第三十話 親代わりのつもりで
創立記念式典が行われた翌週、誰もいない早朝の事務所で、いつも通りに仕事の準備を行っている。
社内メールのチェックも終わり、グループメンバーへの担当業務の割り振りも決めた。今日はこれで大丈夫だな……。
「もうすぐ八時か……」
そろそろみんな出社してくる頃だ。PCモニターから目を離して事務所を見渡すと、ちょうどドアが開いて七瀬が出社してきた。
俺の視線に気付いた七瀬は、パッと花が咲いたような笑顔で小走りに駆け寄ってくる。
「主任、おはようございます!」
「おはよう、七瀬」
今日も元気のいい挨拶をしてくれる。ニコッと笑うと本当に可愛い。自然と俺の頬もゆるんでくる。
隣のデスクに着いた七瀬は、PCの電源を入れ、業務準備をはじめた。今日は早いな……。何かあったのだろうか。少し聞いてみるか。
「今日はいつもより早いんじゃないか?」
「ええ、すこし気になる製品がありまして……」
七瀬は、早速メールのチェックを始めた。特に困っているようには見えない。心配はいらなかったかな。
七瀬は何に対してもまじめだし、責任感も強い。今では、大抵の業務は一人で処理判断が出来るようになった。頼もしくなったな。
俺も、今のうちにもう少しメールのチェックをしておこう。見落としがあるかもしれない。再びPCモニターに目を向けた。
再びメールをチェックしていると、横からタッタッタッと駆け寄ってくる音が聞こえた。
「おはようございま~す、片桐主任」
この声は大谷か……。
声のした方へ振り向くと、金髪の女の子が七瀬の背中に手を掛けて、俺に笑顔を向けていた。
だ、誰だ? でも、この声は……。
「大谷……だよな?」
一瞬誰なのか分からなかったが、よく見ると矢澤の部下であり七瀬の親友でもある大谷まどかだった。大谷は、首を振って金髪を揺らしながらニコニコしている。
「お前、その髪の色は……」
先週までのきれいな黒髪ロングが、金髪になっている。
「土曜日に染めたんです~。えへへ~、どうですか? 似合います~?」
大谷は悪びれずに、その金色に染まった髪を見せつけてくる。何という色だよ。完全に金髪だ。しかしな……ここは会社だぞ。
「いやお前、社会人として恥ずかしくない格好をだな……」
地方から出てくる子は、大抵、羽目を外して髪を茶色に染めたり、派手な化粧になったりするものだ。これは、親元離れて自由になった反動だと俺は思っている。大谷もその例にもれず……だが、これまでに金髪に染めたやつは見たことがない。
「だって~、同期の子ってほとんど染めてるんですも~ん。いいじゃないですか~」
俺の反応が予想よりも悪かったのか、大谷は頬を膨らませている。少しふて腐れてしまったようだ。まだまだ子供だな……。
「それはまぁ、自由だけどな。矢澤が見たらなんと言うか」
矢澤は厳しいからな。即座に染め直せと言うかもしれない。あいつは怒ると怖いぞ。大谷は怖いもの知らずだな……。
「あっ、矢澤主任でしたらさっき会いましたよ~。顎に手を当てながら、割と似合うな~って言われました。どうです~? 似合ってますか~?」
もう矢澤に見つかったのか? その上、似合うだって? あいつらしくない気もするが……。
「それにしても金髪だぞ、茶髪じゃないんだぞ。社会人としてだな――」
「あら~、片桐主任は金髪は、お・き・ら・いですか~?」
大谷は、ペロッと舌を出した。やれやれ、仕方がないやつだな……。俺は肩を竦める。
「あのなぁ、好きとか嫌いとか、そういう問題じゃなくてだな……。おまえ、ふざけてるだろう」
「ふざけてませんよ~。もう~未来~、私ってば片桐主任に怒られちゃった~」
そう言って大谷は、笑顔で七瀬の肩を揺する。おいおい、七瀬が困っているじゃないか。それに俺は、別に怒ってないぞ。
しかし、金髪は目立つよな……。部長がどんな顔をするか気が思いやられる。部下指導がなっていないと怒られるのは矢澤なんだぞ。
大谷は、揺すっていた手を止めて七瀬の肩に頭を乗せた。
「ところで未来はどうするの? やっぱり染めるの?」
急に話を振られた七瀬は、驚いた様子だ。やっぱりって事は、七瀬も髪を染めるつもりだったのか? 今のままでいいと思うんだが……。
「えっ? わたしは別に……」
思わず、ぼそっとつぶやいた七瀬をみる。一瞬目があった七瀬は、モジモジしている。普段よりどことなく頬が赤い。恥ずかしがっているのか?
大谷が七瀬のうしろでクスクス笑っている。まったく、こいつは表情がコロコロ変わるな。この落ち着きの無さが抜けるといいんだが。
「ほう、ほほ~う、未来どうする~? 片桐主任は、あんまり好きじゃないみたいだよ~」
「わたしは最初から染める気なんて……」
七瀬は、上目遣いに俺の目を見ながら言った。何で俺に向かって言うんだ? 聞かれたのは大谷だろう。
「あっれ~、さっきまでは結構乗り気だったじゃん。もしかして……主任に言われたから?」
大谷はニヤニヤしたまま、尚も七瀬に話し続ける。七瀬は、恥ずかしそうに俯いてしまった。一体、俺の言葉と何の関係があるんだか。
しかし、流れを聞く限り、七瀬も髪を染める気だったのか……。
「まどか!」
大きな声で大谷の名前を呼んだ七瀬は、大谷をキッと睨みつけた。怒ってしまったのか? でも、まだ頬は赤いままだ。
「は~い。すいませ~ん。まったく未来は怒らすと怖いからな~」
怒らすような事を言うお前が悪いんだろうが。
大谷は旗色が悪くなったのか、すごすごと自分のデスクに戻っていった。まったく朝から賑やかなやつだ。
* * *
朝礼とグループミーティングが終わり、各メンバーが事務所から離れていく。
最後に席を立った七瀬が話しかけてきた。
「あの……主任。先ほどは、まどかがすみません。朝からうるさくして」
七瀬が気にすることじゃないのにな……。俺は出来る限りの笑顔で、優しく語りかける。
「いや、大丈夫だよ。それに七瀬が謝ることではないだろう? 気にしなくていいから、今日の業務もしっかりと頼むぞ。書類を片付けたら俺も工場に向かうから、出来るところまで進めていてくれ」
「はい、わかっています! それでは先に工場に入ります」
七瀬は笑顔で一礼すると、事務所から出ていく。少し伸びてきた黒髪ボブヘアがキラキラ輝いていて、後ろ姿も実に生き生きしている。七瀬の元気な姿を見ると、自然と笑顔になる。
あの髪が金髪に染まったら……。いやいや、考えたくもない。だいたい七瀬は、染めないって言ってたじゃないか。そもそも本人の自由なんだし、俺がとやかく言うことじゃないよな。
でも、さっきは大谷に結構厳しく言ってしまった……。本当に余計なお世話だったな。言い過ぎたことを謝った方がいいのだろうか?
ふと、大谷を見ると、ちょうど大谷も俺の方を向いていて目があった。一言フォローしておいた方がいいかな……。
大谷を見ながら席を立つ。その時大谷は、俺に向けてこれ見よがしに金髪を振りかざし、ニヤッと笑った。
ああ~、前言撤回。あれは気を悪くするどころか、図に乗っている。まあ、あの図太さが七瀬にもあったら、泣くことなんてないだろうに。
やれやれ、気にして損した。俺も業務に集中しよう。
* * *
休憩室で一服していると、矢澤が俺のとなりにやって来た。すこし疲れた顔をしている。お疲れ……お前も相変わらず忙しいんだな。
「矢澤、あれどう思う?」
矢澤の顔を見ながら声をかける。タバコに火をつけた矢澤が、俺と目を合わせた。
「あれって言いますと、大谷の髪の事ですか?」
「ああ。さすがに金髪はどうかと思うぞ」
「大谷の髪のことなら、まあいいんじゃないですか。あれくらいの年頃は色々やってみたいんでしょう。あいつもきまぐれですから、その内やめると思いますよ。それに、奴の行動にいちいち付き合っていたら身がもちません」
矢澤はおおらかだな。
「それもそうだな。お前はさすがだよ。それに引きかえ、俺の考えは古いのかな……。もう三十二だし、ジェネレーションギャップを感じずにはいられないよ」
「いやいや、そんな、老け込む年でもないでしょう。私と一つしか違わないんですし」
「でも、心配だよ。悪い男の影響だったりしなきゃいいんだけど……」
社内には悪い男だっているらしい。守衛さんから言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
「あ! その点は大丈夫です。大谷のオトコが誰なのか知ってますから」
「ほう、大谷にはもう彼氏が出来たのか」
「ええ、まあ」
「社内の人間か?」
「まあそうですね。しっかりした奴ですよ。相手が誰なのかは、私が言うことではないんで、本人から聞くまでのお楽しみってことで」
それもそうだな。別に大谷が誰と付き合おうが、本人の自由だ。悪い奴ではないのなら、俺がとやかく言うことじゃない。矢澤がしっかりした奴だというのだから、それでいいだろう。
しかしな……そのうち七瀬にも、相手が出来るのだろうか。
「七瀬はいませんよ」
矢澤がぼそっと言った。矢澤を見ると、真剣な顔をしていた。あれ? 俺は今、声に出していないよな……。
「何の事だ?」
「あっ、いや、片桐さんが知りたそうな顔をしていたので……」
知りたそうな顔ってどんな顔だよ。でも考えていたのは事実だからな。でもそれより――
「なぜお前が知っている?」
「え? ……い、いや、大谷に聞いたんですよ。この前、そんな話になりまして」
「そうか……」
なぜ、どもってるんだ。なんか様子が変だぞ。まあ、いいか。七瀬には、まだ特定の相手はいないんだな。
出来る事なら、ふさわしい相手を見つけて欲しいものだ。
「親元離れてこんな遠くまで来てるんだ。間違いは起こさないで欲しい。納得のいく人生を送ってもらいたいものだな」
「そうですね。初めて導入教育から面倒を見ている子達です。思い入れも一際強いですよね。二人とも何とか我々が守ってやりましょう」
そうだな。俺も全く同じ気持ちだよ。親代わりのつもりで守っていかなければならないな……。矢澤の言葉にうなずく。
矢澤は俺の肩をポンと叩くと、笑顔のまま休憩室から出ていった。