……最悪な予想が俺の脳裏に浮かぶ。
これはマズいぞ! 七瀬が危ない!
迂闊だった。油断していた。最後の最後まで七瀬から目を離すんじゃなかった!
「おい、原田、七瀬が危ないんだ。一緒に探し行くぞ」
「主任、すみません。飲み過ぎちゃって、俺はもう歩けないっス」
原田の様子を冷静に見てみると、ベロベロに酔っぱらっていて役に立ちそうもない。こいつはダメだな。
原田と問答していても時間は刻々と過ぎていくだけだ。時間を無駄には出来ない。こうしている内にも、七瀬が危険に晒されているかもしれない。仕方ない。俺一人ででもなんとかするしかない!
「わかった。もういい! お前達も気をつけて帰れよ!」
「主任、七瀬の事、頼むっス」
原田をその場に残して、俺は無我夢中で駆け出した。
七瀬、待っていろ! 俺が必ず見つけてやるからな!
* * *
飲み屋街を抜けてから暫く走ると、ピンクや水色など、色とりどりのネオン看板が見えてきた。あそこがホテル街か……。
走っている間にも、七瀬が泣いている姿が頭に浮かんでくる。俺は七瀬の事を思って首を振った。
ハァハァハァハァ……。
ホテル街の入り口に辿り着く。息はあがっているが、そんな事を気にしている場合じゃない!
ここにホテル街があるのは知っていたが、実際に来るのは初めてだ。まさかこれほどとは思っていなかった。通りに面して、十軒以上のラブホテルが立ち並んでいる。
この中から七瀬を探し出すのか! 広すぎる!
このホテル街の中から七瀬一人を見つけ出せるのか! こうしている内にも七瀬は……どうすればいい……一体どうすればいいんだよ!
ホテル側に掛け合うと言ってもこの数だ。一店ずつ回っている内に七瀬は……
片っ端からホテルの部屋に乗り込むか? いや、そんな事は出来ない。時間がかかり過ぎる。そんな事をやっていても七瀬は見つからない。
七瀬、どこだ。どこにいるんだ! 七瀬に何かあったら、俺は自分を許せない。目を離したのは俺の責任だ!
今はそんな事を考えていても仕方ない。とにかく、俺が出来ることをしよう。片っ端からホテルの出入り口を見て回る。でも、それらしき人影は見えない。
山さんという名前が、どうしても引っ掛かる。七瀬が、最悪の事態に陥っている事を想定して動くしかない。嫌な汗が背中を伝う。
何軒もホテルの出入り口を見ながら、俺はホテル街を駆け走る。
こんな事をしていたって、見つかる訳がない。ホテルの出入り口を、何軒見てまわっただろう? この辺りはホテル街の真ん中辺りだろうか……。
「無理だ。こんな事をしていても、七瀬が見つかるわけがない」
道路の真ん中で俺はへたり込んだ。
俺は……俺は七瀬を守れないのか。七瀬は大切な部下なのに。いつも俺を慕って真面目に聞いて、一生懸命仕事を覚えてくれたのに、こんなところで七瀬に災いが降りかかるなんて……。
守衛さんの話が思い浮かぶ。妊娠させられた女子社員が、会社を去る時の話を。
七瀬にそんな思いをさせてしまうのか……。
俺がもっとしっかり七瀬を守っていれば、こんな事にはならなかったのに!
俺は無力だ。大切な部下が不届きな男の毒牙にさらされているかもしれないのに、何も出来ない。この馬鹿野郎! 自分に腹が立つ!
「くそぉぉぉおおおー!」
握った右こぶしを地面に叩きつける。右手に痛みが走る。こんな事ってあるかよ!
「片桐さーん!」
俺を呼ぶ声が聞こえる。声のした方を向くと、外灯に照らされている金髪が見える。大谷が泣いて顔を歪めて走ってくるのが見えた。