第十四話 揺蕩う心
「そうか……。行き先変更だ。俺について来い!」
「えっ?」
戸惑いの表情を浮かべる七瀬。だが俺には、こんな時間に電車で帰らせるつもりなど無い。
「いいからついて来い。俺が車で送って行くから。こんな夜中に女の子一人、暗い夜道を歩かせる訳にはいかないからな」
「あ、はい」
外灯が照らす道をツカツカと歩き出す。ちゃんとついて来ているかな? 時々振り返ると、七瀬は不安そうな顔をしながらも、離れず俺の後ろをついて来ていた。
スクランブル交差点から会社方向へ戻り、信号を左に曲がると、やがて細い路地の入口が見えてくる。この辺りは外灯の数も少なく、道は一層暗い。あの路地に入れば、俺の家はもうすぐだ。
自宅前に到着し、振り返って七瀬を見る。
「七瀬、ここだ。少し待っていてくれ」
七瀬が頷くのを見届け、徐にシャッターを開ける。暫く乗っていないから、すんなりかかってくれれば良いが……。恐る恐るキーを捻ると、エンジンはあっさりと唸りを上げた。よし、大丈夫だ。
弥生……この子を乗せるけど許してくれるよな?
苦労して貯金して、やっとの思いで買った車。
妻との思い出が一杯詰まった、俺にとって特別な車だ。
排気音が周囲に響き渡っている。こんな時間だから近所迷惑だ。呆気に取られている七瀬にこっちだと声を掛け、助手席に座らせる。何か言いたそうだな……。道すがら、話をすればいいか。
「すぐに出発するぞ。少し窮屈で乗り心地が悪いかもしれないが、我慢してくれ」
「はい」
クラッチを切り、シフトレバーをLowへ。サイドブレーキを解除し、優しくクラッチを繋ぐと、俺達を乗せたG○-Rがゆっくり前に進み始める。
「七瀬、松木町だったよな?」
「はい、そうです」
松木町は、この街に比べれば随分と長閑な所だ。目立つランドマークも無いベッドタウンで、駅周辺から少し離れるだけで、街灯も少なく暗い所も多いだろう。
国道に乗り、松木町へ向けて車を走らせる。こんな時間に走っているのは、トラックとタクシーばかりだ。この交通量なら、大体二十分くらいで到着出来そうだな……。
「酔ってないか? 具合悪くなったらすぐに言えよ」
「大丈夫です。私の父も、こんな羽根の付いた車に乗っていましたから……」
「そうか、それは素敵なお父さんだな」
「いえ、そんな事は……。あのっ! 私なんか乗せて良かったんですか?」
「なんでだ?」
「だって今日、小久保さんに……」
そう言うと、七瀬は下を向いてしまった。なんだ、ずっと困った顔をしていたのはその事だったのか……。小久保さんには、本当に困ったものだ。
「ああ、あの時の……聞いてたのか。あの人をこの車に乗せる気はないよ。だけど、お前をこんな時間まで付き合わせたのは俺だ。無事に送り届ける責任があるからな」
「……ありがとうございます」
少しの間を置いて、七瀬から控え目な言葉が返ってきた。なんとも歯切れの悪い返事だな。他にも何か困っている事でもあるんだろうか……。
松木町に入ると、七瀬の案内で彼女の住むアパート前まで辿り着き、車を停車させる。割とお洒落なアパートだ。白い外壁に、所々赤いラインが入っている。車から降りて、七瀬をアパートの入り口まで送ると、入り口に立った七瀬がこちらに振り返った。
「主任、今日はありがとうございました!」
「いや、いいんだ」
「また、茜亭に連れて行って下さい」
「ああ、そんな事で良ければいつでも」
「約束ですからね!」
少し茶目っ気の入った顔で、七瀬は嬉しそうに笑った。それじゃ無事に送り届けたし、帰ろうかな……。
「未来!!」
その時大きな声が響き、大谷まどかが飛び出して来た。そう言えば、隣の部屋に住んでいるって事を、ついさっき七瀬から聞いたばかりだったな……。大谷は七瀬に抱きついて、無事を確認している。
「もう! こんな時間まで、どこに行ってたのよ~。会社に電話しても誰も出ないし……。いつまで経っても帰って来ないから、凄く心配したのよ! あれっ、片桐主任ですか?」
大谷は、俺に気付き、驚いた顔をした。
「大谷、遅くなってしまってすまん」
深々と頭を下げる。
「片桐主任と一緒だったんですか~。だったら安心ですね」
大谷はにっこり笑った。二人は本当に仲が良いんだな……。
「すっかり遅くなってしまって、一人で帰らせるのも不安だから車で送って来たよ」
「未来~、片桐主任に何をご馳走になったの?」
「えっ」と言って動揺する七瀬に、笑顔の大谷はさらに続ける。
「だって~、未来から~とっても美味しそうな匂いがするもの。ねぇねぇ~、何を食べたの? 教えてよ~」
「ちょっとまどか、落ち着いてよ。あとで教えるから……」
大谷の勢いに、七瀬もたじたじのようだ。助けを求める様に俺を見ている。でも、その顔が何とも嬉しそうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「はははっ、二人は本当に仲が良いんだな」
「はい! 私と未来は、心友ですから」
誇らしげに大谷が宣言する。七瀬も嬉しそうだ。
「そうか、親友か」
「あっ、主任。『しんゆう』って、親しい友ではなくて、心の友って書いて『心友』です」
「心の友か……」
俺にも心の友はいるぞ。あいつのお陰で、今の俺がある。七瀬を受け持つ事になったのも、あいつの提案だったしな。
「それじゃ、俺はそろそろ帰るとするよ。また来週な」
「はい、送っていただいてありがとうございました!」
「片桐主任、今度私にもご飯驕ってください」
ちゃっかりしてるな、大谷は……。まあ、矢澤も一緒にだったら構わないか。次は四人で行ってみるのも悪くないだろう。
二人に見送られて、帰途に就く。
再び国道に乗り、来た道を戻る。さっき迄は隣に七瀬が乗っていたが、今は俺一人だ。何となく寂しさを感じてラジオをつけると、男性DJが面白おかしく喋っている。
そう言えば、誰かと食事をするなんて、どれくらいぶりだろう。あの笑顔……弥生とは似ても似つかない七瀬の笑顔が、一瞬重なった。
七瀬は入社以来、クールを貫き、決して弱みを見せず振る舞ってきた。だけど本当は、ただ虚勢を張って強がっていただけだった事を、今日俺は知った。
本当は、とても弱い十八歳の女の子。
七瀬未来。
もう二度と泣かせたくない。
俺がしっかり見守っていこう。
自宅に戻り、ベッドの上で天井を見ながら、今日の出来事を振り返る。今日は色々あったな……。
七瀬の正社員登用辞令に始まり、ミスとその後始末、そして茜亭での夕食。本当にいろいろな事があった。今日は七瀬を泣かせてしまったな……。そして、あの笑顔。弥生の微笑みと重なった、七瀬の笑顔。
弥生に感じたのと同じ気持ちが、俺の胸に拡がったのは事実だ。倒れそうだと感じたから支えたのも嘘ではないが、本当は七瀬を――とても愛おしく感じた。
俺は……七瀬に惹かれているのか?
馬鹿な!
歳の差を考えろ!
それに、俺はもう誰も愛さないと決めたんだ。
あああぁ、しっかりしろ! 片桐優太。
揺蕩う心……心が動揺する。躊躇い、物事を決めかねている様。