第二十四話 距離感
朝礼後のグループミーティングも滞りなく終わり、俺のグループメンバーの中村、原田、仲宗根が工場へ向けて事務所を離れて行く。七瀬は……まだ俺の隣のデスクに座ったままだ。
どうした? なぜすぐに動かない?
横目で様子を伺っていると、七瀬がこちらを向いた。
「主任、あの……この製品についてなんですけど」
七瀬は、不安そうな顔で質問して来た。だが、今日の担当製品は比較的簡単なものばかりだぞ。ここはキッパリと言わねばならない。
「七瀬、いつまでも俺に頼るな! その製品は自分で判断出来るだろ? 出来る事は自分でやらないと、いつまでも一人前になれないぞ!」
七瀬は唖然としている。
「はい……すみません。失礼しました」
一瞬の後、小さな声で返事が聞こえた。こんな言い方は初めての事だからな。可哀そうだとは思うんだが……。
七瀬は俺を見つめたままだ。そんな悲しそうな顔をしないでくれ。そんなに俺の心に近寄らないでくれ。でないと、俺の心が崩れてしまうから。
これはお互いの為なんだ。今までは小久保さんの事もあって心配していたが、そろそろ一人で動けるようになってもらわないと俺も困るんだよ。
七瀬は俯いたまま事務所から出て行った。その背中は小さく縮こまり、しょんぼりしているのが見て取れる。やっぱり急に態度を変えると傷付けてしまうか。でも、七瀬とは近付き過ぎた。これからは距離を取らないとな……。
さじ加減は難しいが、こんな風に少しずつ距離を取っていこう。
七瀬の小さくなった背中を、デスクに座ったまま見送った。
* * *
七瀬と距離を取るようにしてから二ヶ月程経った時だった。
グループミーティングが終わってから、まだデスクに座ったままの俺に、中村が歩み寄ってくる。
「主任! ちょっといいですか?」
中村は、グループでは俺に次いで古株で、周囲から次期主任候補と目されている。俺もその評価に異論はない。これまでもミスは少なく、堅実に業務をこなす優秀な男だが、無口なのが玉にきずだ。それさえ克服すれば、もしかしたら俺以上の良いリーダーになるだろう。
その中村がムッとしている。さっきの声もやや怒りを孕んだ言い方だった。身長百八十五センチと、矢澤よりさらに大きい中村は、立っているだけで威圧感がある。実は子煩悩でマイホームパパだって事を知らなければ、睨まれたら大抵の人間は震えあがってしまうだろう。
「何だ。俺に何か話か?」
「片桐さん。差し出がましい様ですが、最近七瀬に厳し過ぎませんか?」
中村は俺を睨んだまま、不愉快そうに聞いてくる。
だが、これは決めた事だ。はい、そうですかと簡単に決意を覆す訳にはいかない。
「そんなことはないぞ。今までが甘やかし過ぎたんだ」
俺の返事を聞いた中村は、一段と顔を顰めた。
「そうは見えませんが。ここしばらくの七瀬の表情を見ていますか? 原田も心配していますし、仲宗根は七瀬が可哀そうだと言っています。何とかなりませんか?」
真面目な仲宗根はともかく、あのチャラい原田にまで心配されるとは、露骨すぎたか。メンバー全員に心配されているとは、俺もまだまだだな。
でもな……何とかしろって言われても、俺と七瀬が親しくなったところで何も先にはないんだ。あまり近付かない方がお互いの為なんだ。勝手な事を言わないでくれ!
「すまんが、考えを変える気はない。俺も辛いんだ。察してくれ」
「片桐さん。やっぱり奥様の事を……」
俺は、ついつい顔を俯き加減になりそうになる。
さっきまでとは打って変わって、中村は心配そうな顔をしている。
だが、それは言うな! それだけは言わないでくれ! 睨み返すと、中村も察したのかすいませんと言い会釈をして、俺から離れていった。そういえば、中村も俺の過去を知っているんだったな……。
みんなに迷惑を掛けているようだな。すまない、でもこれは決めた事なんだ。
中村は何も言わずに背を向けて去って行った。
俺は、これ以上七瀬とは親しくしない。親しくなってはならないんだ……すまない。
その日の昼休みの事だった。
「主任、あの……これどうぞ」
俺が一人デスクに向かっていると、見慣れたハンカチで包まれた箱が差し出された。暫く無かったが、また俺に弁当を作って来てくれたのか……ありがとう。でも、これを受け取る訳にはいかない。
「七瀬、弁当はもういいんだ。今までありがとう」
七瀬は驚きの表情だ。何でそんな事言うんですかと顔に書いてある。
「……そうですか」
酷く落胆した声だった。すまん、七瀬。君は何も悪くない。悪いのは俺だ。勝手な都合で君を振り回しているのは、俺の方なんだ。そんなに俺に優しくしないでくれ。そんな優しい目で俺を見つめないでくれ……。
でも、これでいいんだ。きっとそうだ。今は辛くても、きっとその方がお互いにとっていいはずだ。
七瀬は泣きだしそうな顔をして、俺に渡す筈だった弁当を掴んだまま呆然と立ち尽くしている。ごめんな。でも、わかってくれ!
七瀬が顔を伏せて小走りに去って行った。
ごめんよ、七瀬……。
もうじき十七時か。やる事は殆ど片付けたし、今日は早く帰れそうだな……。
そんなふうに考えて立ち上がり、デスクの上に散らばった書類を片付けていると、事務所に戻って来た七瀬が、俺のデスクに駆け寄って来た。
「あの……主任、矢澤主任が今日、茜亭に行きませんかって誘って下さっているんですが、主任もご一緒してくださいませんか?」
七瀬は、控えめだが期待を込めた目で見つめてくる。本当は優しくしてやりたい! だけど、この子の為にも行く訳にはいかない。
「すまんが今日は、もう少しやる事があるんだ。君達だけで行ってくるといい。楽しんでおいで」
「そうですか……。失礼しました」
七瀬の顔が一気に曇る。
そんな悲しそうな顔をしないでくれよ。まるで棄てられた子犬の様な顔じゃないか。でも、これで良いんだ。君は、君の人生を大切にすべきだ。俺なんかに構っていちゃいけない。
七瀬は、青褪めた顔で会釈すると、俺の前から立ち去った。
矢澤に誘われたって事は、多分、大谷もセットだな。もうだいぶ寒くなってきたし、帰りは心配だが、矢澤も分別のある男だから大丈夫だろう。
堪えてくれ、七瀬。でも、やっぱり今は辛いよな? 優しくしたいんだけど今は出来ないんだ。すまない。
少し時間差で帰ればいいか……。再び席に座り直し、さっき片付けたばかりの書類を取り出す。もうちょっとだけ書類を確認しておこう。俺は頭の中のもやもやを振り払うように、一心不乱に書類に向かった。
書類の確認を終えて時計を見たら、あれから三十分以上過ぎている。さてと、やる事はやったし、そろそろ帰るとするか……。
事務所を出て階段に差し掛かった時、後ろから声を掛けられた。振り返ると、矢澤が俺を見据えていた。
「片桐さん!」
矢澤が俺の前に立ち塞がった。不動明王の様に腕を組み顔を紅潮させて、ひと目で怒っているとわかる。だけどお前、茜亭に行ったんじゃなかったのか?
「何だ、まだ会社にいたのか。アカネさんの所に行くって聞いたけどな……。あの二人はどうした?」
「先に行ってますよ。片桐さん、どうして七瀬に辛く当たるんですか? どうして急に態度を変えたんですか?」
矢澤は拳を握って俺に詰め寄ってくる。珍しく本当に怒っているな。こいつはボクシング経験者だから、殴られたら俺などひとたまりもない。
だけど、退く訳にはいかない。
俺はそのまま矢澤の瞳を見つめた。
「別に普通だよ。七瀬だけ特別扱いはしない。最初は小久保さんの件があったから、守っていただけだ」
「それにしても、最近冷た過ぎませんか? 中村まで私のところに相談に来ましたよ。ぎくしゃくしてしまって仕事がやりにくいって」
そうか……。中村の奴、矢澤の所に相談に行ったのか。俺もすっかり悪者だな。でも、この考えを変えるつもりはない。こうするのが最善だと思うから……。
「だから、これが普通だと言っている。これで良いんだよ」
「それじゃあ、なんでそんな辛そうな顔をしているんですか? 良いじゃないですか、七瀬と仲良くしたら。あの子が何をしたって言うんですか? あんたおかしいですよ。あんないい子に、どうしてこんなひどい仕打ちが出来るんですか? 今の片桐さんは普通じゃない!」
俺が辛い顔をしている? 俺が普通じゃないか……。そんな事は最初からわかっているさ。わかった上で自分の為、七瀬の為にやっている事だ。矢澤だけはわかってくれていると思っていたんだけどな……。それなら仕方がない。ハッキリ言っておくか。
「あんないい子だからだよ! 七瀬がいい子だから俺の心が揺れてしまうんだ! 辛いんだ、解ってくれよ!」
矢澤の目から怒りが消えた。握った拳は解け、腕が力なくだらりと下がった。
「片桐さん、やっぱり弥生さんの事を……」
「悪いか? 弥生を想い続けるのはそんなに悪い事なのか? なあ、教えてくれよ。俺はどうすりゃいいんだ? 教えてくれよ、矢澤!」
「弥生さんの事は、私は何も言えません。だけど、このままですと七瀬がダメになってしまいますよ。もう少し七瀬に優しくしてやれませんか?」
矢澤の目は真剣だ。
七瀬がダメになる? 俺が態度を変えたから……俺に冷たくされたからなのか? そう言えば、長い事七瀬の笑顔を見ていない様な気がする。俺はやりすぎてしまったのかもしれない。
やっぱり俺のせいなんだな……。
「片桐さん。七瀬と大谷が待っています。行きませんか? 茜亭に!」
「……わかった。行く事にするよ。道すがら相談に乗って欲しい。その前に顔を洗ってくる。少し頭を冷やしてくるよ」
「そうですか。待っていますよ」
矢澤の返事に頷くと、俺は洗面所に向かった。
冷たい水で顔を洗い、頭を冷やす為に。