第二十三話 意固地
山間の高台にある霊園。
空気も澄んでいて、とても静かなところだ。遠くから鳥の鳴き声が響いてくる。
振り返った俺の前に立っていたのは、弥生の父である大島善三さんだった。
「お義父さん……ご無沙汰しております。こんな山の方までありがとうございます」
お義父さん、随分老け込んでしまったな。四年前は黒々としていた髪も、年を追う毎に白いものが増え、今では完全に真っ白になってしまった。確か、まだ還暦前の筈なのに……。
「娘の命日だからね……。家内も来たいと言っていたんだが、今、体調を崩していてね」
そう言うと、お義父さんは俺の隣にしゃがみ込んで、墓に向かい手を合わせた。
彼の脳裏には何が浮かんでいるんだろう? 心なしか少し小さくなった背中を見つめながら考える。弥生の小さい頃の思い出。学生の頃の思い出。俺と結婚してからの思い出なのか。それとも、あの事故の日の事を――。
いつの事だったか……母さんから聞いた。
『最大の親不幸は、親より先に死ぬ事だ』と。
全くその通りだ。一人娘を突然亡くしてしまったのだ。むしろ共に生活した時間の長い分、お義父さんやお義母さんの悲しみは、想像を絶するものだろう。それなのに俺は自分の事ばかり考え、周りに目を向けていなかった。
悲しいのは俺だけじゃない。
今になって、そんな簡単な事に気付くとは……。
「お義父さん、色々ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。私はもう大丈夫です」
立ち上がったお義父さんに話し掛ける。
「そうか……。優太君が元気にやっているのなら、弥生もきっと喜んでいるだろうね」
こちらを向いたお義父さんは遠い目をしている。彼の目には今、何が映っているんだろう? 俺の隣に弥生の姿を見ているのだろうか……。瞬きしたお義父さんと目が合う。
「優太君。この後時間あるかい? 少し話しないか?」
お義父さんに誘われるまま、霊園の近くにある小さな喫茶店に入る。ほんの数分歩いた所に、喫茶店があるとは知らなかった。これまで霊園から出ず、まっすぐ帰っていたから気付くはずもないか。
「いらっしゃいませ」
小綺麗な店内には、一人も客がおらず、店員さんは気の抜けた表情で俺達を迎え入れる。
店員さんにコーヒー二つと告げ、お義父さんは窓際の席に着くと、俺に向き直った。
「いやあ、暫くだね。仕事の方はどうだい?」
「ええ、お蔭様で何とかやっております。あの……お義父さん。今まですみませんでした! 私は自分の事ばかり――」
そうだ。俺は自分の事ばかり考えて、不幸を呪っていたんだ。悲しいのは俺だけじゃない。そんな簡単な事にも今まで気付けなくて、本当に申し訳ない思いでいっぱいだ。
頭を下げた俺に、お義父さんは穏やかに語りかける。
「優太君……ここまで弥生の事を想ってくれて本当にありがとう。弥生はね……小さい頃から引っ込み思案で、自分の言いたい事もなかなか上手く言えない子だった。大学に行かせる事になった時も、そりゃあ心配だったさ」
確かに弥生は、いつも女友達の一番後ろを付いて歩く様な子だった。遠慮がちで大人しくて、先頭切ってグイグイ引っ張る様な元気な子ではなかった。
だけど、そんな弥生を一目見た時から、俺はこの子を守りたいと思ったんだ。
「私達が手塩にかけて育てた大切な娘だ。大学で悪い男に騙されたりしないか心配だった。だけど、君という、弥生を本当に大切にしてくれる相手を見付けて来た時は、嬉しかったよ。私たちは育て方を間違えていなかった、弥生は立派に育ってくれたんだ、と思ってね」
初めて聞いた。お義父さんは、俺をそんな風に思ってくれていたのか……。お義父さんは続ける。
「優太君。仕事の方はどうかね? だいぶ忙しいんじゃないかい?」
「ええ、今年は新人教育を抱えておりまして、大変忙しくしております」
七瀬がなぁ。小久保さんの事もあって、あの時は本当に大変だった。今は順調過ぎるくらいだけど。
「そうか……。新人の面倒を見ているのか。大変だな。でも、優太君が元気になったみたいで嬉しいよ。そろそろ先の事も考えられるようになったかね?」
えっ? お義父さん、何を言っているんですか?
「先の事って何ですか?」
俺の問い掛けにお義父さんは、何を言ってるんだ、という顔をしている。
「良い人でも見付かればいいな、と家内とも話しているんだが、どうだい? 誰か良い人見付からないかね?」
お義父さん、あなたまでそんな事を……。
俺はそんな事望んでいないって言うのに。
「いえ、私はもう……」
「君はまだ若いんだから、弥生の事は忘れてもらって、幸せになっていいんだよ。本当は、弥生の骨はうちの墓に入れる事も考えたんだ。あの頃は、君もずいぶん動転していたからね……」
弥生をウチの……片桐家の墓じゃなくて、大島家の墓に入れるだって? 弥生を俺から取り上げるのか! 俺から引き離すつもりなのか……。何でそんな事を言うんですか!
あんまりじゃないですか、お義父さん。そんなの非道いですよ。俺の腕がわなわな震えている。
「お義父さんは、私を息子とは認めてくださらないのですか!」
「そうじゃない! そうじゃないんだ。君はまだ若い。きっと第二の人生だってあるだろう。その時に弥生の事が――」
「やめて下さい! 私は弥生だけを愛して生きて行くと決めたんです!」
お義父さんは目を見開き、オロオロしだした。少し強く言い過ぎたか。
「すいません、大きな声を出したりして……。でも本当に、私はもういいんです」
「優太君……。君が弥生の事を思ってくれているのは、父親として嬉しいよ。そこまで弥生を愛してくれて、本当に有り難い。だけどね、君は生きているんだ。弥生の思い出だけで生きて行くには、人生というものは長過ぎるよ」
「いいんです。本当にいいんです。すいません。今日はこれで失礼します」
俺は立ち上がり、伝票を掴み取った。お義父さんは心配そうな顔をして俺を見ている。
「優太君。私たちは、今でも君を息子の様に思っているんだ。君が幸せになってくれる事を望んでいるよ」
「失礼します」
コーヒー二杯分の会計を済ませ、店を出る。革靴がカツンカツンと地面を叩く音が響いた。
なんだって今頃になって……。俺は弥生を想い続けて生きて行くと決めたのに、どうして弥生の肉親であるお義父さんがあんな事をいうんだ!
霊園に入り、車の所へ向かう。
運転席ドアに鍵を差し込みロックを解除する。その時、胸元でネックレスがチリンと音を立てた。
シャツ越しに、ネックレスに通された二本の指輪を握りしめる。一つは十五号、もう一つは九号、俺と弥生の結婚指輪だ。形見になってしまった指輪を、俺は今も肌身離さず身に付けている。
そうだ。俺は誰も愛さない。この指輪に誓って、弥生だけを愛すと決めたじゃないか。
でもなんだろう? この不安、いや恐怖は。
俺は何を恐れているんだろう?
そうか。考えるまでもない。今でも七瀬の笑顔が俺の脳裏にチラチラと浮かんでくる。七瀬未来の、あの笑顔が忘れられない……七瀬のことが可愛い……俺は……七瀬に惹かれている。心のどこかで、俺はそのことを知ってしまっているんだ。
だが、認める訳にはいかない。決して認める訳にはいかないんだ。認めてしまったら、この四年間は、いや、弥生を愛した九年間が嘘になってしまう。
これだけは誰に何を言われようと譲れない。
俺は、一人で生きて行くんだ。
七瀬には七瀬の人生がある。俺とは違って、朗らかに育っている子だ。あの子の幸せを望むのなら、俺なんかに付き合わせる訳にはいかない。
七瀬とは少し距離を取った方がいいな……。