―19―
今日はとてもいい天気で、空にほとんど雲がなかった。
朝晩はまだ少し寒いくらいだが、そろそろ五月になろうかという時分だけあって、日差しは温かく、直に気温も上がってくるだろう。
桜の時期はとうに終わっているし、樹と英知が毎朝きちんと掃除をしているということで、境内は特に掃除する必要を感じない程綺麗だった。
一体どこを掃除するのだろうと志奈乃が思っていると、魔王は「少し待っていろ」と言い置いて、庫裡の中へと消えて行く。
程なくして引き戸を開けて現れた魔王の右手には、水と雑巾の入ったバケツがあった。
雑巾がけをしろということらしいが、この手の庶民的なアイテムが全く似合っていないのは、やはり育ちがずば抜けていいからなのだろう。
きっと掃除の経験がないどころか、ナイフやフォークより重い物を持ったことすらないに違いない。
漫画やアニメの中でしか見たことがない設定を地で行くような人も、いる所にはいるのだなあと志奈乃が感心していると、魔王は言った。
「待たせたな。付いて来い」
志奈乃が言われた通りに魔王の後に付いて行くと、魔王は本堂へと繋がる短い石段を上がった。
太い墨字で『碧玉寺』と書かれた扁額の下にある扉は開いていて、魔王は下駄を脱ぐと、迷いなく本堂の中へと入って行く。
志奈乃もスニーカーを脱ぐと、小走りで魔王の後を追った。
中は高校受験や大学受験の時に祈祷してもらった時と、特に変わってはいないようだ。
観音開きの扉の正面奥には、古びた須弥壇に安置された大日如来の像。
大日如来の背後の壁には大きな二つの曼荼羅があった。
祈祷の時には護摩壇や穀物などを入れた器が並んでいたので、それらがない今は随分さっぱりして見えたが。
魔王はバケツを床に下ろして言った。
「まずはここの床掃除から始めるとしよう」
「了解です」
志奈乃はバケツの水に手を入れると、沈んでいた雑巾を摘み上げ、絞り始めた。
掃除とはあまり楽しい仕事ではないが、人間関係に煩わされずに済むだけ気楽でいい。
志奈乃は二、三度しっかりと絞った雑巾を手に壁際へと移動すると、両手でしっかりと雑巾を押さえて、本堂の端から端まで雑巾がけを始めた。
こんな風に掃除をするのは小学生以来で、少し懐かしい気がすると同時に、自分が年を取ったことを実感する。
昔は少し雑巾がけをしたくらいで息が切れたりはしなかったが、今は簡単に息が切れた上に腕と脚がだるくなった。
おまけに体が熱い。
志奈乃は一旦雑巾がけをやめて床の上に座り込むと、息を整えながら扉の脇に佇む魔王に尋ねる。
「あの、すいませんけど、モップか何かないですか? これ、意外ときついんですけど」
「我慢しろ。仏教では僧侶の修行の一つに掃除が入っているのだから、楽なものではないのも道理だろう」
志奈乃は目をぱちくりさせた。
「掃除なんかが修行になるんですか? 主婦とか毎日やってますけど?」
「我に経験はないが、雑念を忘れて無心で体を動かすことは、心を美しく保つ一助になるようだぞ」
「ああ、そう言われると確かに修行っぽく聞こえますね」
そう納得したところで、志奈乃は再び雑巾がけを始めたものの、二人しかいない本堂の中でお互い黙りこくっているというのは少々気まずい。
雑巾がけをする音だけはずっと響いているので、全くの無音という訳ではないが、できれば魔王に何か話して欲しかった。
先程の話からして、多分無心で掃除をするべきなのだろうが。
志奈乃は軽く息を弾ませながら、適当な話題を魔王に振ってみた。
「……あの、いきなりですけど、コスプレに興味ありません?」
「本当に唐突だな。ちなみに質問の答えとしては、特に『興味はない』のだが」
一口にオタクと言っても、ゲームや漫画、ライトノベルなど様々なジャンルの愛好者がいるので、コスプレに関心がないオタクなどそう珍しくもないが、志奈乃は少し残念に思った。
「何だか勿体無いですね。似合いそうなのに。漫画やアニメのキャラってスタイルが良過ぎて、日本人がコスプレするのは無理があるパターンが多いですけど、その点魔王さんなら全然OKですし」
「何と言われても却下だ。今すぐ黙らなければ、時給をこの県の最低賃金まで引き下げるぞ」
魔王が優しさの欠片もない声でそう脅すと、志奈乃は今度こそ黙って雑巾がけをすることにした。
もう一往復してから雑巾を裏返してみたが、ここも樹達がきちんと掃除をしているようで、ほとんど汚れは付いていない。
これでは魔王はほぼ無意味な労働に賃金を支払うことになってしまう訳だが、魔王の目的は他にあるのだろう。
多分、自分をここに呼び寄せること――修行させることこそが、魔王の目的なのだ。
魔王は碧玉寺の『お悩み解決事業』を手伝っていると言っていたし、仏教の教えで自分を更生させようとしているに違いない。
決して修行がしたくてここにいる訳ではないので、志奈乃は騙されたような気持ちになったが、掃除を投げ出して帰ろうとは思わなかった。
言われた通りのことをしていれば給料はもらえるのだろうし、ここは志津子にとって心の拠り所になっている大切な場所だ。
なかなか無償で掃除をしようという気にはなれないが、せっかくの機会なのだから恩返しと思って頑張ろう。
ここにいれば、当面BL妄想ネタには事欠かないだろうし。
志奈乃は両手でしっかりと雑巾を押さえると、また床を蹴った。
それ程広くない本堂だが、それでも隅から隅まできちんと雑巾がけをするのは、なかなかに重労働だ。
腕も脚も疲れてだるさが増していくが、意外と不快ではなかった。少なくとも仕事に行っていた時の疲れより、ずっと心地いい。
体を動かしている間に、気付けば頭の中が空っぽになっていて、確かにこれは修行になりそうだ。
頭を真っ白にすることにどんな意味があるのか、それはわからないけれども、悪くはないと志奈乃は思った。