第二十五話 躊躇いと自責の念
トイレから出ると、こちらに背を向けて廊下の壁に寄り掛かっている矢澤の姿が見える。
「矢澤、待たせた。それじゃ行こうか」
振り向いた矢澤は、穏やかな顔で頷いた。さっきは本当に殴られるかと思ったよ。今はもう落ち着いてくれたみたいだな……。
二人並んで階段を下り、昇降口のすぐ横にある男子更衣室に寄る。ロッカーの扉を開けてコートを取り出していると、矢澤から声が掛かった。
「片桐さん。色々と悩むところはあると思いますが、七瀬には優しくしてあげましょうよ。遠く離れた九州からこっちまで来ているんです。きっと心細い思いさせてますよ」
矢澤の声はとても穏やかになっている。
「ああ、確かにそうだな」
七瀬には心細い思いをさせてしまった。俺はダメだな……。自分の事ばかり優先して、目の前の大切な事が考えられなくなる。傷付けようなんて思っていなくても、現に今七瀬を傷付け、矢澤にも心配を掛けてしまった。自分の不甲斐なさに思わず頭を抱えてしまう。
七瀬、ごめんよ。俺はまた君に辛い思いをさせてしまった。君を泣かせないと心に決めたはずなのに……ごめんよ。
静まり返った昇降口で、下駄箱から靴を取り出す。靴を履き替えていると、矢澤が話し掛けてきた。
「片桐さん。だいぶ時間が経ってますから、あいつらきっと不安になってますよ」
七瀬と大谷の事か……矢澤の言うとおりだ。まさか二人は何も食べずに待っているのだろうか? 少しでも早く合流してやりたいが……。
靴を履き終え、矢澤と合流する。今まで俺は間違っていたんだな……。弁当を断った時の七瀬の悲しむ顔が鮮明に浮かぶ。俺の勝手な都合で悲しませてしまったんだ。七瀬、すまない。
矢澤、気付かせてくれてありがとう。お前にはいつも世話になってばかりだ。矢澤は昇降口の扉を開け、外に出た。俺も後に続く。
正門へ向けて構内を歩くと、俺達の横を冷たい風がびゅうっと吹き抜けた。隣を歩く矢澤が「うう、寒っ!」と言って、首を竦めている。最近は朝夕が随分と寒くなった。もうすっかり冬の風だな。
「矢澤、色々と迷惑を掛けてすまん」
本当にすまん! 小久保さんの時も、今回も、そして四年前も矢澤には迷惑を掛けっ放しだ。俺の都合を七瀬に押し付けるのは間違っていた。こんな俺を見捨てないでくれて……本当にありがとう。
「片桐さん、相談って何ですか? ある程度予想はしていますけど……」
歩きながら俺の方に矢澤が顔を向けた。
「ああ、もちろん七瀬の事なんだが、やっぱり俺は七瀬に近付き過ぎたと思うんだ。近くにいればいる程あの子を傷付けてしまう。俺はもう、どう接していいか分からなくなっちまったんだよ」
「片桐さん。七瀬の事はどう思っているんですか?」
「んっ!?」
可愛い部下だと思っているに決まっているじゃないか。それ以上に思う気持ちはあるけれど、この気持ちは矢澤には言えない。
「いい子だとは思うよ。だけど、あの子の笑顔が、ときどき弥生と被るんだ。俺はそれが辛い。正直に言うとな……弥生を想って生きていくと決めたはずなのに、最近とても揺れているんだ」
「そうですか……」
矢澤が歩きながら首を傾げる。俺と七瀬の関係を矢澤はどう思っているんだろう?
「すまん、俺は七瀬とどう接していいのかわからないんだ。確かにあの子は何も悪くない。だけど、あの子の笑顔を見る度に俺は辛いんだ。だから俺は七瀬を遠ざけようとした。その結果七瀬を傷付けるなんて分かり切った事だったのに、それでも俺は……」
「やっぱり弥生さんの事ですか……」
思い切って打ち明けると、矢澤は真剣な目で俺を見つめていた。
正門を通り道路へ出ると、仕事帰りのサラリーマンやOLが、駅へ向けて歩いている。皆コートを着ていて、中にはマフラーを巻いている者までいる。それぞれ家路に就いているのだろう。
大通りに面した歩道を駅方面へ向けて歩き出す。矢澤は俺の方を向きながら隣を歩いている。俺の言葉を待っている様だ。
「どうしても弥生の事を考えると辛くてな……」
「片桐さん。やっぱり、弥生さんの命日に何かあったんですね?」
そうだ。墓参りの時にお義父さんから言われた言葉。あの言葉が俺を大きく縛り付けているのは事実だ。だけど、割り切れないものは割り切れないんだ。俺はあの言葉に強く反発し、矛先を七瀬に向けてしまった。それは間違いだったと今はわかっている。七瀬に酷い事をしてしまった事も……
「……」
思わず言葉に詰まってしまった。そのまま歩道を歩くと、矢澤はため息一つ吐いた後、話し始めた。
「そうですね……。私の予想が正しければ、ご両親から再婚を勧められたりしたんでしょ?」
当たらずも遠からずだな。ここは正直に答えよう。
「実は……弥生の父親から言われたんだ」
交差点に差し掛かり立ち止まる。信号は赤だ。横断歩道に向かって十人程の人影が、信号が変わるのを待っている。俺達は列の後ろに立ち止まり、信号が変わるのを待つ。
「そうですか……。弥生さんの親父さんに言われたんですか。片桐さん、本当に再婚は考えられませんか?」
俺の答えに、矢澤は全く驚いた素振りがなかった。やはりそう考えるのが当然なんだろうか……。だけど、だけどなぁ矢澤! お前まで再婚を勧めようとするのか!
「お前まで弥生の事は忘れろって言うのかよ!!」
信号待ちの人々が一斉に俺達に振り返った。近くにいた人は一歩また一歩と俺から離れて行く。周りを見回すと、揉め事か? という感じで皆迷惑そうな顔をしている。
すると矢澤がペコペコと頭を下げた。間もなくして歩行者信号が青に変わり、信号機からメロディが流れてくる。その音に釣られて俺達を注目していた人達は、横断歩道を渡りはじめた。
周りに人がいなくなったのを見計らって、矢澤が俺の方へ向き直った。
「すいません。少し言い過ぎました。配慮が足りませんでした。さあ、行きましょ!」
「いや、すまん。俺も余裕無くてな。つい熱くなってしまった。悪かったよ」
矢澤と二人、横断歩道を渡る。もうここは工業地帯を抜けて、住宅街に入っている。
「片桐さんは、どうしたいんですか? 私が見た限りでは、七瀬は少なからず好意を抱いている様に思えるんですが」
「七瀬が俺に懐けば懐く程、辛いんだよ。七瀬は俺を上司として慕ってくれているのに……。俺だって七瀬の事を俺なりに可愛いと思っているんだけど……上手く接する事が出来ないんだ。今回の件は俺のミスだった。すまない」
「では、七瀬は何も悪くないですよね? このままじゃ、あまりにも七瀬が不憫です。片桐さんもわかっているなら、七瀬に優しくしてやりましょうよ」
無言のまま歩道を歩き続ける。矢澤は俺の反応を伺っている様だ。さっきは大声をあげてしまったからな……。つくづく自分の未熟さが嫌になる。
駅に最も近いスクランブル交差点に差し掛かる。ここを過ぎて裏路地に入れば、茜亭はもうすぐだ。横断歩道を渡っている最中に矢澤が話し始めた。
「今の七瀬は、小久保に嫌がらせを受けていた時よりも辛そうです。小久保の時は片桐さんが守ってくれてましたけど、今はその片桐さんに辛く当られているんです。わかりますよね? 七瀬がどれだけ傷ついたか。お願いですから、茜亭に着いたら七瀬には優しくしてやって下さいね」
「ああ」
矢澤は俺の前に立つと真剣な目で俺を見ている。俺も矢澤と目を合わせた。
「片桐さん。ああ、じゃなくて本当に七瀬に優しくして下さいよ」
「今回は俺のミスだ。矢澤の言うとおり七瀬に優しくするよ」
「それなら安心です。私の気も晴れました」
微笑む矢澤の言葉に俺が頷き、再び横に並んで歩き出す。
遠くに茜亭の赤い看板が見えて来た。