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時計の針は十六時半を回って、日の光が赤みを帯びてきていた。
志奈乃が庫裡の玄関を掃除しようとしていると、玄関先に佇む魔王が半ば独白のように言う。
「やはり、少々面倒なことになってきたようだな」
志奈乃が手を止めて顔を上げると、魔王は横に一瞬視線を投げた。
どうやらあの女性のことを言っているらしい。
トイレや食事に行っていたのか、途中で二度程姿を消したが、あの女性は結局戻って来て、車の中から魔王を見ていた。
先程玄関掃除用の箒とちり取りを物置に取りに行った時にもまだいたし、この調子だとまだまだ居座りそうだ。
魔王が帰りさえすれば、さっさと帰るのかも知れないが。
志奈乃は女性から魔王に視線を戻すと、訊いた。
「もしかしなくても、あの人魔王さんをストーキングしてるんですかね? そんなことするような人には見えませんでしたけど」
「あの女の目的が他にあるのだとしたら、周囲に民家と畑しかないようなこの寺に、あの女がまだいる理由は何だ? 仮に待ち合わせだとしても、もうかれこれ六時間程ああしているのだから、大抵の者はとうにあきらめて帰るだろう。見たところ、車に不具合が起こっているようにも見えないが」
「ですよね……」
もしJAFを待っているのだとしても、移動もままならないような大雪の日という訳ではないし、六時間もあればとうに到着しているだろう。
志奈乃は少し考えてから言った。
「無理矢理好意的に解釈するなら、探偵さんか何かで張り込みをしてるとかですかね?」
「四方を塀で囲まれたこの寺の中で監視できる対象は、我と其方の二人だけだろう。仮にその手の者だとしたら、もう少し上手くやると思うが?」
魔王の言う通り、やはりこの解釈には無理がある。
となると、やはりあの女性はストーカーの可能性が高そうだった。
志奈乃がそう考えていた時、自転車に乗った真綾が山門をくぐって帰ってきた。
「只今帰りましたー」
真綾は自転車から降りて軽く会釈をしながらそう言うと、自転車を庫裡の脇に駐めてから玄関にやって来た。
「あの、車の中の女性はお知り合いの方ですか?」
真綾の質問に答えようと、志奈乃は真綾の耳元に唇を寄せて言った。
「ううん、御朱印をもらいに来た人。でも、午前中に来てから、ずーっとあそこにいるんだよねえ……どうも魔王さんのストーカーみたいでさ」
「ええええっ!?」
真綾は大声を上げてから、慌てて口を押さえた。
その手を口から離すと、声を潜めて再び志奈乃に問いかける。
「……あの人がストーカーって、本当なんですか?」
「私がこの寺に来るようになってから、あの人がこの寺に来たのは今日が初めてだから、確証はないけどね。今のところは車の中に居座ってるだけなんだけど、もうかれこれ六時間くらいああしてるの。いくら何でも長過ぎでしょ? 魔王さんに気がある素振りしてたし、多分間違いないんじゃないかな? 私達がこの寺に来るのは火、木、土だけって教えちゃったから、多分毎日来たりはしないと思うけど……」
「そうですか……」
真綾は不安そうな様子だったが、すぐにその不安を振り切るように強い口調で続けた。
「とりあえず、お二人共今日のところはもうお帰りになって下さい。今日からストーカー行為が始まったなら、いきなり刃物を持ち出してきたりはしないでしょうけど、お手伝いに来て頂いている方を万が一にも危ない目には遭わせられませんから」
真綾は気丈にそう言ったが、ストーカーの女性が敷地内にいるとあっては、心細いに違いない。
標的になっているのは真綾本人ではないのでまだマシだろうが、それでも十分気持ちが悪いし、何をしでかすかわからないような人間が近くにいるというだけで怖いだろう。
いくらしっかりしているとはいえ、真綾はまだ未成年なのだから、ここは年長者の自分がしっかりしなくては。
志奈乃は決意を込めて言った。
「私、住職さん達が帰って来るまでいるよ。私達が帰っちゃったら、真綾ちゃん一人になっちゃうし、もし真綾ちゃんに何かあっても嫌だもん。まあ、魔王さんが帰れば、あの人がここにいる理由もなくなるんだろうから、魔王さんには帰ってもらった方がいいかもだけど」
「悪いが、我はあの副住職に少々話があるのでな。しばらくここで待たせてもらうぞ」
魔王が真綾にそう言うと、真綾は小さく頷いた。
話があるならメールなり電話なりで連絡を取ればいいのではなかろうかと志奈乃は思ったが、もしかしたら魔王なりに真綾を気遣っているのかも知れない。
あの女性がここにいる理由が他でもない魔王であるというのは、何とも皮肉な話ではあるが。
魔王は真綾から志奈乃に視線を移すと、言った。
「其方はもう帰れ」
「いえ、私も残りますよ。こういう時にできることなんて特にないですけど、いれば何かの時に役に立てるかも知れないですし」
「我は身を守る術くらいは心得ているが、其方は違うだろう。今後のことはまだわからぬが、あの男の意向に添うようにすればいい。我もそうしよう」
「……わかりました」
真綾達を見捨てるようで少し後ろめたい気持ちになったが、大人の男女三人で全く歯が立たないような怪力ぶりを発揮する魔王からすれば、自分など足手まといにしかならないだろう。
魔王が帰れと言っている以上、ここは大人しく帰った方が良さそうだった。
樹とは連絡先を交換してあるので、後でメッセージを送ればいい。
志奈乃は箒とちり取りを物置に片付けに行こうとしたが、その前に真綾が言った。
「私が片付けておきますから、そのままでいいですよ」
「でも……」
そのまま玄関を出ようとした志奈乃に、真綾は笑顔で言う。
「本当にもう十分ですから。お疲れ様でした」
「そう? 悪いね」
志奈乃は箒とちり取りを壁に立て掛けると、下駄箱の脇に置いておいたトートバッグを手に取って、真綾に軽く手を振った。
「じゃあまたね。お疲れ」
志奈乃は魔王にも挨拶すると、後ろ髪を引かれる思いで庫裡を後にした。