第二十六話 笑顔
『茜亭』と書かれた赤い看板が、照明で照らされている。以前は、よく訪れた洋食レストランだ。
ここに来るのは久しぶりだな……。
茜亭の前に着くと、矢澤は迷わず入り口の扉に手をかけた。俺にも心の準備ってものがあるんだけど……今更ジタバタしてもしょうがないか。
扉を開けると、変わらぬ笑顔でアカネさんが駆け寄ってくる。
「あ~ら、真吾ちゃん、片桐ちゃん。随分遅かったわね~。奥でお待ちかねよ!」
奥で大谷が手を振っている。矢澤に手を引かれ個室に向かう。少し緊張してきたな……。どんな顔して七瀬に会えばいいのか。
個室の前に立つと、大谷と七瀬がこちらを向いた。七瀬と一瞬目が合うが、サッと逸らされてしまった。七瀬は肩を縮こまらせて座っている。
今のは俺に怯えているような目つきだった。やはり相当傷付けてしまった。ごめんよ、七瀬。
「おう、まどか! 待たせたな!」
矢澤が大谷に声をかける。名前呼びか……。あまり馴れ馴れしくすると、セクハラで訴えられるぞ。
矢澤の隣に立った大谷が話しかけてきた。
「もう! 片桐主任、来てくださらないかと思いましたよ~」
「ああ、大谷にも迷惑かけてすまないな」
大谷は少し頬を膨らませている。すまん……随分と心配をかけたな。申し訳なくて頭を下げる。
「さあさあ、片桐主任! 奥へどうぞ~!」
大谷に勧められ、奥の席に着く。正面に七瀬が座っているが下を向いたままだ。やっぱり気まずいな……。何から話したらいいんだろう?
「おい、まどか。ちょっとこっち来い!」
矢澤が大谷をカウンターの方へ引っ張っていく。気を遣って二人きりにしてくれたんだな。矢澤、ありがとう。
七瀬は、一瞬大谷に助けを求める様な目線を送ったが、その後下を向き、一向に顔を上げようとしない。俺と顔を合わせるのを恐れているかのようだ。
そんなに怖がらないでくれ。でも、七瀬をこんな風にしたのは俺だ。全て俺の責任だ。きっと俺が七瀬の笑顔を取り戻してみせる。
とにかく話しかけよう。
「七瀬」
七瀬の肩がビクッと震えた。それでも顔を上げてくれない。こんなにも怖がらせる程、傷付けてしまったのか……。でも謝るしかない。
「七瀬……聞いてくれ。何カ月も君に辛い思いをさせてすまなかった。俺が間違っていたよ。許してもらえるか分からないけど謝らせてくれ」
それでも七瀬は顔を上げてくれない。俺を見てくれない。俺はなんて事をしてしまったんだ! 思わず目が潤んでくる。
「君の悲しむ顔を見ると、俺は辛いんだ」
七瀬は俯いたままだ。でもこの子の笑顔を取り戻すんだ! それが俺の責任だから……。
「七瀬、君には笑顔でいて欲しい。だけど俺は君を悲しませる様な事ばかりしてしまった。本当に悪かったと思ってる」
七瀬は動かない。俺は精一杯、思いを伝えるだけだ。
「七瀬……。虫のいい事を言ってるのはわかってる。それでもお願いだ。二度とこんな事はしないから、顔を上げてくれ!」
この気持ち、七瀬に届いてくれ!
七瀬はゆっくりと顔を上げ、上目遣いに俺を見た。俺も七瀬を真っ直ぐ見つめる。
「主任。私、何か主任を怒らせるよう事をしてしまったのでしょうか?」
やっと声を出してくれたけど、そんな事ある訳がない。
「そんな事ない」
「私、嫌われてしまったんでしょうか?」
俺が君を嫌う? 思わず言葉が出ず、ただ首を横に振るだけになってしまった。
すると七瀬の顔がパァーっと明るくなった。
「良かった~~。私、主任に嫌われたのかと思っていました。そうじゃなかったんですね」
七瀬は一気に力が抜けたのか、背もたれに寄りかかった。少しだけだが、やっと笑ってくれた。
悪いのは俺の方で、七瀬は何も悪い事なんてしていないんだけど……。この子はそんな風に考えていたのか。
「そんな訳ないじゃないか。君はいつも真面目で、誠実で、誰よりも正直で、ひたすら俺について来てくれた。そんな君を俺が嫌う訳がないよ。これは俺の問題――」
あっ! しまった。これじゃ弥生の事を話さなければならなくなる。だけど、この子が弥生の事を知る必要はない。この子には関係のない事だから。
失敗したな……どうしよう?
「はいはい! 仲直りが済んだところで、飯にしますか。もう腹ペコですよ。アカネさ~ん! 持ってきてくださ~~い」
言葉に詰まっていると、矢澤が割って入ってくれた。カウンターの方からアカネさんの、はいよー、と元気な返事が聞こえてきた。
矢澤が俺にウィンクしている。そうか、フォローしてくれたのか。いつもありがとう。
「未来~、よかったね~。本当によかったね~~」
席に着いた大谷が、嬉しそうに七瀬に抱きついている。大谷にも随分と心配をかけてしまったみたいだな。
「はいはい、お待ちどうさま~。ちょっと真吾ちゃん、受け取って!」
アカネさんが料理を運んできた。矢澤がサッと受け取り、テーブルに並べていく。
ミックスグリルにグラタン、具沢山のナポリタンの大皿がテーブルに並んだ。どれも美味そうだ。
それにこれはあの時の……七瀬を初めて連れて来た時のパエリアだ。マスター、ありがとうございます!
「片桐ちゃん、飲み物どうする?」
アカネさんに聞かれたので、烏龍茶を頼む。隣に座った矢澤はビール。大谷もビールを頼もうとして矢澤に窘められている。未成年だからな。七瀬は何か頼むのかな?
「七瀬、飲み物は?」
「まだあるので大丈夫です」
そう言って七瀬はグラスを持ち上げた。またオレンジジュースを飲んでいたのか。初めて連れて来た時と同じだな。大谷は、気の抜けたコーラのグラスを傾けている。
「あ~、腹減りました~。早く食いましょう!」
女の子らしからぬ発言に、一瞬呆気にとられる。
「お前はなんつう言葉遣いをしてるんだ! はしたないだろうが!」
大谷がふざけると、矢澤が突っ込んだ。矢澤主任がうるさいです~と大谷がボヤく。
こいつら……わざとこの場を明るくしようとしてくれているんだな。二人ともありがとう。本当に頭が下がる思いだ。
「さて、いただくとしましょうか?」
矢澤の一声で食事が始まる。
七瀬は本当にこれで許してくれるのか?
もっと俺を責めなくていいのか?
理由は聞かなくてもいいのか?
七瀬を見つめる。本当に嬉しそうにグラタンを手に取るが、少し熱いのかフーフーしている。去年まで高校生だったんだ。そう考えると可愛らしいな。
思わず見つめていると、俺の視線に気付いた七瀬と目が合った。
「主任、どうかなさいましたか?」
七瀬は、本当に穏やかな笑顔で俺を見つめている。
本当に良いんだろうか? 罪悪感が残る。俺は本当の事を話していないのだから……。
突然、俺の前にパエリアを盛った皿が置かれた。隣で矢澤がニヤニヤしている。矢澤がこれをよそってくれたのか。
「片桐さん。なにを辛気臭い顔してるんですか! ほら、食べましょうよ! あっ、もしかして七瀬によそって欲しかったですか~? いや~、気が利かなくてすいませんね~」
お前、何を言い出すんだよ! 思わず七瀬の方に目が行ってしまう。
目が合うと七瀬はスッと目を逸らし、下を向いてしまった。どことなく顔が赤い。矢澤があんな事言うから、照れてしまったんだな。
でも、よかった。七瀬は本当に許してくれたみたいだ……本当によかった。
* * *
茜亭を出て、四人で裏路地を歩く。今日も送っていった方が良いかな……。
「七瀬、クルマで送って行こうか?」
もうだいぶ寒いしな。風邪なんかひかせる訳にはいかないし。
「いえ、今日はまだ早い時間ですから、電車で帰ります」
「え~~、未来~。今日も片桐主任のクルマに乗せてもらおうよ~」
七瀬と大谷の意見が合わない。
「ダメよ。明日も仕事なんだから」
「ふん。未来のいけず~」
七瀬が毅然と言い切ると大谷が折れたようだ。それなら駅まで送ろうと矢澤が言い、俺達は駅に向けて歩き始めた。
* * *
駅に着くと、俺達は立ち止まった。七瀬は、矢澤に今日の礼を言うと俺の前にやって来た。
「片桐主任、また明日からよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく頼むよ」
俺の返事に、七瀬が穏やかに微笑む。どこか弥生と重なる笑顔だ。今さらながら自分の気持ちを知った。俺は、この笑顔が見たかったんだ。
エスカレーターに乗り、上って行く七瀬の背中は以前の元気を取り戻している。こちらに振り向いた大谷が笑顔で手を振ると、釣られて七瀬もこちらを向き、微笑みながらお辞儀をした。
エスカレーターを上りきると、二人は手を繋いで奥へ進み、見えなくなった。
……良かった。七瀬の笑顔を取り戻すことが出来た。本当に良かった。これも矢澤のお陰だ。あと、大谷もな。感謝しているよ。
「矢澤、今日はありがとう。全部お前のお陰だよ。また借りが出来てしまったな」
「何を言うんですか。水臭いですよ。そうでなくても、俺は片桐さんに世話になりっぱなしなんですから、こんなの小さな恩返しですよ」
矢澤の面倒を見たのは随分前の事だ。むしろ最近は、七瀬の事で世話になりっぱなしだ。
「ありがとう。本当に感謝してるよ」
駅を離れ、家路に就く。矢澤と一緒に歩道を歩いていると、矢澤が思い出したように話し始めた。
「そう言えば、七瀬に謝っている時、弥生さんの話になりそうでしたよね? 私の考えで割り込ませてもらったんですが、あれでよかったですか?」
「あれは本当に助かったよ。感謝してる。七瀬が知る必要のない事だからな……」
やっぱり気にしてくれていたんだな。本当に助かったよ。
「それならよかったです。でも片桐さん。後悔のない様に生きて下さいよ。俺はいつでも応援していますから」
矢澤は屈託のない笑顔を見せる。後悔の無いようにか……ん? それってどういう意味だ?
「矢澤、どういう意味だ?」
「それじゃ、私はこっちなんで失礼します。また明日」
矢澤は、笑顔のまま手を振りながら路地に入って行った。俺は立ちつくしたまま、矢澤の言葉の意味を繰り返し考える。
だけど答えは見つからなかった……。