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碧玉寺へようこそ!  作者: 佳景(かけい)
第四章 ストーカー
34/37

―34―

 志奈乃は八時五十分頃に寺に到着した。

 

 いつも通り車を駐めようと庫裡の裏手に回ると、樹達の車の横にあの女性の車が停まっているのが目に入って、志奈乃は思わずげんなりする。


 魔王があんまり綺麗過ぎるのはよくわかるが、流石にこれは駄目だろう。


 どう考えても好かれるどころか、嫌われる結果にしかならないのに、どうしてそれがわからないのか、不思議で仕方がなかった。


 志奈乃は女性の車から少し距離を置いて車を駐めると、事務的に女性に挨拶してからトートバッグを持って、そそくさと庫裡の玄関へと向かう。


 犍稚を木槌で叩いて少しすると、ガラスの引き戸の向こうに人影が見えて、それからすぐに戸が開いた。


「おはよう」


 戸が開くなり、樹はそう挨拶してきた。


 志奈乃は樹に挨拶を返すと、声を低めて言う。


「あの人、今日も来てるじゃない。どうすんの?」

「それをこれからみんなで話し合おうとしてんだよ。とにかく上がってくれ。もう魔王さんも来てるから」

「でも、そんな大事な話し合いに私なんかがいていいの?」

「自覚ねえみてえだけど、雅楽の家はこの寺の檀家さんなんだから、口出しする権利は十分あるだろ。寺は住職や寺族だけの物じゃねえんだからよ」


 檀家と言っても積極的に寺と関わりを持っているのは志津子だけなので、志奈乃としてはこういう時に発言権があるというのは今一つピンと来なかった。


 だがここで断るのも悪いような気がして、言われるままにスニーカーを脱いで家に上がる。


 スニーカーの向きを変えて揃えると、先に踵を返した樹の後を追って、樹が開けた襖から居間に入った。

 

 既に机を囲んでいた英知と魔王と挨拶を交わしながら、志奈乃は魔王の隣に敷かれた座布団の上に正座し、樹が英知の隣に腰を下ろしたところで、襖の向こうから真綾の声がする。


「失礼します」


 真綾は少しだけ開けた襖の下へと手を滑らせて、更に半分程開けると、手を替えてほぼ完全に襖を開けた。


 そうしてきちんとお辞儀をしてから、盆を持って中に入って来る。


 志奈乃が蓋付きの湯呑み茶碗と最中の乗った皿を並べていく真綾に礼を言うと、真綾はにこりと笑って軽く会釈をし、樹の隣の座布団に腰を下ろした。

 

 そうして準備が整ったところで、英知が口を開く。


「さて、本日お集まり頂きましたのは、この寺の敷地内でストーカー行為をしている女性への対処を話し合うためです。この場に雅楽さんしか檀家さんがいらっしゃらない以上、勿論この場で対処を決めることはできませんが、どうぞ忌憚ないご意見をお聞かせ願います」

「はいはい! 提案があります!」


 志奈乃は勢いよく手を挙げて続けた。


「要はあの人をあきらめさせればいい訳ですよね? ここは蛍原君と魔王さんに捨て身で頑張ってもらって、あの人の前でベロチューして見せるってのはどうでしょう!?」


 場の空気が一瞬で絶対零度に凍り付いた。


 志奈乃としては本気で実行してもらえるとは思っておらず、罷り間違って実行してもらえたらラッキーくらいのつもりだったのだが、どうやら英知達は思った以上にこの手の発言に免疫がないらしい。


 志奈乃は内心しまったと思ったが、一度口から出た言葉をなかったことにはできない以上、ここは「腐女子の邪な願望を満足させるためではなく、あくまでストーカー対策ですよ」という顔をして押し切るしかなかった。

 

 志奈乃は続けて言う。


「魔王さんがホモだと思えば、あの人も流石にあきらめると思うんです! 人によっては同性愛者が気持ち悪くて仕方がないみたいですし、上手くすれば魔王さんのことを大嫌いになってくれて、二度とここには寄り付かなくなりますよ!」


 しつこく付き纏ってくる女性を追い払うにはかなり効果的な方法だと思ったが、樹は気に入らなかったらしく、凄まじい剣幕でがなり立ててきた。


「おい! てめえの脳味噌腐ってんじゃねえか!? いくら効果があったって、俺達が失う物が大き過ぎるだろ! 昔から『人の口に戸は立てられない』って言うけど、今はネットもあるんだし、下手したらネット上に『碧玉寺の副住職はホモ』とかずっと書かれっ放しになるんだぞ! 大体既婚者の魔王さんにそんな浮気みてえな真似させられねえし、そもそもそれであの人があきらめる保証もねえだろーが! 却下だ! 却下!」

「ちっ、つまんないの」


 舌打ちした志奈乃が思わず本音を漏らすと、魔王が言った。


「方法はともかくとして、あの女が我を嫌悪するように仕向けるという発想自体は悪くないとは思うぞ。我も今日はそのためにわざわざロングスカートで来たのだからな」

「え!? それ、スカートだったんですか!?」


 志奈乃が思わずそう訊き返すと、魔王は立ち上がって見せた。


 ロングスカートは床まで届く長さで、魔王の足は黒いタイツに包まれた甲と爪先しか見えていない。


 女性がかつては男性の服だったパンツを穿いているのを見ても何とも思わないのとは対照的に、男性がスカートを穿いているのを見ると少なからず違和感を覚えることが多いが、魔王の場合は普段から少し変わったファッションを楽しんでいるせいか、特に違和感がなかった。


 よくよく考えてみれば、和服の着流しもワンピースのようなデザインなのだから、男性がスカートを穿いていてもおかしくない気はするし、単に見慣れているかそうでないか、似合っているかどうかの問題なのだろう。

 

 志奈乃はまじまじと魔王を見てから言った。


「効果があるといいですね。『あばたもえくぼ』なんて言葉もありますし、望み薄かも知れませんけど」

「効果があれば僥倖だな」

 

 魔王が再び座布団の上に腰を落ち着けたところで、真綾が英知と樹を見て言った。


「とりあえず、警察に相談してみたらどう? 誰も怪我したりしてないから、いきなり逮捕は無理だろうけど、注意くらいはしてくれるかもよ?」


 意外性は全くないが、至ってまともな提案だった。


 「高校生の女の子より駄目な案を出してしまった自分は、大人としてどうなのだろう」と志奈乃が心の中で真剣に自問自答していると、樹が難しい顔で言う。


「できれば警察沙汰にはしたくねえんだ。ここは寺だし、俺達は坊主だし、何とかこれ以上エスカレートする前に、あの人の目を覚まさせてやれたらいいんだけどな……」


 寺に迷惑を掛けている相手のことまで思いやってしまうのは、樹が僧侶だからなのだろうか。


 それとも樹が並外れてお人好しなのだろうか。優しいのはいいことだと思うが、あの女性に非があるのは明らかなのだから、こういう場合にはもっと厳しい態度で臨んでもいい気がする。

 

 志奈乃が意見を言おうと口を開きかけた時、英知が真っ向から魔王を見て言った。


「人の心はなかなか変えられるものではありませんから、魔王さんには申し訳ありませんが、とりあえずほとぼりが冷めるまでこの寺に来るのを控えて頂くというのはいかがでしょうか?」


 英知の言葉に、真綾も頷いた。


「私もそれがいいと思います。警察が当てにならないなら、残念ですけど、他にできることもないと思いますし……それでもしばらくは、あの人はこの寺に来るかも知れませんけど、きっとその内あきらめるでしょう」


 厄介払い同然だが、しかし英知達にしてみたらこの寺を守ることこそが最優先事項だろう。


 ストーカー被害が出ている以上、魔王の身に危害が及ぶ可能性もあるのだから、妥当な措置ではあるのだろうが、どうもすっきりしないと言うか、好きになれなかった。


 胸がもやもやして、言いようのない気持ち悪さがある。

 

 もっといい方法はないのだろうか。


「うーん……」

 

 樹も英知達の案に納得してはいないらしく、難色を示した。


「親父達の言うこともわかるけどよ、特に落ち度がない魔王さんがここに来なくて、迷惑行為の張本人のあの人がここに来るのって、何か違う気がするんだよなあ。ウチには年頃の真綾もいるし、俺だって、可能性は低いだろうけど親父だって、いつストーカー被害受けるかわかんねえんだから、ちゃんと寺として迷惑行為の対策を考えておいた方がいいと思うんだ」

「おお! いいこと言ったね! 流石! 世の中なかなか勧善懲悪とは行かないけど、やっぱり何も悪いことしてない人が割りを食うのは納得行かないもん」

 

 志奈乃は軽く拍手をしながら、そう樹を讃えた。

 

 短気ですぐ怒るイメージだったが、実はこの面子の中で樹が一番心の優しい人なのかも知れない。


 顔を合わせる度に大概怒られているので、樹に対して少し苦手意識があったのだが、嫌いにだけはならずに済みそうだった。


「しかし、寺としての対策と言っても、具体的に何をすればいいのか……」


 英知が困り果てた様子でそう言った。


 寺の管理をしているとは言っても、特別な権限がある訳でもないし、あくまで法律の範囲内での対処をするしかない。


 ストーカー行為は立派な犯罪だが、現時点で警察があの女性を排除できそうにない以上、別のやり方を考えなければならなかった。


 志奈乃は少し考えてから言う。


「……だったら、あの人を出入り禁止にするっていうのはどうですか?」

「出入り禁止って……あのなあ、ここは店じゃねえんだぞ」


 樹は呆れたようにそう言ったが、志奈乃は構わず続けた。


「お店じゃないのはわかってるけど、お寺だからって誰でも歓迎しなくちゃいけないなんて决まりはないんでしょ? 魔王さんがいつもどうやってこのお寺まで来てるか知らないけど、多分高級車で送迎みたいな感じだと思うから、本堂と庫裡の外に出なければあの人が魔王さんの姿を見ることもほとんどなくなるだろうし、その内気持ちが冷めてあきらめてくれるんじゃない? そうじゃなくても、あの人がお寺の中にいないだけで蛍原君達のストレスは随分マシになると思うし。今までそういうことしたお寺の話は聞いたことないけど、お店なら結構聞く話だし、できないってことはないでしょ? 女の人なら住職さんと蛍原君から出入り禁止を言い渡して、『今度来たら通報する』って言われたら、ビビッてもう来なくなるかも知れないよ?」


 我ながらなかなか名案だと志奈乃は思ったが、真綾が小さく首を傾げて訊いてくる。


「でも、出入り禁止って法律的にどうなんですか? 出入り禁止になった人が無理矢理中に入って来たとして、それが違法行為にならないなら、結局あの人を止められない訳で、意味がないですよね?」


 深く考えずに提案してしまったが、法律には詳しくないので、志奈乃には何とも答えようがなかった。


 ネットで調べればわかるだろうかと、志奈乃がジャージのポケットからスマートフォンを取り出しかけた時、一人静かに湯呑み茶碗を傾けていた魔王が言う。


「他者が管理する建造物等に許可なく立ち入ることは、立派な不法行為だ。其方等が拒否しているにも関わらず、あの女が強引に寺の敷地内に入って来たなら、建造物侵入罪に問うことができるぞ。寺というのは公共性が高い場ではあるが、過去に校庭や神社に許可なく侵入した者が、建造物侵入罪に問われた事案もある」


 仏教関係だけでなく法律に関する知識まであるとは、ますます魔王の謎が深まった。


 わざわざ調べるまでもなく、出入り禁止令を破れば法律違反になるらしいということがわかって助かったが、魔王は一体どんなジャンルなら守備範囲外なのだろう。

 

 志奈乃が内心首を捻っていると、英知が眉間に皺を寄せて言った。


「法に照らしてあの人を排除できるとしても、些か気が咎めますな。真言宗は『大乗仏教』ですし」

「確かになあ……」


 同じ僧侶として共感できるらしく、樹がうんうんと頷くと、真綾が宥めるように言った。


「お父さん達が言うこともわかるけど、流石に今回ばっかりはしょうがないよ」


 流石に寺族だけあって、真綾達には英知の言わんとすることが理解できているようだったが、志奈乃にはさっぱりわからなかった。


「『大乗仏教』だと、何か都合悪いんですか?」

「雅楽、『大乗仏教』がどんなもんだかわかってねえだろ」


 樹の言葉に、志奈乃は小さく頷いた。


「うん、全然」


 いつだったか、学校で習ったような気もするのだが、内容が全く思い出せなかった。


 仮にも檀家なのに、こんなにも仏教について無知だと申し訳なくなってくる。


 少し仏教の勉強でもしようかなあと志奈乃が思っていると、樹が言った。


「仏教の開祖はお釈迦様な訳だけど、そのお釈迦様が入滅された後、お弟子さん達の間に見解の相違が出てきたんだよ。一方は『煩悩から解脱して仏になるには、出家して修行しないといけない』っていう人達で、もう一方は『出家できる人はごく一部の人だけだけど、それじゃあ広大無辺な慈悲の心を持ったお釈迦様の意に反するから、出家しなくてもみんなが救われるのが仏教の筈だ』って考える人達だった訳だ。で、前者は限られた人しか乗れない舟に喩えて『小乗仏教』って言われてて、後者が全部の人が乗れる舟に喩えて『大乗仏教』って言われてるんだよ。真言宗はその大乗仏教の宗派の一つだから、真言宗の坊主をやってる俺達はみんなが浄土に行けるように祈ってるし、できれば人を選り好みするような真似はしたくねえんだ」

「なるほどねえ」


 志奈乃はようやく納得した。


「でも、真綾ちゃんもさっき言ってたけどさ、本当にこればっかりはしょうがないよ。お寺って、お坊さんと檀家さんが一緒に守ってきた場所な訳でしょ? その人達がいて欲しくないって思ってるんだったら、出入り禁止になっても文句言えないもん。ストーカー行為はちょっと迷惑なんて可愛いもんじゃなくて、れっきとした犯罪行為なんだし。蛍原君達は真面目だから、あの人を見捨てるみたいで罪悪感があるんだろうけどさ、あの人を今より数段グレードの高い犯罪者にするよりは、ここで突き放した方が絶対いいよ。手を差し延べてあげられなくても、あの人もちゃんと浄土に行けるようにお祈りしてあげれば、それで十分だと思う」


 英知達の志は立派ではあるものの、人間である以上、この世の人間全てを助けるのは絶対に無理だ。


 英知も樹ももういい年をした大人なのだから、それくらいわかっているだろうに、それでも割り切ることに躊躇いがあるようだが、ここは何とか割り切ってもらいたかった。

 

 ここには祖父の墓があるし、月命日には志津子が必ず墓参りに来ている。


 せめてあの女性を寺の外に追い出すくらいのことをしてもらわないと、志津子も安心して寺に来られないだろう。


 こんなことで足が遠のいてしまったりしたら、祖父があまりにも気の毒だった。


「檀家としてお願いします。どうか、みんながこの寺に安心して来られるようにして下さい」


 志奈乃が英知達に頭を下げると、英知が静かに言った。


「わかりました。ご期待に添えるかはわかりませんが、この寺を預かる者として、できる限りのことをするとお約束します」

「ありがとうございます」


 志奈乃がほっとして顔を上げると、英知が樹達を見て言った。


「私は志奈乃さんの案に賛成だ。お前達はどう思う?」

「俺も出入り禁止はアリだと思う。上手く行けば、多分誰も不幸にならねえと思うし」


 樹の言葉に、真綾も小さく頷いた。


「私もいいと思うよ」

「よし。とりあえず方針はまとまったが、とにかく檀家さん達に相談しないとな」


 住職達と檀家の共同運営というのは、寺の維持管理においていろいろとメリットもあるのだろうが、速やかな意思決定ができないというデメリットもある。


 志奈乃としては面倒なことを抜きにして即決して欲しいところだったが、通すべき筋はきちんと通しておくべきだった。


 檀家にそっぽを向かれてしまったら、この寺の運営は成り立たなくなってしまう。

 

 樹は立ち上がりながら言った。


「とりあえず明日――は急過ぎて流石に無理か。次の土曜日にでも檀家さん達に集まってもらおう。緊急招集だから集まりは悪いだろうけど、あんまり悠長にもしてられねえし、すぐにプリント作るよ」

「頼んだぞ」


 英知がそう言うと、樹は襖の前で足を止めて志奈乃の方を振り返った。


「じゃ、悪いけど掃除よろしくな」

「うん、わかった」


 樹は魔王に「よろしくお願いします」と、丁寧に頭を下げてから出て行った。






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