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女性は志奈乃達と世間話をしながら、時間をかけて湯呑み茶碗と皿を空にして言った。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
志奈乃が軽く会釈をすると、女性は墨を乾かしていた御朱印帳を静かに閉じて、トートバッグにしまいながら続けた。
「そろそろ失礼しますね。長々お邪魔してしまってすみませんでした」
「いえ、住職さん達はお寺に人が来てくれると嬉しいみたいですし、良かったらまた来てあげて下さい」
女性は淡い微笑みを志奈乃に向けると、トートバッグを手に立ち上がった。
志奈乃が開けた襖から女性が廊下に出ると、志奈乃と魔王も見送りに玄関へと向かう。
女性は靴を履いてから体ごと振り返り、軽く会釈をして言った。
「いろいろとありがとうございました。どうもお邪魔しました」
「いいえ、大してお構いもしませんで」
志奈乃が魔王と共に会釈を返すと、女性は少し名残惜しそうな顔を魔王に向けて言う。
「それでは……」
女性はもう一度会釈すると、引き戸の向こうに消えた。
女性の足音が遠ざかるのを待って、志奈乃は先に踵を返した魔王の背中に向かって言う。
「流石にモテますね」
女性は決して露骨に色目を使っていた訳ではなかったが、明らかに魔王を気にしていたので、気があるのは間違いないだろう。
よく知らない男性相手なら、まずは結婚指輪の有無をチェックするだろうから、魔王が既婚者であることには気付いていたのだろうが、これだけの美形ならそれでも惹かれてしまうのもわかる。
「結構綺麗な人だったじゃないですか。追いかけなくていいんですか?」
「火遊びをする気があるのなら、わざわざ左手の薬指に指輪を付けたりはしないぞ。大体、何とも思っていない相手に愛されたり執着されたりするのは、単に鬱陶しいだけだ」
魔王は振り向きもせずにそう言った。
どうやら魔王はかなりの愛妻家らしい。
こんな超絶美形で社会的地位もある上に一途とは、引きこもりであることを差し引いても、ほとんど最高レベルの夫だろう。
こういう人が愛する人というのは、一体どんな人なのか。
外国では同性婚が行われていたりもするし、配偶者が男性だったら腐女子としては胸が熱くなるところだが、配偶者を「妻」と呼んでいたことからしてその可能性はなさそうだった。
ここはやはり「世間体を気にして女性と結婚したものの、やっぱり満たされないから樹と絶賛不倫中」という設定にしておくべきだろう。
志奈乃はそう結論付けると、茶器や皿を片付けるために居間に戻った。
志奈乃は茶器の片付けを終えると、墓地の草むしりの続きをするために魔王と共に外に出た。
雨はいつの間にか上がっていて、空には少し晴れ間が見えている。
これなら随分掃除もし易そうだ。
少し冷たい軍手を嵌めた志奈乃は魔王と共に本堂を回って墓地に向かったが、何気なく自分が駐めた車の方を見ると、隣に先程の女性の車がまだ停まっているのが見えた。
運転席の女性と目が合って、志奈乃が軽く会釈をすると、女性も会釈を返してくる。
志奈乃は視線を前に戻すと、少し先を歩く魔王に向かって問いかけた。
「さっきの人、まだいるなんて、車のトラブルか何かですかね?」
「そうだといいがな」
魔王は女性を一顧だにせず、ただ前だけを見て歩きながらそう言った。