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「そう言えば、このお寺の『お悩み解決事業』をお手伝いされているってことでしたけど、蛍原君とはどこで知り合ったんですか?」
「この寺の本堂でだ」
些か素っ気ないながらも、魔王がきちんと答えを返してくれたことに安堵しつつ、志奈乃は重ねて問いかける。
「何でまたわざわざこのお寺に? この辺、別に観光地でもないですけど」
「只の気紛れのようなものだ」
「はあ、気紛れ、ですか……そんなふらっと立ち寄ったお寺の仕事を手伝ってるなんて、物好きと言うかお人好しと言うか……仏教が好きなんですか?」
「そういう訳ではないが、一通りの経典や真言は諳んじることができるし、各宗派の特色や歴史などは把握しているぞ」
「へえ、博識なんですね」
「経典や真言はともかく、仏教の各宗派の特色や歴史は、この国の人間ならば一般常識の範囲内だと思うが」
「んー、確かに昔日本史の授業で一通り習った気がしますけど、全然覚えてないです。家がこのお寺の檀家をやってますから、真言宗のことなら多少わかりますけど」
「ならば問うが、真言宗の教えはどんなものだ?」
「ざっくり言うと、『即身成仏』の教え、ですよね」
魔王の質問にきちんと答えることができたのは、志奈乃自身、いつだったか似たようなことを志津子に訊いたことがあるからだ。
『即身成仏』という言葉の意味まではわかっていなかったりするのだが、魔王は眉をわずかに上げて言った。
「ほう、知っていたか。今時は菩提寺の宗派も把握していない檀家も多いと言うが、感心なことだ」
「〇点取ってる人達の中で、十点取れたから褒められてるようなもんでしょうけど、ありがとうございます。でも、祖母に聞いたことがあるだけで、詳しくは知らないんですよ。『即身成仏』って、修行してミイラになれってことなんですか?」
「其方が言っているのは即身仏のことだな。『即身成仏』というのは、生きた身のままで仏になることなのだ」
思い掛けない魔王の答えに、志奈乃は目を瞬かせた。
「生きたまま仏になるなんて、そんなことできるんですか?」
「少なくとも真言宗では可能だということになっているな。その理由を説明するには前置きとして密教の話をする必要があるのだが」
「あ、オン何たらかんたらって唱えるあれですね!」
志奈乃は少しテンションを上げてそう言った。
バトル物の漫画やアニメには、しばしば密教と繋がりのある陰陽道に精通したキャラが出て来たりするので、きっと大抵のオタクならそれくらいのことは知っているだろう。
少なくとも自分は読んでいた漫画に陰陽師が出て来たことをきっかけに興味を持って、いろいろ調べてみたし。
きっかけはどうあれ、それまで知らなかったことを知ろうとするきっかけになることもあるのだから、漫画やアニメもそう馬鹿にしたものではないだろうに、オタクでない人達はどうして馬鹿にしたりするのだろうと志奈乃が思っていると、魔王は言った。
「そもそも密教とは『秘密仏教』の略称で、真理は言葉で言い表すことができるものではなく、修行体験によってのみ知り得るという教えなのだ。真言宗は空海を開祖として平安時代に興ったのだが、空海によれば絶対的な宇宙法則である大日如来が人の姿を取って現れたのが釈迦であり、釈迦が言葉によって説いた教えが顕教なのだそうだ。だがそれはあくまで誰でも理解できるように噛み砕いた教えであって、真理ではない。それに対して、大日如来が直接に説いた密蔵と呼ばれる教えこそを真理そのものと考え、その真理を直接に体得する教えこそが密教であり、そのような存在こそが『仏』なのだ。『仏』とは『解脱のための知恵を悟った者』だが、空海が言うには人間の本質は元々仏性であるということなのでな、修行によって己が仏であることを悟ることこそが『即身成仏』ということになる」
少し難しい話だが、大体は理解できた気がする。
志奈乃は頭の中で魔王の話を整理しながら、確認のために訊いてみた。
「ええと、つまりは自分の中の仏様に気付きなさいってことな訳ですか?」
「そういうことだ」
魔王は志奈乃の質問を肯定すると、いつの間にか止まっていた箸を再び動かし始めた。
志奈乃も箸を動かしておかずのいんげんを摘みながら、樹や英知が目指しているものに思いを馳せて、何とも不思議な気持ちになる。
理屈はわかったが、只の人間が仏になるというのはどうにもピンと来なかった。
何だか途方もない話だが、人間の本質が仏だとすれば、理屈の上では不可能ではないのだろう。
仮に仏になれなかったとしても、『即身成仏』を目指して修行することそのものに意味があるのかも知れなかった。
それはきっと、毎日家で勤めに励んでいる志津子にとっても同じことなのだろう。
やっと志津子が修行をする意味がわかって、志奈乃は少し嬉しくなった。
昼食後、志奈乃は墓場の草むしりの続きを済ませてから境内の掃き掃除をし、それが済んだ後には山門の外をぐるりと一周して掃き掃除をした。
いつの間にか日が大きく傾いて、空気が冷たさを帯びてきても、まだ十七時にはならない。
広い寺なら一人では一日掛かっても掃除し切れないだろうが、やはりここは小さい寺なのだなあと志奈乃は実感した。
一通りの掃除が終わっても遊ばせてもらえる筈もなく、魔王に言われるままに箒で庫裡の玄関を掃除していると、何かが細かな石や土を踏んで近付いて来る音が聞こえる。
志奈乃が顔を上げて音の方に目を向けると、自転車に乗った真綾が玄関に向かってくるところだった。
真綾は勉強ができるらしく、着ているのは県内でも進学校で有名な高校の制服だ。
紺色のブレザーに白いシャツ、紺色のスカートで、お世辞にも可愛らしいとは言えない地味なデザインだが、美少女は何を着ても可愛く見えるもので、真綾の美少女ぶりは健在だった。
真綾は玄関先で自転車を降りると、軽く会釈して挨拶してくる。
「只今です」
「お帰りー」
真綾は志奈乃ににこりと微笑んだ。
この様子なら、多分真綾も樹から例の秘密については何も聞いていないのだろう。
真綾は玄関脇に自転車を駐めると、魔王から家の鍵を受け取りながら言った。
「留守番ありがとうございました。庫裡の掃除は私達でしますから、大丈夫ですよ」
「ついでだから気にしないでいいよ。学校行きながら家のことやるのも大変でしょ」
「ありがとうございます。助かります」
「ほら、入って入って」
志奈乃が手を止めて体を退けると、真綾はぺこりとお辞儀をして中に入った。
いそいそと脱いだ靴を片付けて、居間の向かいにある部屋の中へ消えて行く真綾を見送りながら、まだ高校生なのにしっかりした受け答えをする子だなあと志奈乃は思う。
きっと母親を早くに亡くしている分、早く大人にならなければならなかったのだろう。
それは樹も同じだが、樹の精神年齢が実年齢より高い気がするのは、どちらかと言うと僧侶であることが大きい気がした。
毎朝早起きして寺の掃除をしているそうだし、真面目に修行しているのだろう。
もっと楽に生きる方法があるのに、敢えて困難な生き方をするのを真似したいとは思わないが、そういう生き方はきっと美しい。
志奈乃が黙々と箒を動かしていると、普段着に着替えた真綾が部屋から出て来て、軽く頭を下げてから奥の部屋と消えていく。
戸棚を開ける音や、食器が触れ合うような音が聞こえるところからして、真綾が向かったのは台所らしい。
それから少しして志奈乃が掃除を終えたところで、魔王は言った。
「今日のところはこのくらいでいいだろう」
「お疲れ様でしたー」
志奈乃が玄関脇に置いてあったゴミ袋に、ちり取りの中のゴミを入れていると、木戸が開く音がして、真綾が声を掛けてきた。
「お茶を淹れましたから、良かったら魔王さんとご一緒にいかがですか?」
志奈乃が顔を上げると、長方形の黒い盆の上に三人分の茶器や大福を乗せた真綾が廊下を歩いてくるところだった。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……」
志奈乃はにこりと笑うと、両膝を居間の襖の前に付いて盆を廊下に置き、襖を開けた。
丁度喉が乾いていたところだったので、志奈乃としては真綾の申し出はとても有り難い。
気が利く子だなあと感心していると、魔王が一足先に下駄を脱ぎ、流れるような所作で膝を付いて下駄の向きを変えてから、奥の洗面所へと向かった。
志奈乃も箒とちり取りを裏の物置に片付けると、魔王に少し遅れて洗面所で手を洗ってから居間の襖の前に跪座して言う。
「失礼します」
「どうぞ」
真綾が襖越しにそう返事をすると、志奈乃は右手で取っ手を掴んで少しだけ襖を開ける。
エアコンが効き始めているようで、ほんのり暖かな空気が流れてきた。
志奈乃は手を下に滑らせて半分程襖を開けると、左手で更に大きく開け放つ。
すると、机の上に茶托に乗った蓋付きの湯呑み茶碗と、白い大福と懐紙の乗った皿が並んでいるのが目に入った。
こちらを見た途端、真綾が一瞬ほっとしたような顔になった気がしたのは、目の錯覚だろうか。
魔王は机を挟んで真綾の向かい――窓際の奥に腰を落ち着けていて、志奈乃は魔王の隣に敷かれていた座布団の上に腰を下ろす。
「どうぞ、お口に合わないかも知れませんが」
「頂きます」
志奈乃は手を合わせてから、茶托に左手を添えると、右手で湯吞み茶碗の蓋のつまみを持って、手前から回すように開けていく。
共働きの両親に代わり、ほとんど志津子と今は亡き祖父に育ててもらったようなものなので、礼儀作法についてはそれなりに躾けてもらっていて、余所様の家でも特に困らずに済んだ。
子供の時には口うるさいと反発したこともあったが、今となっては有り難いと思う。
何だかんだ言っても、やはり大人として作法の心得は大事だ。
何気なく隣を見れば、魔王も同じようにしていて、外国のマナーまできちんと身に付けている辺り、流石上流階級は違うなあと志奈乃は深く感じ入った。
湯呑み茶碗を右手で取った後に左手に乗せ、両手で静かに傾けてから、志奈乃は湯呑み茶碗を茶托に戻して真綾に言う。
「そういや、思ったより帰ってくるの早かったけど、部活はやってないの?」
「はい。できるだけ寺を空けない方がいいと思って、放課後は真っ直ぐ帰ってくるようにしているんです。父や兄と違ってお坊さんでもないですし、まだ子供ですから、できることなんてほとんどありませんけど、一応私も寺族ですから」
高校生と言ったら、まだまだ遊びや部活を楽しみたい時期だろうに、寺に来る人のことを考えて早く帰って来るなんて、本当にできた子だ。
土日は英知達がいるだろうからまだいいとして、問題は平日だが、火曜と木曜なら魔王と自分がいる。今日は真っ直ぐ帰って来なくても大丈夫だとわかっていただろうに、真面目な子なのだろう。
志奈乃は懐紙ごと大福を手に取りながら言った。
「偉いね」
「いえ、そんなことは……志奈乃さんの方が偉いですよ。今時、進んでお寺の手伝いをしてくれる若い人なんて、なかなかいません」
魔王から給料をもらえることになっているので、無償奉仕ではないのだが、脱税になる以上給料が発生するのは三人だけの秘密にしておいた方がいいということで、真綾はそのことを知らないままだ。
騙しているようで後ろめたくはあるものの、れっきとした違法行為である以上、本当のことを言えば真綾に余計な気苦労をさせてしまいかねない。
ここは黙っておくことにして、志奈乃は曖昧に笑った。
「まあ、今は働いてないし、家でゴロゴロしてるよりはいいしね。私って駄目人間だから、いつまで続くかわかんないけど」
「志奈乃さんは駄目なんかじゃないですよ。礼儀作法もご存知ですし、きちんとした大人の女性です。志奈乃さんが来てくれるって聞いて、父は喜んでたんですよ。今は檀家さんでも葬儀の時くらいしかお寺と関わりを持とうとしない人も多いですけど、お寺は私達寺族だけじゃなくて、檀家さん達と一緒に守っていくものですから。兄はもっとたくさんの人にこの寺に来てもらえるように頑張ってますけど、なかなか上手く行ってませんし……檀家さんにこうやって寺にいらして頂けると、私も嬉しいです」
あまりに買い被られ過ぎていて、志奈乃は背中がむずむずする思いだったが、せっかく喜んでくれているのだから、ここで余計なことを言ってがっかりさせることもないだろう。
こんな檀家で本当にごめん。
志奈乃は心の中で真綾に詫びつつ、千切った大福を頬張った。




