第二十二話 回帰
小久保さんは、あの日以来出社して来る事はなかった。あの後第三会議室で何があったのか知る由もないが、翌週になって契約解除になったと岩本課長から聞いた。
後任は、総務部からベテランの正社員が配属され、滞りなく業務は進められている。至って平穏な毎日だ。
後から聞いた話だが、小久保さんは藤崎電子工業との契約を解除されただけでなく、派遣会社からも契約を解除、要するにクビになったらしい。
派遣会社は複数存在するが、大元では繋がっている場合が多い。彼女の情報は筒抜けだ。人間関係のトラブルを起こした人物を、知った上で採用する企業はまず無い。まして最近問題視されているストーカー行為だ。最も忌避される問題児扱いになっている事は想像に難くない。
恐らく再就職も困難になった事だろう。だが、同情する気などこれっぽっちもない。彼女はそれだけの事を仕出かしたのだ。当然の報いと言ってもいいだろう。
一方で、俺に処分が下される事は無かった。最悪、謹慎や就業停止が言い渡されるかと覚悟していた。しかし、小久保さんに対する俺の対応について調査でも行われたのだろう。俺が公私混同していなかった事が証明されたのかもしれない。始末書さえ求められる事はなかった。
七瀬は、今日も元気に仕事をしている。以前よりも明るくなり、彼女本来の朗らかな表情で報告書作成を行っている。
あっ、七瀬と目が合った。あんまりジロジロ見ていたから、気付かれてしまったか……。七瀬は、手を止めてこちらを向いた。
「あの……主任。どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない。一生懸命やっているなと思ってな……。書類は出来あがりそうか? 最近はだいぶ速くなったし、俺も楽が出来そうだなぁ」
「ええ、もう少しで出来上がります。主任のお力になれれば、私、嬉しいです!」
そう言ってニッコリ微笑む。最後は少しふざけたのに真面目に答えられてしまった。
やっと七瀬が健やかに業務に励む環境が出来た。理不尽な嫌がらせにビクビクする事はもうない。これは俺一人で出来た事ではなく、矢澤と大谷をはじめ、多くの人々の助力の賜物だ。彼らの恩に報いる為にも、七瀬を一人前に育て上げなければならない。
あれから二ヶ月、平和な日々が続いている。
今年もこの日が来た。
九月十七日。
あれからもう四年になるのか……。
車に乗って目的地へ向かう。青梅市を通過し埼玉県の西部、飯能市へ。やはり日曜日は道が混んでいるな……。すれ違う車は家族連れが多い。秋の行楽シーズンだし、思い思いに家族で出掛けるのだろう。
市街地を抜けて暫く車を走らせると、徐々に坂が多くなり山が近くに見えてきた。目的地の駐車場に到着して車を停める。
しかし、今日は本当に道が混んでいたな。まあ、別にどれだけ混んでいようと構わないさ。別に逃げるものでもないし……。
今、俺は『片桐家ノ墓』と書かれた墓石の前に立っている。水を汲み、線香を手向けてから、手を合わせる。
弥生、また会いに来たよ。もう丸四年になるんだね。俺なら心配いらないよ。元気にやっているから……。
でもな……最近、時間が経つのが凄く遅い気がするんだ。君だけを想って生きて行けば、人生なんてあっという間だと思っていたのに、今は君の事を考えている時間が少なくなった気がする。
最近は、夢に出て来てくれる事もなくなったね。俺の方が慌ただしかったからなのかな? 別れがあれば、新たな出会いがある。これが生き続けるって事なのかな……。
弥生、ちょっと聞いてもらいたい事があるんだ。
今、俺は仕事で若い子の面倒を見ているんだ。まだ高校出たばかりの十八歳、いや、十九になっているのかな? 誕生日なんて知らないけど。今度聞いてみようかな。その子はね……最初はつっけんどんなところがあったけど、とても真面目な子で、俺は大切にしてやりたいと思っているんだ。
正直に言うとね。君を想っている時間より、その子の事を考えている時間の方が長くなっているんだ。ごめんよ。
正直に打ち明けるけどさ……確かに俺は、その子に惹かれてる。笑うと、どこか君に似た顔になるんだ。
だけど、俺とは十三も年が離れているんだ。あの子にはあの子の人生がある。俺がそれを閉ざしていい訳がない。
そう、本当はわかっているんだ。この気持ちは一時の気の迷いだって。
だけどね……。君が逝ってしまってから四年間、こんなにも心揺さぶられるのは初めてだ。自分でも驚いているくらいだよ。
しかし、あの子が初めて泣いた時、帰りたくないと言った。あれはなんだったんだろう? そう言えば、七瀬はお盆休みは帰省したんだろうか……。大谷と一緒に土産を渡されたから、特に深く考えなかったけど、もしかしたら帰ってないんじゃないか?
いや、こんな事、俺が考えても仕方がないな。
やっぱり考えるのはよしておこう。あの子にはあの子の人生がある。俺みたいな年の離れた男がどうこうしたって、幸せに出来る訳がないじゃないか……。
それに仮に俺があの子と結婚したところで、俺はいつもあの子を失う恐怖に怯えながら生活していくんだ。万が一弥生の時みたいな事故が起こったら、俺はもう生きていられない。もうこんな悲しみを味わうのは二度と嫌なんだ。怖くて仕方がないんだ。
ごめん。
なんか君の前で他の女性の事ばかり考えてしまって……。こんなんじゃ浮気性って怒られてしまうよね?
考え直せ! 俺と七瀬が一緒になっても、幸せになれる訳がないんだ。そんなに世間は甘くない。後ろ指さされながら生きて行くくらいなら、最初からそんなものは無くていい。いいんだ。要らないんだ。これは一時の気の迷いだ。冷静になれ!
俺は弥生だけを想って生きて行くと決めたじゃないか! 今更その決意が揺らいでどうする。七瀬だっていつまでも俺の傍にいる訳じゃない。その内に会社を辞める時が来るかもしれないし、嫁に行くかもしれない。その時まで大切にしているのが俺の役割だ。俺が手を出していい相手じゃない。
大体、七瀬だって釣り合う年頃の相手を選ぶ筈だ。だから、俺の出る幕じゃない。俺の事はおじさんとか、精々良くても歳の離れたお兄さんくらいに思っている筈だ。勘違いするな。
でも……寂しいな。寂しいよ、弥生。なんでこんなに寂しいんだろう? 去年までは何も感じなかったのに……。ただ、君がいなくなってしまった事だけ悲しくて。でもそれだけだった。それが、今はなんでこんなにも大切な何かを無くしてしまいそうな恐怖を抱いているんだろう? 俺はどうかしてしまったんだろうか?
なあ、弥生、俺はこれからどうやって生きていけばいいんだ? 教えてくれよ。君が生きていてくれたら、こんな思いをしなくて済んだのに……。
「優太君、今年も来てくれたんだね」
後ろから声を掛けられる。誰かが近付いて来ていたなんて全く気付かなかった。でも、この声は……。目を開けて振り向くと、弥生の父親である大島善三さんが立っていた。