―25―
樹は真綾に茶の用意を頼むと、本堂脇の収納から人数分の座布団を取り出して、奥に一枚、残りを扉側に並べて敷いた。
そうして奥の座布団を男性に勧めると、男性の向かいの座布団に正座する。
その隣に魔王が、そのまた隣に志奈乃が正座したところで、樹は床に手を付いて男性に礼儀正しくお辞儀をした。
「申し遅れました。私はこの碧玉寺の副住職を務めております、蛍原樹心と申します」
志奈乃は樹が口にした名前に一瞬驚いたが、すぐに法号――僧侶が師匠から与えられた、僧侶としての名前だ――だなと思い至る。
寺に生まれた子供は英知のように、初めから音読みの名前を付けられることも多いと聞いたことがあるが、樹の場合は名前が一文字なので、本名そのままという訳には行かなかったのだろう。
志奈乃がそう納得していると、樹は続けた。
「こちらはこの寺の手伝いをして下さっている魔王さん――渾名のようなものですから、お気になさらないで下さい――と、雅楽志奈乃さんです」
魔王と志奈乃がそれぞれ軽く会釈をすると、男性もぺこりと頭を下げた。
「三日月和人です」
互いに自己紹介が済んだところで、樹が切り出した。
「では、お悩みをお聞かせ願えますか?」
「その……変に聞こえるかも知れないんですけど……」
言い淀む和人を、樹は優しく促した。
「どうぞ何でもお話し下さい。決して口外は致しません」
和人は樹の言葉に力をもらったらしく、おずおずと言った。
「自殺願望があるんです」
話には聞いたことがあったものの、本当にこういう人っているんだなあと志奈乃は妙な感心をした。
そして同時に、できれば関わり合いになりたくないなあと思う。
偏見かも知れないが、この手の人は単に他人の関心を引きたいだけの人が多いイメージで、真面目に相手をしない方がいいような気がした。
構ってくれるとわかれば、気が済むまでいつまでも付き纏ってきそうだ。
面倒なことにならないといいのだが。
志奈乃が抱いている懸念を樹と魔王は全く抱いていないのか、それとも単にこの手の人に慣れているのか、二人は特に動じる様子もなかった。
まあ、何か深刻な理由があって自殺未遂をやらかしている可能性もあるので、まずはきちんと話を聞くべきだろう。
志奈乃がそう考えていると、和人は続けた。
「別に何か強烈なトラウマがあったり、家庭環境に問題があったりする訳じゃないんです。普通って言われる家庭で、普通に育ちました。ただ特に不幸じゃないけど、幸せでもない感じで、何となく生きてるのが虚しいなって思う時があって……俺は何か凄い才能がある訳でもないし、頭や運動神経だって人並みのつまらない人間なんです。毎日が面白くなくて、息苦しくて、死んだら楽になれるかなと思って、時々手首を切ってみたり、今もいつでも死ねるようにロープを持って来ているんです。お守り替わりって言うか、死のうと思えばいつでも死ねる状態にしておけば、ちょっと安心できるので」
うわあ、予想通りの面倒臭い人だ。
きっと腕時計の下にはためらい傷の跡がいくつもあったりするのだろう。
志奈乃は顔が引き攣りそうになるのを感じたが、樹はどう思っているのか、あくまで穏やかな口調で和人に尋ねた。
「お話はよくわかりました。わざわざこの寺を訪ねていらしたということは、自殺未遂を起こしてしまう自分を変えたいということなのでしょうか?」
「一応……なかなかやめられませんし、積極的に生きたいって思ってる訳じゃないですけど、良くないことだとは思ってるので。このお寺はただ悩みを聞いてくれるだけじゃなくて、悩みを解決できるように手伝ってくれると書いてあったんで、ここなら親身に相談に乗ってくれそうだと思ったんです」
「そう言って頂けると、僧侶冥利に尽きますね」
それってつまり、面倒な人がたくさん集まってくるってことなんじゃあ……?
と志奈乃は思ったが、僧侶にとっては苦しむ人々を救うことも大切な務めの一つなのだから、人に頼られることは決して迷惑なことではなく、むしろ嬉しいことなのだろう。
物好きなことだ。
僧侶としては至って真っ当なのだろうが。
樹は少し考えるように間を置いてから、言葉を続けた。
「仏教はキリスト教と違って、自殺を悪とは見做しません。自殺する人を弱い人間だと非難する人もいますが、人にはそれぞれ事情がありますから、亡くなった人が最後に勇気を出して下した決断を非難したり、貶めたりするべきではないと、個人的には思います。お釈迦様も、自殺の善悪については言及されませんでした。ただ、身籠ったにも関わらず、男に捨てられてしまった娘が自殺しようとしたのをご覧になったお釈迦様は、『死ねば楽になれると思っているのだろうけれど、お前は死後にもっと苦しむことになる』と娘を諭されましたが。仏教において、人は死後にその生前の行いに応じて、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界のいずれかに何度でも生を受け、煩悩や欲望を捨て去って解脱しない限り、生の苦しみからは決して逃れることができないとされていますから。修行して解脱できる可能性がある人間に生まれたことは、それだけでとても幸せなことなんですよ。輪廻を証明することはできませんし、信じる信じないはあなたの自由ですが、もし輪廻がなかったとしても、己を高めることは非常に有意義なことです。あなたはご自身をつまらない人間だとおっしゃいましたが、まだお若いですし、努力すればいくらでも素晴らしい人になれる余地があるでしょう。十分過ぎる努力をしたと胸を張って言えるなら、命を絶つのもいいかも知れませんが、あなたは今までの人生において、それ程の努力をしましたか?」
樹の問いかけに、和人は黙って首を横に振った。
「では、もう少し頑張ってみる気にはなれませんか? 今は生きることが虚しく思えるかも知れませんが、生きてさえいれば、いずれ生きる意味や生き甲斐を見付けることもできるかも知れません。そういうものは人生全てを使って探すべきものですから、すぐに見付からないことを焦る必要はないんです。その時は明日やってくるのかも知れませんし、死ぬ間際にやってくるのかも知れません。あなたが己を高めることを怠らずにいれば、いずれあなたの心があなたに教えてくれるでしょう」
流石、兼業でも僧侶だけあっていいこと言うなあと志奈乃は素直にそう思った。
多分「死にたい」と言う人は、一時的に視野が狭くなっているだけというパターンもあるのだろうから、視野を広げてあげるというのは大事なことなのだろう。
和人は少し考えてから言った。
「凄くタメになる話でしたけど、まだはっきり生きたいって思えないって言うか……自分が変われる気がしないって言うか……上手く言えないんですけど」
一体いつから自殺未遂を繰り返しているのか知らないが、やっぱり人間そう簡単には変われないだろう。
今日一日だけではどうにもならないかも知れなかった。
長丁場になりそうだなあと志奈乃が些かうんざりしていると、後ろから真綾の声がする。
「失礼します。お茶が入りました」
志奈乃が何気なく真綾の方に顔を向けると、真綾が急に悲鳴を上げて盆を落とした。
急須が倒れて、割れた湯吞み茶碗や干し柿が床の上に転がる。
「大丈夫!? 火傷してない!?」
すかさず立ち上がった志奈乃が真綾に駆け寄ると、真綾は固い表情でこくこくと頷いた。
「大丈夫です。でも、あの人が……」
真綾が何を言っているのかわからず、訝りながら和人に視線を戻した志奈乃は、真綾が悲鳴を上げた理由を知った。
魔王が和人の首を絞めていたのだ。
樹が魔王の両手を引き剥がそうとしているものの、魔王は見た目よりずっと力が強いらしく、その手はびくともしない。
和人も必死の形相で魔王の手を何度も引っ掻き、魔王を蹴飛ばしていたが、魔王は痛がる素振りさえ見せずに、和人の首を絞め続けていた。
一体何がどうしてこうなったのか、全く訳が分からなかったが、とにかく止めないとまずい。
志奈乃は慌てて魔王に駆け寄ると、和人の首を絞める魔王の腕にしがみ付いた。
だが魔王は苦もなく志奈乃の体重を支えて、和人の首を絞め続ける。
志奈乃は魔王の腕にぶら下がりながら、何とか魔王を思い留まらせようと言った。
「魔王さん! お寺で殺人事件は駄目ですよ! いや、お寺じゃなくても殺人は駄目ですけど、とにかくやめて下さい!」
「そうですよ! 手を放して下さい! このままだと死んでしまいます!」
樹が悲鳴染みた声で言った時、英知が本堂にのっそりと顔を出した。
「騒がしいな。どうした?」
そう言った英知が顔色を失って固まった。今正に本堂が殺人事件の現場になろうとしているという異常な状況に、頭が付いて行かなくなったらしい。
真綾は英知を叱咤するように言った。
「お父さん! とにかく警察呼ぼう! 一一〇番!」
「あ、ああ、そうだな」
我に返った英知はすぐさま踵を返しかけたが、丁度その時、和人の体から力が抜けた。
「あ……」
志奈乃は自分の顔から血の気が引く音を聞いた気がした。
どうしよう。
騒がしかった本堂が一瞬で静まり返り、全てが静止した。
重苦しい沈黙が支配する中、魔王は何事もなかったかのように志奈乃をその場に下ろして、和人の頭を座布団に横たえると、その横に正座する。
人を殺しておいて、見事なまでの無表情だ。
この人、綺麗な顔して実はサイコパスなんじゃあ……?
あまりに平然とした魔王の様子に、志奈乃が思わずぞっとしていると、樹がおずおずと魔王に声を掛けた。
「……あの、警察を呼ぼうと思うのですが」
「その必要はないぞ。単に気を失っているだけだからな」
そう聞いた樹はすぐさま和人の首筋に手を当てると、脈を確かめた。
魔王の言う通り、死んではいなかったらしく、樹はほっと安堵の溜め息を漏らす。
「良かったぁ……」
気が抜けた志奈乃は、思わずその場にへたり込んだ。
寿命が縮むとは、正にこのことだろう。
軽く見積もって、十年は死期が早まったに違いない。
志奈乃が大きく息を吐いていると、樹が魔王に尋ねた。
「気絶しただけで済んで良かったですが、どうして死なずに済んだのでしょう? 確かに首を締めていましたよね?」
確かに、魔王は思い切り和人の首を締めていたので、樹の疑問はもっともだった。
不思議だなあと志奈乃が思っていると、魔王が答えを口にする。
「確かに人間は首を締め続ければいずれ死ぬが、一時的に脳への血流を遮って脳を酸欠状態にすることで気を失わせただけだ。少々気道も塞いで苦しむようにはしたがな」
「そういうことでしたか……」
そう言えば、柔道などの格闘技では絞め技で気絶することもあると聞いたことがある。
多分魔王がやったのは、そうした絞め技と理屈は同じなのだろう。
志奈乃はそう納得したものの、英知は余程ショックが大きかったのか、安堵するどころか青い顔のまま呆然と言った。
「何と言うことだ……寺で殺人未遂事件が起きてしまった……これはもう、死んで親父に詫びるしか……」
英知の不穏な発言を、志奈乃はすかさず遮った。
「ちょっとちょっと! 自殺未遂をやらかす人の相談に乗ってる横で、住職さんが自殺なんかしちゃ駄目ですよ!」
「そうだぞ、親父! 真綾もそんな顔すんな! 多分大丈夫だから!」
良くて訴訟、悪いと刑事事件相当のことを魔王がやらかしておいて、何が大丈夫なのかわからないが、樹は今にも自殺しそうな顔をした英知と泣き出しそうな真綾にそう言うと、魔王に向き直った。
「どうしてこんな真似をなさったのですか? 何か理由がお有りなのでしょう?」
「見ていて苛々したものでな」
この人、やっぱりサイコパスだ。
志奈乃がそう確信した時、魔王が続けて言う。
「冗談だ」
どうやら意外とお茶目らしいが、平然と人の首を絞めるところを目の当たりにした身としては、「冗談を言っているという冗談」を言っているのではないかと疑わずにはいられなかった。
顔が綺麗なだけに、志奈乃が余計に怖さを感じていると、魔王が続ける。
「実際死にかけてみれば、己がどれ程生きたいか自覚できるだろう。こういう手合いには効果的なやり方だと思うがな。まあ、本当に死なせてしまう恐れがある以上、知識のない者が安易に首を絞めるのは推奨しないが」
確かに、魔王に首を絞められていた和人は抵抗していたし、間違いなく生きたがっていた。
相当苦しい思いをしただろうが、和人は自分がちゃんと生きたがっていることに気付けたのだろうから、その甲斐はあったのかも知れない。
実際首を絞められた当人としては、たまったものではないと思うが。
「いくら効果があっても、いきなり人の首を絞めるのは感心しません。上手くやる自信があったとしても危険な行為ですし、訴えられる可能性もありますよ。魔王さん個人が訴えられるだけならまだしも、この寺を訴えられるのは大変困ります」
樹はやや棘のある口調で魔王を咎めたが、魔王は反省するでもなく、妙に自信たっぷりに言った。
「恐らく訴訟沙汰にはならずに済むと思うぞ。もし本当に訴訟になった時には、我が上手く取り計らってやろう」
「そうならないことを祈ります」
樹が和人の頬を軽く叩くと、和人は軽く呻いてから、激しく咳き込んだ。
余程苦しかったらしく、潤んだ目で何度も瞬きしてから、咳が収まるのを待ってゆっくりと体を起こす。
「大丈夫ですか? 突然失礼しました。お怒りのことと思いますが、魔王さんはただあなたが生きたがっていることを、あなた自身にきちんと確認して欲しかったんです。かなり乱暴な方法だったことは否めませんが、この私に免じてどうかご容赦下さい」
樹が見事なまでの土下座をすると、和人は絞められていた首が痛むのか、首をさすりながら言った。
「びっくりしましたし、苦しかったですけど、別に怒ってませんよ」
「本当ですか!?」
英知と真綾の声が綺麗に唱和した。寺の命運がかかっているだけに、二人共必死だ。
「じゃあ、訴えたりは……」
真綾の言葉を引き取って、和人は言った。
「しません」
その言葉を聞いた英知は心底ほっとしたらしく、涙が滲む目元を拭った。
真綾も目に見えて安堵した顔になる。
自分達に何の落ち度もないのに、壇家達に見放されでもしたら英知達があまりにも気の毒過ぎるので、本当に良かったと志奈乃は心からそう思った。
樹がそっと顔を上げると、和人は言う。
「何だか目が覚めたって言うか、さっぱりしました。本当に死ぬかと思いましたけど、あんなに苦しい思いをしてもまだ死ねないなら、開き直って生きて行く方がいいかなって。死にかけたところで何が変わった訳でもなくて、結局つまらない自分のままですけど、おかげでやっときちんと腰を据えて生きて行けそうな気がします」
和人は憑き物が落ちたような、すっきりした面持ちでそう言った。
ちょっとどころでなく荒っぽいやり方だったが、どうやら和人にはいい方に作用したらしい。
魔王の自信に満ちた様子からして、まるでこうなることがわかっていたようだったが、人を見抜く力が余程ずば抜けているのだろう。
樹は魔王のこういうところを買って、この寺に来てもらっているのかも知れない。
「ありがとうございました」
和人はそう言って頭を下げた。