第二十九話 守りたいもの
年が明けて一月十七日。時刻はまだ六時半を過ぎたところだ。出社時間には少し早いが、会社に向けて路地を歩いている。
……今日も寒いな。コートの襟の隙間から吹き込む風が冷たい。俺は首をすくめた。
今年はまだ雪は降っていないが、最高気温が十度以下の日が何日も続いている。特に早朝は氷点下を記録する日もあるくらいの寒さだ。本当に寒い。
住宅街を抜けて大通りに出ると、歩道を歩く人の姿がちらほら見えてくる。みんな背中を丸めて寒さに耐えて歩いているようだ。
大通りに面してコンビニや食品スーパー、ガソリンスタンドなどが並んでいる。こんな早朝から営業しているのはコンビニくらいだ。
コンビニの前を通ると、店内には数人の買い物客がみえる。昼飯や暖かい飲み物でも買っているのだろう。この寒さだし、温かい飲み物が欲しくなる気持ち、よくわかるな……。
「たまには缶コーヒーでも買ってみるか……」
コンビニで缶コーヒーを買い、暖かいコーヒーを飲みながら歩道を歩く。
それにしても先週は忙しかった。今年成人を迎える者の殆どが成人式のために帰省し、抜けた穴を埋め合わせるのに四苦八苦した。
俺のグループに今年成人を迎える者はいないが、他課の応援で毎日残業だった。これも毎年の事でお互い様ではある。来年は七瀬も成人を迎えるので、応援してもらう側になるんだろうな。
住宅街を過ぎて、工業地帯に入る。そのまま直進すると、長い塀の先に俺が勤める藤崎電子工業の正門が見えてきた。
今日は会社の創立記念日だ。午後には創立記念式典が行われる。例年なら作業服で式典に参加するところだが、今年は違う。式典の中で提案の表彰があり、俺が表彰される事になったからだ。
大勢の従業員の前で社長表彰を受けるなんて、とても名誉な事だ。こんな日が来るとは思ってもみなかった。
新調したネクタイとYシャツを着ているが、襟首が痛いな……。Yシャツののりがきき過ぎていてゴワゴワする。ネクタイもきつく締めすぎたかもしれない。会社に着いたら、すこし緩めるか……。
正門に差しかかると、入ってすぐの守衛所の前に、いつもの守衛さんが立っている。お互い名前は知らないが、よく挨拶をする人だ。冬場は警備員の制服の上に防寒ジャンパーを着込んでいる。俺の薄っぺらなコートよりも、はるかに暖かそうだ。
守衛さんは俺に気付くと、笑顔で歩み寄ってきた。俺と目が合うと一層嬉しそうに顔をクシャクシャにして笑っている。どうやら俺は、話し相手としてロックオンされたらしい。話し込むと長くなりそうだし、適当にあしらって今日の業務に備えるとするか……。
「おはよう。今日も寒いね」
「おはようございます。本当に毎日寒いですね」
実に嬉しそうに挨拶をしてくれた守衛さんに、話を合わせて返事をする。適当にお茶を濁そうと思っていると、俺の胸元を見た守衛さんが、しげしげと覗き込んできた。な、なんだ?
「あれ? 新しいネクタイだね」
なんだ、ネクタイの事か……よく見ているな。ここで人の出入りを見ているんだし、それくらいの注意力は身に付いているのだろう。やれやれ、話が長くなりそうだ。仕方ない、少し付き合うとしよう。
諦め気味に吐いた溜め息をみて、守衛さんは一層嬉しそうな顔で話しかけてくる。俺も守衛さんと目を合わせる。
「今日は創立記念式典だね。もしかして、表彰されちゃったりするの?」
鋭いな……。隠す事でもないし、正直に答えても問題ないだろう。どうせ社内データベースには公開済みなんだし。
「実はそうなんですよ」
「へぇ、そりゃ凄い。何か成果を上げたのかい?」
あまり詳しく話す必要もないだろう。伝わればいいか……。
「これから大量生産する製品の改善と言いますか……そんな感じです」
「それは鼻高々だね。上司の方も大喜びだろう」
「お陰さまで。でも、これは私一人で成し遂げたことではないです。上司がいて部下のサポートがあって出来たことです」
そうだ。グループのみんなの力で成し遂げたことなんだ。俺ひとりの実績なんていう、おこがましい考えは一切持っていない。
「殊勝な心掛けだね。そう言えば部下と言えば……あんたのところにも新人さんがいるんだったよね。女の子かい? 女の子だったら気を付けなよ」
女の子だと何かあるのか? 急に話題が変わってついていけない。何が言いたいんだろう……。
守衛さんはさっきまでのにこやかさは消え、一気に真面目な表情になった。
どうやらこれはヒソヒソ話だな。あまり大きな声では言えないことなんだろう。守衛さんの隣に並んで、正門に向かって立つ。彼の役目もあるし、この方が内緒話はしやすいだろう。
「毎年ね。新人の女子社員が辞めていくんだけどね。ここにいるとわかっちゃうんだよね」
何が言いたいんだろう。本当にわからない。
「何がですか?」
俺の困ったそぶりから察してくれたのだろうか。守衛さんはやれやれと一言つぶやいた後、話をしてくれた。
守衛さんが言うには、新人女子を飲み会などで飲ませ酔わせてしまい、そのまま事に及んでしまう不届き者がいるということだった。その結果、妊娠してしまった女子社員が退社に追い込まれ、迎えにきた御家族が守衛所を訪れる。そして神妙な顔つきをして娘の名前をいうらしい。
その日のうちに娘を伴い、三人でこの正門から出ていくらしい。この会社に送りだした御両親からしたら、そんな辞め方は、たまったものではない。怒り心頭だろう。
それを最初に受け付けるのは守衛さんだから、何となく分かってしまうという話だった。
俺もその噂は聞いたことがある。特に製造部門の高校を出たばかりの新人女子に多いって噂を。
だけど俺が聞いたのは数年前だ。もう過去の話だと思っていた。悪さをした男はとっくに処分されたと勝手に思い込んでいた。
でも、そうじゃなかったらしい。今もそんな不届き者が悪さをしているのか……。
七瀬が、いや、七瀬と大谷が心配だ。
矢澤と相談してから、二人にも注意を促しておいた方が良いだろう。
二人とも可愛い部下だ。近くにいることもあって、情が生まれるのは間違ったことではないだろう。
七時近くなって、出社してくる人が徐々に増えてきた。守衛さんは大きな声でおはようと声をかけている。
人通りが増えたので、俺と話す守衛さんの声は、さらに小さくなった。
「まぁ、あんまり大きな声じゃあ話せないんだけどね。どうも、その男の苗字には『山』がつくらしい。あくまでも噂だよ。被害にあった子達は、なにも言わずに会社を去っていくそうだ。何か弱みでも握られているのか、本当に酔っぱらって知らないうちに……なのかは分からないけど」
そんなことが本当にあるのか……。信じがたい話だが、守衛さんの目は嘘をついている目つきではない。これは警戒しておいた方がよさそうだ。
「ご忠告ありがとうございます。気をつけます」
頭を下げてその場を離れる。守衛さんは、正門を向いたまま片手を上げて答えてくれた。
物凄く後味が悪い話だな……。七瀬はもちろん、普段から軽そうな大谷のことも心配だ。とにかく矢澤と相談だな。
矢澤はまだ正門を通っていない筈だ。矢澤が来る前に、ひと通りの業務準備は済ませておこう。
俺は、事務棟に向かって歩きだした。
* * *
「すまんな、朝から」
「いいえ、大丈夫ですよ。何か大事な話でもあるんでしょう?」
自分のデスクについて間もなく、出社してきた矢澤を休憩室に誘う。矢澤も何か察してくれたのか、あっさりついて来てくれた。
彼のこういうところは本当にありがたい。付き合いの長さだけでない繋がりを感じる。さすがは頼れる男だ。自然と俺の顔はほころぶ。
休憩室の一番奥のテーブルに灰皿を置いて矢澤と二人で陣取る。ほかには誰もいないし、今なら話しやすいな。矢澤はタバコに火もつけず、俺の方を向いている。俺も矢澤と目を合わせた。
「朝からすまん。さっき守衛さんから聞いたんだ。若い女子社員を孕ませて退社に追い込む奴の噂を。お前も噂くらいは聞いたことがあるだろう?」
「ええ、数年前から噂になっていますね。それがどうかしたんですか」
矢澤はそんなことは知っているといった表情だ。でも問題は、今現在も悪事が続いていることだ。
「そいつ、今も悪さをしているらしい。さっき守衛さんからその話を聞いていたんだ。正門にいれば、人の出入りのほとんどが目に入るからな。いかにも妊娠させられた若い女子社員が親に付き添われて出て行くんだってさ」
「ああ、それは組合でも問題になっていましたね。昨年、労働組合の委員をやった時にも、組合委員長さんからあんたの部署は大丈夫か、そんな不届き者はいないかって言われましたよ」
やっぱり矢澤も知っていたのか。これはいよいよ信憑性を疑う余地はないな。
矢澤がタバコに火をつけた。俺もポケットからタバコを取り出して火をつける。
「飲み会で酔わされて事に及ぶという流れらしい。被害者は製造部門に多いらしいが、ここだって絶対安心って訳じゃない。それで思ったんだがな……大谷も気をつけたほうが良いと思うんだ」
「七瀬もですね」
矢澤はフーと煙を吐き出すと、目を鋭く細めながら言った。その目つきから、不届きな奴に対する怒りを感じる。俺だって不愉快に思っているさ。
「ああ、分かっている。分かっているけど、七瀬は身持ちの硬い子だ。そんな安易に騙される可能性は低いと思っている」
七瀬はしっかりした子だ。最近は随分にこやかになって来たが、基本的に親しくない人間には笑顔は見せない。それだけ警戒心が強いのだろう。逆に、大谷は社交性が高い分、つまらぬ誘惑に引っかかりやすいと思う。
「とにかく、二人とも長崎から親元離れて東京まで来ているんだ。俺達の大切な部下だ。そんな事にはならないように俺達が気をつけていこう」
「そうですね。私も大谷に直接話をしようと思います」
そう言うと、矢澤は俺と目を合わせて大きく頷いた。
お互い自分の部下をそんな目には遭わせたくない。七瀬はきっと俺が守る。あんな真面目な子を残念な辞め方をさせてたまるか!
矢澤も決意に溢れた強い目をしていた。