第十一話 成長と失敗 後編
「何があった?」
「先程、製品の確認に行ってきたのですが、全然規格に入らないんです。私、なにか間違えたんでしょうか? もう、どうして良いかわからなくて……」
七瀬は、オロオロしている。
こんな姿を見るのは初めての事だ。
「製品の仕様書と条件表は?」
「こちらです」
震える腕で書類が差し出された。
まずは、仕様書をざっと見渡す。
見た限り、特に異常は見当たらない。
何かおかしい点でも有るのか?
この製品の系列は……これは!?
「これは……BX-50系製品じゃないか! 七瀬、製品は今どうなってる?」
「製造部の職長さんに頼んで、止めてもらっています」
今にも泣き出しそうな、弱々しい声で答える七瀬。
だが、今大事なのは、製品の状態だ。
「どの段階まで処理は進んでいるんだ?」
「ここです!」
俺が持った仕様書の一部分を指差し、七瀬は答えた。
「そうか……。俺も迂闊だった。BX-50系は処理時間が違うんだ。通常製品よりも長い時間処理しないと、規格には入って来ない。まずは現物確認だ。工場へ急ぐぞ!」
事務棟を出て、工場棟に向かう。
不意に後ろを歩いていた筈の七瀬の足音が消えたので振り向くと、植え込みの横に七瀬は立ち止まっていた。
「七瀬、どうした?」
「あの……主任。私……クビになっちゃうんでしょうか?」
七瀬が俯きながらぼそりと喋り始める。
「は?」
「あの製品って凄く高いんですよね? 私の給料じゃ払えない位高いって、以前言ってましたよね?」
「お前、何を言ってるんだ?」
「だって……午前中に製造課の作業員の方から、作業条件について問い合わせがあったんです。それなのに私、安易に『その条件で大丈夫です』って答えてしまって……。よく確認すれば気付けた筈なのに、完全に私のミスです。私のせいで製品が……」
「おい、七瀬、落ち着け! 製品は――」
「いや……帰りたく……ない」
初夏だと言うのに、七瀬はまるで寒気がするかの様に縮こまり、震え出した。
帰りたくないって、どういう事だ?
「おい、七瀬!」
「あ……いや……わ、わたし……」
目が潤んだ次の瞬間、涙が一粒頬を伝う。それが合図であったかの様に、止めどなく涙が溢れ出てくる。
七瀬は、ギュッと握った拳を口に当てて、声も上げずに泣き出してしまった。
なんでこんな事で……
ここまで取り乱す姿を初めて見た。
「七瀬……しっかりしろ!」
「いやだ……クビなんて嫌! ……ここにいたい! ……主任の傍に……いたい……」
「七瀬、大丈夫だ。不良にはならない」
「……主任。だって私……ううう、ううあぁぁぁーっ!」
嗚咽を漏らし、さらに激しく泣き出した。
なんで、そんな……泣く事ないだろ。
本当はこんなにも脆い子だったのか……。
普段の態度から、泣くような子じゃないと思い込んでいた。
だけど今俺の目の前で、崩れて無くなってしまうのではないかと思うくらい、泣きじゃくっている。
考えてみれば、まだ高校出たばかりの十八歳の女の子だ。それが親元から遠く離れて、今までずっと気を張っていたんだな。
「うえっ、うぇっ、ううぅぅ。ハァハァ、ハァハァ、ハァハァ……」
七瀬の顔色は真っ青だ。
呼吸は荒く、視点は定まっていない。
これは、過呼吸の症状じゃなのか?
いかん! この子は倒れる――
「七瀬!」
思わず七瀬を抱きしめた。
「大丈夫だ。俺が必ず守るから……泣かせたりなんかしないから」
言い終えると、七瀬の強張りが解けていくのが伝わってくる。
「……はい」
とても小さな返事が聞こえると同時に、七瀬の腕が俺の背中に回ってきた。
そのまま、何分くらい動かなかっただろか……。
「あの……主任」
やっと、七瀬は落ち着いてくれたようだ。
本当は腕を掴んで支える筈が、勢い余って抱き締めてしまった。
つい、勢いでやってしまったが、冷静になって考えてみると、俺は今とんでもない事をしている。
会社構内で勤務中に泣いた女の子を抱きしめるなんて……
これはマズい。
慌てて肩を掴んで引き離すと、七瀬は驚いた顔をしていた。
「すまん、七瀬。お前が今にも倒れてしまうと思ったら、どうしていいか分からなくて……。ごめん。俺をセクハラで訴えるか?」
「ふふっ、私、そんな事しませんよ。主任の胸、とっても暖かくって……嬉しかったです」
「もう泣かないでくれよ。せっかく綺麗な顔をしているんだから」
「しゅ、主任、何を言ってるんですか!」
七瀬の顔が急に赤くなった。良かった……。さっきは本当に倒れてしまうかと思ったが、だいぶ血色が良くなって来た。
「だいぶ落ち着いたか? あの製品はな……過去に俺が同じミスをしているんだ。だから、その時に救済したノウハウがある。大丈夫だ。俺を信じろ。不良になんてしない。必ずリカバリーしてやる」
「えっ……本当にあの製品、救えるんですか? それじゃ私、クビにならなくて済むんですか?」
七瀬は、今日一番の驚きなのだろう。目がカッと見開かれている。
「だから大丈夫だと言ってる。大体、これくらいの事でクビになるなら、とっくに俺がなってる筈だろ? 大丈夫だから俺を信じろ! とっとと後始末を済ませるぞ!」
「はい!!」
七瀬はニッコリ微笑んだ。
あっ……
まだあどけないこの少女の微笑みが、妻と重なった。妻とは似ても似つかないはずの七瀬の笑顔に、一瞬心を奪われた。胸が……俺の心臓が激しく鼓動している。
一体どうしてしまったんだ、俺は……。
「主任、どうかしました?」
「あっ、いや……なんでもない。急ぐぞ!」
動揺に気付かれまいと、俺は工場棟へ向けて歩き出した。
全ての始末を終え、七瀬と二人で正門から出ると、時刻は既に二十一時を回っていた。外灯がポツリぽつりと照らす道を、駅方面に向けて二人で歩く。
今日はいろいろあったな……。
七瀬の正社員登用の事、小久保さんの事、そして……ミスの事。
本来であれば、今日は七瀬にとって喜ばしい一日になるべきだった。だというのに、こんな事になってしまい、揚げ句には残業までさせてしまった。
今からでも、何かしてやれる事はないだろうか……。
そうだ!
「七瀬。この後予定あるか?」
「いえ、特に。真っ直ぐ帰るだけですけど……」
「今日は俺のミスでこんなに遅くなってしまった。お詫びに食事でもどうだ?」
「え?」
七瀬は目を見開いたまま……固まっている。
「俺みたいなおじさんとじゃ、嫌か?」
「い、嫌じゃないです。嫌だなんて思う訳ありません。私、いま片桐主任から食事に誘われたんですよね? 行きます! 連れてって下さい!!」
七瀬にしては珍しく、目を輝かせている。
やっぱり、この年頃の女の子なんだな……。
「そうか……。しばらく行ってないんだが、顔見知りの店がある。帰り道からは少し逸れるがそこに行ってみようか」
「はい。でも片桐主任……」
「なんだ?」
「今日の事は、片桐主任のミスじゃなくて、私のミスです。課長の前では庇ってくれましたけど……やっぱり私の責任だと思います」
七瀬は真剣なまなざしで、真正面からきっぱりと言った。
指導担当なのだから当たり前じゃないか。本当に真面目なのは良いが、あまり思い詰めないで欲しいものだ。それでも、七瀬はそう考えてしまう子なんだな……。
「それじゃあ、俺達二人のミスって事にしよう。それでいいよな? だけど、同じミスは二度としないぞ!」
「はい、わかりました。以後気を付けます。あの……私、片桐さんの下で勉強出来て、とても嬉しいです。これからも厳しくご指導をお願いします!」
そう言うと、七瀬は深く頭を下げた。
「俺も、相手が七瀬で良かったと思ってるよ。もう腹がペコペコだ。さあ、急ぐぞ!」
「はい!!」