第十六話 困惑
『ですので、今後の量産化を鑑みるにBX-50系製品は、他の一般製品とは独立した作業条件の設置を提案致します。』っと。
よし、入力完了!
あとはこれをプリントアウトして……。
プリンターから出力された提案書を取り出し、課長の下へ向かう。
「岩本課長、失礼します。提案を一件宜しいでしょうか? 先週の件で思うところがありまして……」
課長に提案書を手渡す。
BX-50系は、元々俺が担当していたものだ。自分さえ分かっていれば大丈夫という驕りがどこかに有ったんだろうな……。そのせいで七瀬を泣かせてしまった。
でも、いつまでも俺が担当していられる保証はどこにも無い。人事異動だっていずれあるだろう。それならこの機会に、誰が担当しても間違いが起きない様、独立条件にしてしまえばいいんだ。
「はいはい、先週の件。ああ、BX-50の事ですか。では中身を拝見……うん、これなら良いでしょう。提案審査の方に提出しておきますよ」
デスクに戻ると、視線を感じる。また小久保さんか? あれ、いないな……。さっきから俺の方をチラチラ見ていたのは――大谷まどかか。サッと目を逸らしても俺は気付いているぞ。それにしても朝からずっと俺の方を見てはニヤニヤしているな。一体何のつもりだ。
視線に気付いたらしく、大谷まどかがひょこひょこ歩きで俺の所にやって来た。なんかヘラヘラしているなぁ。先週、七瀬を送って行った時はあんなに真剣だったのに……。あの時の姿が、本当の大谷なんだろうが、仕事中に見た事はないな。
「片桐主任。先週はウチの未来が、大変お世話になりまして~」
大谷はニヤニヤしている。こいつ絶対ふざけているな。小久保さんに聞かれたら大変だ。早く話を切り上げよう。
「いや、上司として当然の事をしたまでだ。で、俺に何か用か?」
「今日はきっといい事ありますよ~!」
大谷はウフフと笑うと、自分のデスクに戻っていった。いい事って何だよ。矢澤、お前の部下が遊んでいるぞ。ちゃんとやる事やっているのならいいんだが……。
部下が続々と事務所に戻ってくる。もうすぐ昼休みか。中村、仲宗根、原田がそれぞれ自分のデスクに着いた。七瀬はまだ戻って来ていない。
「みんな、お疲れ様。何か問題はあるか?」
「いえ、問題ありません」
中村が答えると、仲宗根と原田も頷いた。あとは七瀬だけか。今日は特殊条件製品は割り当てていないから大丈夫だとは思うが、戻りが遅いと不安になる。
三人が事務所から出て行ったのと入れ違いで、七瀬が戻って来た。急いで戻って来たのか、少し息が上がっているようだ。相変わらず真面目だな。
「七瀬、お疲れ様。何か問題はあったか?」
「いえ、今のところは大丈夫です。あの、失礼ですが主任は今日、何をなさっているんですか? ずっとPCに向かってらっしゃったみたいですが……」
七瀬が俺のPCを覗き込みながら聞いてくる。
「ああ、これか? これは例のBX-50系の作業条件の改善要求だ。自分への戒めも込めて、条件を分ける事にする。その為の提案用紙を作成していたんだ」
先週は、七瀬を泣かせてしまった。本当は、知っていながら放置していた俺の方が責任は重いんだ。自分の配慮不足が腹立たしい。
「そうだったんですか。ありがとうございます。あ、あの主任?」
七瀬はもう落ち込む素振りを見せる事もない。先週の事は吹っ切れたみたいだな。それなら俺も安心出来る。
「どうした?」
「これ、良かったら召し上がって下さい。お口に合えば嬉しいのですが……」
七瀬はハンカチに包まれた四角い箱を差し出して来た。これって弁当か? 七瀬は上目遣いで俺を見ている。
「ああ、すまん。七瀬、これは?」
「先週のお礼です。私、主任の為に一生懸命作りました。どうぞ召し上がって下さい」
そう言うと、七瀬は恥ずかしそうに小走りで事務所を出て行く。その先には、ニヤニヤしている大谷が見える。あいつが言っていた『いい事』って、この事か……。
周りを見回すと、昼休みだけあって殆ど人が残っていない。人の少ない今なら大丈夫だ。早速いただこう。小久保さんに見付かるのだけは避けなければ。
弁当箱の蓋を開けると、俵型のおむすびに一口サイズのハンバーグ、春巻きとブロッコリーが見えて、アルミのカップの中には春雨のサラダが入っていた。これは美味そうだ。
休憩室で煙草に火を点ける。会社で昼飯を食べたのはどれくらいぶりだろう? 弁当、本当に美味かった。七瀬が俺の為に作ってくれたのか……。
「片桐さん、お疲れ様で~す」
煙草を一本吸い終えたところで、矢澤が休憩室に入って来た。この男はいつも愛妻弁当だからな。
「ああ、お疲れ。矢澤、何かいい事でもあったか? なんでそんなニヤニヤしている」
「片桐さんこそ、いい事あったそうで……」
なに? 七瀬の弁当の事、バレてるのか? この短時間にバレるって事は一人しかいないな。大谷の奴め。
「矢澤、何を知ってる。ハッキリ話せ!」
「いや~。それじゃ言いますけど、七瀬ちゃんの手作り弁当は美味しかったですか?」
完全に筒抜けじゃないか……。おのれ! 大谷を茜亭に連れていくのは無しだな。仕方ない、正直に答えるか。
「美味かったよ」
「そうですかそうですかー」
矢澤はニヤニヤしている。何がそんなに嬉しいんだ。お前には直接関係ないだろ!
「なんだよ。何が言いたい?」
「いえ、私は別に。ただ、仲良くやれている様で、ホッとしてますよ」
父親の様な顔をする矢澤。大谷だけじゃなく、お前まで七瀬の保護者気取りなのか。俺も大切にしてやりたいとは思うが……なんか胸がモヤモヤするな。何だろう、この気持ちは。
煙草の火を消す。ここにいたら根掘り葉掘り聞かれそうだ。今日は分が悪いからさっさと退散しよう。
「あれ? 片桐さん。もう行かれるんですか?」
「ああ、書類が溜まっていてな」
矢澤の「それは残念」という返事を聞き届けて、会議室を後にした。
書類なんて嘘だ。特に急ぎの書類は無い。
事務所に戻ると、小久保さんが俺のデスクの前に立っていた。まだ休憩時間だと言うのに、この人が事務所に戻って来ているとは珍しい。小久保さんは俺に気付いてもデスクの前に立っている。
「小久保さん、どうかなさいましたか?」
「あの、片桐主任。先週は失礼を致しましたわ。私、少し反省しましたの。それで……ドライブの事、考え直していただけません?」
小久保さんは頬を少し赤らめながら俺を見ている。何を言い出すかと思えばこの人は……。あれだけ強く言っても分からないのか?
「小久保さん。先週は私も感情的になってしまってすみませんでした。きつい言い方をした事は深くお詫び致します」
小久保さんの顔がパァっと明るくなる。そんな期待を込めた目で俺を見ないでくれ。
「それじゃ、片桐主任? ドライブに――」
「いえ、私があなたとドライブに行く事はありません。何度誘われてもお断りさせていただきます」
キッパリと言い切る。
「そんな……」
さっきまでの明るい顔が、一気に落胆の表情に変わる。このまま泣き出すのかと思ったら、目が鋭くなった。どうやら怒らせてしまったようだ。
「片桐主任、これだけは申し上げておきますわ。夜のドライブは楽しかったですか? 私ショックですの……。失礼致しますわ!」
言い放った小久保さんは、ツカツカ歩いて事務所から出て行った。
小久保さんは何を知っている? 先週、七瀬を送って行った事をどこかで知られたのか? だとしたら一体誰が?
これは不味い。
嫌な予感が幾つも浮かんで来た。