第二十七話 夢 其の参
霧が立ちこめる中、うねうねと続く道を歩く。足元の砂利がザッザッと音を立てている。
だいぶ暗いな。視界が悪く、五メートル先は何も見えない。霧のせいで見渡す限り真っ白だ。
道の両脇には雑草が生えているだけで、目印になるような物は何ひとつない。
俺はまたここに来てしまったのか。
漠然とこの道を歩く。選択肢なんて、進むか止まるか或いは来た道を戻るか、それくらいしかない。
でも前に進まなければならないと思う気持ちが、胸の中に確かにあって、俺は歩き続けている。
だんだん思い出してきたぞ。これは夢だ。この先には弥生が待っているんだ。
早く弥生に会いたい!
急げ! 早歩きはやがて小走りになり、いつしか俺は全力で走り始めた。
弥生! 弥生!
全力で走る。砂利を踏み込む音が響く。
視界の悪さも構わず、無我夢中で走り続ける。おっと! 躓いたが体勢を立て直して、また走り出す。
やがて後ろから陽光が差し込んでくる。夜明けだ。少しずつ霧が晴れ、前方にうっすらと大きな影が見えて来た。
あれが世界樹か。まあ、俺が勝手に世界樹と呼んでいるだけなんだが……。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。
だんだんと息が切れてきた。でも急げ! あそこで弥生が俺を待っているはずなんだ。
息が切れる。でも俺は走り続ける。
どれくらい走っただろう。霧は完全に晴れ、世界樹の根元に白いものが見えて来た。あれだ……あそこに弥生がいるんだ!
さらに近付くと、世界樹の根元に立って、こちらを見ている弥生の姿が見えた。
「弥生! やよーいーーーー!!」
もう少しだ。もう弥生の姿は見えている。弥生に会える。弥生、待っていてくれ!
全力で走り切り、やっと辿り着いた。疲れたなあ。ずっと走ってきたから息が苦しい。腰を折って膝に手をつき、全身で息をする。
白い丸テーブルの横に立って、穏やかな眼差しで弥生が俺を見つめている。
以前と同じ白いワンピースを着て、木洩れ日が髪に当たりキラキラ輝き、神々しくさえ見える。
「はぁはぁ……。弥生、逢いたかったよ」
弥生はニッコリ微笑むと、右手を椅子に翳し、俺に席を勧めてくれた。また会えたね、弥生。
俺が席に着くと、弥生も向かいの椅子に座り、お茶の準備を始めた。前もこんな風にお茶を出してくれたんだよな……。少しずつ息が整ってきた。
弥生がポットからティーカップにお茶を注いでいる。
あれ? この光景……確か前にも見たぞ。
デジャヴュなのか?
いや、そうじゃない。本当は知っているんだ。これは夢だって事を。弥生はもう死んでしまったって事を。
でも、今はいい。弥生に会えたのだから……。会えた事が嬉しいんだ。
弥生はカップに注いだ紅茶を俺に前に置いた。それからテーブルの真ん中の、クッキーが盛られた皿を俺に差し出してくれた。にこやかな顔をしている。この顔を見ると、俺の心は安らぐんだ。
「ありがとう」
皿からクッキーを一枚取り、弥生を見る。弥生はどうぞどうぞって言っているみたいだ。だけど声が聞こえない。
「それじゃ、いただくよ」
俺の声に、弥生はニッコリ笑った。この笑顔だ。やっぱり俺は弥生の笑顔が好きなんだ。
クッキーを一口齧る。バターの風味が口いっぱいに広がり、とても美味しい。もう一枚、クッキーを手に取る。
弥生は、そんな俺を見て今もニコニコしている。がっつき過ぎたか? 少し恥ずかしくなってきた。
「なんだよ、弥生。俺って何か変かい?」
弥生はハッとして俺を見つめる。目をまん丸にして驚いた表情になった。そうだ、弥生はこんな表情も出来るんだったな。
そして弥生はプッと吹きだして笑い始めた。だから、何がそんなに可笑しいんだよ? 弥生は胸に手を当ててクスクス笑っている。
だけど、笑い声すら聞こえない。弥生の声が一切聞こえてこない。
これが夢という事なのだろうか……。でも不思議な感覚だ。夢だってわかっているのに、一向に醒める気配がない。
ふと思う。
もしかして弥生は成仏出来ないのか? 俺が頼りないから。俺が不甲斐ないせいで……。
笑いが収まった弥生は、真面目な顔で俺を見ている。何を思っているんだろう。表情からは何も伺えない。
「弥生、俺は大丈夫だよ。ちゃんと生きていけるよ。君の事をずっと大切に思っているよ」
その時、弥生が両手をこちらに伸ばし、俺の左の掌を握った。小さくて冷たい手だ。
「弥生……どうしたんだ? そんな心配そうな顔をしなくても俺は一人で生きて――」
弥生は深刻な表情で俺を見つめている。どうしてそんな顔をするんだ? 君の悲しい顔は見ていて辛いよ。
弥生は、何かを伝えたそうに口を動かしている。何だ? 何を言っているんだ?
き・を・つ・け・て
きをつけて
気を付けて?
弥生、気を付けてってどういう事だよ。そういえば前も俺に大丈夫? って言っていたよな。分からないよ。
「なあ、弥生。俺に何かよくない事でも起きるのか? もっと詳しく教えてくれよ。声を聞かせてくれよ!」
必死の問い掛けにも、弥生は何も答えてはくれない。ただ悲しそうな顔をしたまま、俺を見つめるだけだった。
* * *
「夢か……」
目が覚める。やっぱり夢だったか。
遮光カーテンの隙間から光が差し込んでいる。もう朝なのか?
ベッド脇のテーブルに置かれた目覚まし時計を見ると、デジタルは【5:55】と表示されている。
朝か……。普段俺は六時に目覚ましを掛けている。最近、目覚ましが鳴る直前に目が覚める事が多いんだよな。精神的に参っているんだろうか……。
ふぅ、起きるか。今日も仕事だ。目覚まし時計のアラームを解除し、ベッドから下りて支度を整える。
襖を開けてリビングに入る。以前は二階を寝室にしていたが、一人で暮らすには一階だけで十分だ。だからベッドを一階におろして寝起きしている。今では殆ど二階に上がる事はない。
弥生の遺影の前に座り、手を合わせる。
夢の中の弥生は、俺に気を付けてと言った。以前見た夢では、大丈夫? とも言っていた。これは何を意味するんだろう。何かの警告なのか? でも俺にはあれから特に心配される様な事は起きていない。
弥生は一体、俺に何を伝えたかったんだろう?
深く考えていても仕方がないか……夢の中の話だけど、気を付けてという弥生の言葉だけは憶えておこう。合わせた手を解き、目を開けて写真の中の弥生を見る。弥生は何も言ってはくれない。もう死んでしまったのだから……。
七瀬に辛く当ってしまうなんて、この数カ月俺はどうかしていた。とにかく今日から七瀬とやり直そう。茜亭で七瀬は深く追及もせず、俺を許してくれた。
七瀬は本当にいい子だ。あの子の誠実な心を守ってあげなければいけない。もう七瀬に辛く当たったりしない。優しくしよう。
七瀬だけじゃないな。中村や他のメンバーにも、随分心配と迷惑を掛けてしまった。今日のグループミーティングでは、まず最初にその事を謝ろう。
俺はそう決意し、玄関の扉を開けた。