第十話 成長と失敗 前編
「片桐主任、お待たせしました」
「おめでとう、七瀬。改めてこれからもよろしくな!」
「はい、こちらこそ宜しくお願いします」
朝礼後、課長に呼ばれていた七瀬が戻り、深くお辞儀をした後、隣の席に着く。
試用期間満了の通知と共に、正社員登用の辞令を受けて来たところだ。
七瀬の指導を担当して、早三ヶ月。
最初はどうなる事かと思ったが、今はとても礼儀正しい子だと分かっている。無口で仏頂面なのは玉に傷だが、常に真面目で、貪欲に知識を吸収しようと言う姿勢は、俺としても心強い。もう少し笑顔が増えれば、可愛げがあるのに……勿体ないなあ。
七瀬を横目に見ながらそんな風に考えていると、俺の視線に気づいたのか、七瀬がこちらに顔を向けた。
「あの、主任。どうかなさいましたか?」
「あっ、いや何でもない。さっきミーティングが終わって、他のメンバーは既に個別に動いている。七瀬は、この製品の進捗確認と検査をして来てくれ。時間が余ったら報告書の作成も頼む」
七瀬に、今日の担当分が記載されたメモを手渡す。
「お任せください」
七瀬はメモを受け取ると、いつも通りの返事を残して工場に向かって行った。
さて、俺は俺で溜まりに溜まった書類を、ここらで片付けるとするか……。
PCに向かいながら考える。
あれから、七瀬の個人的な相談は無い。小久保さんはと言うと、俺でも分かる程あからさまに七瀬を敵視するようになって来た。
今も七瀬と打ち合わせをしていただけで、露骨に不機嫌そうな顔をしている。やれやれ、小久保さんには困ったものだ。自然と溜め息がこぼれる。
矢澤もそれとなくフォローしてくれているし、大谷も七瀬から相談くらいは受けているのかもしれない。時折、小久保さんから庇う行動を見せる事がある。
それに引きかえ、俺はどうなんだ……。
直接相談を受けておきながら、何も出来ていない。七瀬に何もしてやれていない。本当は、俺こそがこの問題を解決すべき立場だって事は、嫌と言う程分かっているのに……。
これでは、ただ傍観しているのと変わらないじゃないか!
七瀬は本当に頑張っている。もう少し時間を掛けて教育してやれば、一人立ち出来る段階までそう遠くないだろう。
「か・た・ぎ・りさん!」
「ん?」
モニターから視線を外すと、小久保さんが嬉しそうな顔をして歩み寄って来るところだった。
「ああ、小久保さん。どうかなさいましたか?」
「いえね……。私、ちょっと小耳に挟んだのですが、片桐主任って凄いスポーツカーに乗ってらっしゃるって本当ですこと?」
「はあ、スポーツカーと言えばそうですが……」
何が言いたいんだ? この人は……。それに俺のクルマは、厳密に言うとスポーツカーではなくGTだ。
「まあ、素敵! 実は私、ドライブが大好きですのよ。よろしければ週末にでも――」
「小久保さん、今は仕事中ですよね? あなたには、あなたの業務があるはずです。それをしっかり遂行なさってください」
「でも私、片桐主任と――」
「私は今、仕事中ですと言っています」
もう、いい加減にして欲しい。しつこい女性は苦手だ。少しキツめ小久保さんを見つめる。
「はぁ~い」
小久保さんはそう答えると、渋々自分のデスクに戻って行った。
またお茶を濁してしまった。
本当は、俺がキッパリと断ればいいのだろう。
矢澤は、小久保さんの一連の言動を嫉妬だと言った。実際俺もそう思う。
七瀬に嫉妬したところで、何の意味もないというのに……。
だが実際問題、俺が断った場合、恐らく小久保さんは今以上に七瀬に対して辛く当たるだろう。
そうなると、これまで以上に七瀬を苦しませてしまう事になる。
そう思えば思うほど、強い行動に出る事は憚られた。
「あの……主任。 どうかなさいましたか?」
横を向くと、いつの間にか七瀬が戻って来ていた。
「なんでだ?」
「怒ってらっしゃるように見えたのですが……」
「いや、少し考え事をしていただけだ」
顔に出ていたかな? 小久保さんのしつこさには辟易している。
「でも……もうお昼休みですよ」
時計を見ると、既に十二時を回っていた。
「あ、ああ……。七瀬、何か問題はあったか?」
「いえ、大丈夫です。まどかを待たせているので失礼します」
そう言うと七瀬は、事務所の入り口で待っている大谷のところへ歩いて行った。
俺も一息入れるか……。
* * *
休憩室に入り、タバコに火を点ける。
少し遅れて矢澤も入って来た。
「片桐さん、お疲れ様です!」
「おう、お疲れ! そっちはどうだ?」
「だいぶしっかりして来ましたね。まぁ、私の指導が無ければ、ここまで大谷の能力は開花しなかったでしょう!」
矢澤が自慢げに言ってのける。
「ほう、大した自信じゃないか。でも、確かにお前じゃなかったら……例えば俺が担当していたら、どうなっていたか分からないな」
「そんな深刻にならないで下さいよ。ほんの冗談なんですから……。それより、七瀬はどうですか?」
「頑張ってるよ」
「そっちじゃなくって……あの女の件です」
「相変わらず……だな。本当は俺が何とかしなきゃいけないのは分かってるんだが、後先考えるとなかなか……。そう言えば、この件を大谷は知っているのか?」
「さぁ、どうですかね? 私は何も言ってませんけど……。でもあいつ、なかなか勘は良いですよ。多分、何か察していたとしても不思議じゃないと思います」
「それなら頼もしいんだけどな。それじゃ、また後でな」
タバコを灰皿に押し付け火を消す。
「もう行くんですか?」
「書類がだいぶ溜まっててな。課長から催促の視線が痛い」
「なるほど! お疲れ様です」
矢澤はニヤニヤ笑いながら言った。
* * *
事務所に戻り、書類作成を再開する。
順調に進むかと思えたが、十五時を過ぎたところで、また小久保さんがやって来た。
「片桐さん。ドライブの事、考えていただけましたかしら?」
「小久保さん。仕事中ですから……」
「私、片桐主任のお車でドライブに行けるなら、お弁当を作っていきますわ。それでお台場とか湘南とかご一緒したいですわ~。片桐さんとドライブ、楽しみですわ~~」
黙って聞いていれば、妻との思い出が詰まったクルマに、なんでこんな人を乗せなければならないんだ! いい加減にしてくれ!
「小久保さん! 午前中にも言いましたが、今は仕事中です。それに私がどんなクルマに乗っていようが、あなたを乗せてドライブに行く事などない! いい加減にして下さい。迷惑です!」
ついカッとなって言ってしまった。小久保さんは、信じられないと言った表情で俺を見つめている。
「主任! 片桐主任!!」
その時、慌てた声色で割り込んで来たのは、七瀬だった。
「ちょっとあなた! 今、片桐主任と話しているのは私よ。空気読めないわね……」
不愉快の化身のような顔をして、七瀬に詰め寄る小久保さん。あれだけ言っても通じないのか?
「すみません。でも、トラブルで……」
七瀬は申し訳なさそうに肩を竦めながら答えた。七瀬の目線は俺に向いている。
「七瀬、どうした?」
「ちょっ、片桐主任? まだ私のお話は終わってません事よ」
俺の言葉に振り向いた小久保さんは、信じられないと言った顔をしている。でも今は、小久保さんの相手をしている場合じゃないな。七瀬の報告を聞かないと……。
「小久保さん、今は仕事中です。無駄話は後にして下さい!」
「無駄話ってそんな……」
「七瀬、何があった?」
構わず七瀬に問い掛ける。
「すみません、主任。私……ミスをしてしまいました」
そう切り出した七瀬の顔は、青褪めていた。