第三話 深夜の密談
ふう……これでまた一つ資料が出来上がった。
時計を見ると、短針が真上に近付いている。
今日はそろそろ切り上げるとするか……。
「片桐さん、お疲れっす。資料は出来上がりそうですか?」
缶コーヒー二本を片手に、俺に話しかけて来たのは、第二開発課の矢澤真吾。
俺より一才年下、三十歳のイケメン主任だ。
矢澤も俺と同じく、新人導入教育を命じられた四人の内のひとりで、連日残業して資料の作成を行っている。
身長は俺より少し高くて百八十近くあり、短く刈り揃えられた髪が、彼の精悍さを一層増している。学生時代はボクシングでかなりいいところまで行ったらしく、鍛えられた体は今も尚若々しい。
「おう、サンキュ! 何とか間に合いそうだよ。残りあと二部だ。そっちはどうだい?」
手を止めて、コーヒーを受け取りつつ返事をする。
「私の方は先程、担当分の作成は終えました。あとはプレゼン次第ですが……。あーっ、もうじき日付が変わっちゃいますね」
プルタブを開けながら矢澤が呟く。
愛妻家の彼はソワソワしている。
綺麗な奥さんが待っていてくれるのだから、早く帰りたいのだろう。
奥さんも元々この会社に勤めていて、矢澤の熱烈なアタックにあっさり陥落し、職場結婚した。妊娠~出産を機に退職して、今では一児の母だ。
「片桐さん。……少し真面目な話をしても良いですか?」
矢澤は、急に真剣な表情になった。
「どうした? 急に改まって……」
「いや、あの派遣女についてなんですが……」
「派遣女? ああ、小久保さんの事か」
「あの女は良くないです。ここのところずっと、片桐さんに媚売ってますよね。どう思ってます? あれ、片桐さんを狙ってるんですよ。周りはみんな気付いてます」
「確かに……そうかなとは思っていたけど、俺にそんなつもりはないよ」
「それなら良いんですが……あの女、だいぶ評判悪いですよ。仕事もつまらないミスが多いですし、まったく何しに会社に来てるんだか……」
矢澤が憎々しげな表情を浮かべる。
「そうか、そんなにミスが多いのか……気にした事なかったな。でも、何で俺なんだ? 業務以外では殆ど話もしないのに……」
「片桐優太、三十一才、役職は主任。職務遂行能力は高く、次期課長候補筆頭と目される。年収は六百万以上、家持ち、"独身"。優良物件じゃないですか」
「優良物件って、お前……」
「とにかく、あの女は駄目です。片桐さんとは合わないと思います」
「合うもなにも、俺にそんな気はないって事くらい、お前はよくわかっているだろう?」
俺はもう弥生以外に愛を向ける事は無いって事を……。
「それはそうなんですけど……
片桐さん。こんな事言うのは迷惑かもしれませんが……再婚とか考えられませんか? 弥生さんの事、まだ忘れられませんか?」
「お前まで……お前まで弥生を忘れろって言うのか! 弥生の事は忘れて再婚しろ、と。
矢澤……俺はもう要らないんだ。 失うくらいなら大切なものなんて、最初から無かった方がいいんだよ!」
「……」
矢澤が首を竦めてしまった。
違う……俺はこんな文句が言いたかった訳じゃない。
「……すまん。感情的になった。お前には本当に感謝しているよ」
そうだ。
三年前、妻の死を受け入れられず自棄になった俺を何度も見舞い、最後まで見放さなかったのは目の前にいる矢澤だ。
矢澤がいてくれなかったら、矢澤に見放されていたら……俺はこの世にいなかったかもしれない。
「でも!」
「やめてくれ! 本当にもういいんだ。いいんだよ」
「すいません……」
当時は随分暴言を吐いてしまった気がする。それでも矢澤は励まし続けてくれた。そのお陰で現在、俺は生きている。
弥生のいないこの世界を。
妻の葬儀の事は殆ど憶えていない。
ただ、あの事故の日の朝まで、俺は幸せだった。
何の変哲もない平凡で……幸福な日常。
もう二度と返ってこない日々。
二度と見る事の出来ない妻の笑顔。
「……さん、片桐さん!」
「あ、すまん。すこし考え事に……」
「大丈夫ですか? 俺はもう帰りますけど、あんまり根詰めないで下さいよ」
「ああ、お疲れ! 俺も、もう少ししたら帰るよ」
「それじゃお先に失礼します」
矢澤は、申し訳なさそうな顔をしたまま帰っていった。
彼は、俺の前では、決して家族の話をしない。
それどころか、他の人間から家族関係の話が出掛かると、別の話題に切り換えてくれる。
いつもそんな風にさりげなく気遣われている。
感謝してもしきれない。
矢澤は、男の俺から見ても実に魅力的で頼り甲斐がある。一年遅れで入社した彼には、当初から光るものがあり脅威すら感じて、俺も負けていられないと強く意識したものだ。
彼が主任に昇進した時だったか……矢澤自身の口から「片桐さんに憧れ、追い付き追い越せのつもりで努力してきたんです」と打ち明けられた事があった。嬉しいやら恥ずかしいやら、公私共に幸福の絶頂だった。
だけど、それも過ぎた事だ。
俺は最愛の女性を失った。
一生を懸けて幸せにすると誓った弥生を……。
俺の親も妻の両親も、出来るだけ若い内にと再婚を勧めてくるが、そんな気にはなれない。
もう俺は妻しか愛さない。恋なんてしない。
腕時計のデジタル表示は、0:00を差していた。