第十三話 和やかなひと時 後編
「そう、良かったわね……。でも、それだけ?」
そう言い放ったアカネさんは、探るような眼差しで俺と七瀬を交互に見ている。
「「えっ?」」
七瀬とハモッた。
思わず顔を見合わせる。
アカネさんの言った”それだけ”とは、何の事だろう?
「片桐ちゃ~ん。あんたは何か飲み物でも持ってきなさ~い。場所は覚えてるでしょ~?」
アカネさんは柔らかな笑顔になっているが、目が笑っていない。えっ、俺、客でしょう? 確かに、以前は矢澤と一緒に厨房に入り込んでは、マスターにどやされた事も一度や二度ではないけど……。
「何で俺が……」
「いいから!」
そう言い切ったアカネさんは、真っ直ぐ俺を睨んでいる。さっきまでの間延びした喋りは鳴りを潜め、笑顔は完全に無くなった。こうなるとこの人は絶対に引かないからな……。
「ハイハイ、分かりましたよ」
あっさり白旗を挙げる羽目になった。
「分かったら、さっさと行った行った!」
揚げ句にはシッシッと追い払われ、厨房に向かう俺だった。
厨房に入り、以前と変わらない場所にある冷蔵庫の扉を開け、ジンジャーエールを取り出す。七瀬は……無難にオレンジジュースでいいか。
目的の物を取り出し振り返ると、目の前にマスターが立っていた。白髪混じりの短髪で、小柄ながらこの店の厨房をほぼ一人で切り盛りしてきたマスター。その腕は俺の二倍くらいあるんじゃないかと思うほど太く、筋が浮き出ており、その屈強さを物語っている。
「あっ、マスター、お邪魔してます。大変ご無沙汰してしまって……」
「おう、元気か?」
マスターは表情一つ変えずにボソッと言った。
そうだ。
懐かしいな……。
この人はこう言う喋り方をする人だった。
「はい、何とかやっております」
「そうか」
それだけ言うと、マスターは俺に背を向け、料理に取り掛かった。
相変わらず寡黙な人だ。
俺が知る限り、この人の笑顔は見た事が無い。前に矢澤から、マスターとアカネさんはだいぶ歳が離れていると聞いた事がある。物静かなマスターと、やたらよく喋るアカネさん。二人が夫婦なんだから、世の中不思議なものだ。
席に戻ると二人はすっかり打ち解けていて、アカネさんは勿論、七瀬も笑顔が溢れている。
「お客さま、ドリンクのサービスでございます」
皮肉たっぷりに言ってやる。客に飲み物を取りに行かせたんだから、これ位のおふざけは許容してもらわないとな。
「おお、戻ったか。王子よ!」
王子って何だよ、アカネさん。まあ、良いか。触れない方が良さそうだし……。
「七瀬、オレンジジュースで良かったか?」
「はい、大丈夫です」
返事をする七瀬も笑顔だ。俺がいない間にどんな会話があったのか分からないが、和らいだ雰囲気の中、頬を火照らせてケラケラと笑っている。
「それじゃ~、邪魔者は消えるとしますか~」
そう言うとアカネさんは個室を離れ、テーブルの布巾掛けを始める。いつの間にか客は俺達だけになっていた。時計を見ると既に二十三時近い。
そろそろお暇しようかと思ったところで、目の前に黒い大皿がドンッと置かれる。あさり、イカ、ムール貝など様々な魚介が散りばめられたパエリアだった。
横を向くと、そこにはマスターが立っていた。
「あの……マスター?」
「食え」
マスターは、一言だけ残して厨房へ戻って行った。
「アカネさん?」
「あれで歓迎してるのよ。いいから遠慮しないで食べちゃいなさい! ほら、七瀬さんも」
テーブルを拭きながら、マスターが持ってきたパエリアを勧めてくれるアカネさん。
「マスター、相変わらずですね。遠慮なくいただきます。さあ七瀬、いただこう」
「はい」
「もうお腹いっぱいです~。でも美味しかったです」
腹に手を当てながら、七瀬が言う。
大皿のパエリアをなんとか二人で平らげた。
「そうだな。それじゃそろそろ帰るとしようか」
七瀬は頷いた。
満腹で喋るだけでも腹がきついのだろう。
「アカネさん、ご馳走様でした。会計をお願いします」
「今日のお代はいいわ」
アカネさんは掌をこちらに向けて、"お代は結構"というジェスチャーをした。
「いや、そんな、悪いですって」
あれだけ食べて飲んで、代金を払わない訳にはいかない。
「いいのよ。その代わり、また七瀬ちゃんを連れて食べに来る事。約束してね~。はい、お帰りはあちら!」
アカネさんがビシッと入口を指差す。
「なんかすいません。今日はお言葉に甘えさせていただきます。また近々寄らせてもらいますので……」
「アカネさん。ご馳走様でした」
七瀬がペコリとお辞儀した。
「七瀬ちゃん、また来てね~。頑張るのよ~」
アカネさんがガッツポーズで七瀬を励ます。
まあ、七瀬も親元離れてこんな遠くまで来ているんだ。応援してくれる人が近くに出来た事は、きっと嬉しいに違いない。
「はい、頑張ります!」
何故か七瀬までガッツポーズで、アカネさんに応えている。
数時間前は沈み込んでいた気持ちも、かなり上がってきたみたいだな。改めて、七瀬を食事に誘って良かった。
茜亭を後にし、七瀬を駅まで送る。
それは良いとして、電車を降りた先で、こんな深夜に若い娘一人歩かせて良いものだろうか?そもそも、こんな時間になったのは、俺が勢いで食事に誘ってしまったせいだ。勿論、誘った事自体に後悔はないが、こんな時間に夜道で何かあったら……。
「七瀬、駅から自宅までどれくらい掛かるんだ?」
「歩いて十五分くらいです」
返事を聞いて、俺は迷わず決断した。
「そうか……。行き先変更だ。俺について来い!」