―18―
火曜日の朝。
志奈乃は八時二十分に碧玉寺に到着した。
アルバイトは九時始まりという話だったが、初日の今日だけは早めに八時半に来いと樹に言われたので、何とか頑張って早起きをして来たのだ。
庫裡の脇に車を駐めていいと言われていたので、志奈乃はコンパクトカーの隣に乗って来た軽自動車を駐めると、エンジンを切る。
引きこもりをしている間は一度も運転していなかったので、久々の運転は少し心許なかったが、幸い一月そこらでは感覚を忘れることはなかったようで、思ったよりスムーズに運転できた。
よくよく考えてみれば、せっかく高い金を出してもらって免許を取ったのに、運転の仕方を忘れてしまうのはあまりに勿体ないので、志奈乃は樹と魔王に少しだけ感謝する。
あのまま引きこもりを続けていたら、行く末は生活保護かホームレスだったろうから、本当は少しどころかもっと感謝すべきなのだろうが、今はまだそんな気にはなれなかった。
朝起きて夜寝るという規則正しい生活リズムを崩しまくっていた人間にとっては、朝きちんと起きるだけでも一苦労だ。
時給の高さと仕事の簡単さと、極めて個人的な+αの理由に釣られてアルバイトをすることにしてみたが、今日予定通りにここに来るだけで既に精神力を使い果たした感があって、もう帰りたい。
志奈乃が車の中でぐずぐずしていると、木製の厚板と木槌――呼び鈴替わりの犍稚と呼ばれる道具が掛かった庫裡のガラスの引き戸が、がらりと音を立てて開いた。
脇に傘立てが置かれた戸の向こうから、グレーのスーツと茶色のネクタイ、黒い革靴姿の樹が姿を現す。
スキンヘッドとスーツの相乗効果で、極道の人間と言われてもすんなり納得してしまいそうだが、ああいう人達はどういう理由で剃髪しているのだろう。
僧侶が剃髪するのは、釈迦が出家する時に「俗世間の一切の虚飾を捨てる」という決意を示すために剃髪したことに由来するらしいが。
志奈乃がそんなことを考えていると、つかつかと歩み寄って来た樹がドアウィンドーをノックして言った。
「おはよう」
「ん、おはよ」
「ここまで来て無駄な抵抗すんな。あきらめて降りろ」
「わかったよ。降りる。降りるけど、あのこと誰にも言ってないよね?」
志奈乃は樹に探るような目を向けた。
樹を信用している志津子のことを信じているし、樹も人の秘密を軽々しく言い触らすようには見えないが、自分が腐女子ということは絶対の秘密なので、悪いとは思いつつもつい疑ってしまう。
「もしもバラしてたら、ネットで炎上させてやるからね」
「安心しろ。誰にも言ってねえよ」
樹は志奈乃から目を逸らすことなくそう言った。
「人は嘘を吐く時、相手から無意識に目を逸らす」という話を聞いたことがあるが、逆に言うと本当のことを言っている時には相手の目を真っ直ぐに見ていられるということだろう。
それが本当ならいいと思いつつ、志奈乃はキーを引き抜くと、車から降りた。
薄く化粧をしてはいるが、掃除をすると聞いていたので、汚れてもいい紺色のジャージとスニーカー姿、髪も後ろで無雑作に束ねているだけだ。
引きこもっていた時とあまり変わらないせいか、今一つ気持ちがしゃんとしない。
会社員定番の仕事着であるスーツはお世辞にも動き易いとは言えないが、着ると気持ちが引き締まるという点では、やはり仕事着に相応しいのだろうと志奈乃が思っていると、本堂の方から魔王がやって来た。
今日の魔王は着流し姿だ。
男性の着流し姿と言うと、女性と違って地味なイメージだが、魔王が着ている和服は青から青紫へグラデーションしていく地に何頭もの白い蝶が艶やかに舞う華やかなそれで、柄だけ見ると女物にしか見えない。
長く艶やかな黒髪を纏めるのは、白い蝶の飾りが付いた簪。
足元には青紫の鼻緒の下駄という出で立ちで、魔王はなかなか個性的なファッションセンスの持ち主のようだった。
百八十センチを軽く超えているであろう長身に加えて、女性には間違えようのない男性的な顔立ちなので、少なからず違和感を覚えても良さそうなものだが、不思議とよく似合っていて美しい。
かの有名な傾国の美女も余裕で打ち負かしそうな美貌を近くで観賞できて、志奈乃はささやかな幸せを感じたが、しかし同時に魔王とどうこうなることは絶対にないだろうという確信を持った。
お姫様に憧れる子供か、余程の身の程知らずでもなければ、自分と桁違いのスペックの男に選ばれるとは思わないだろう。
たとえ一夜の遊びでも、全く相手にされる気がしなかった。
志奈乃は軽く魔王に頭を下げて挨拶する。
「おはようございます」
「ああ、早いな」
魔王がにこりともせずにそう応じると、樹は家の鍵らしき物を魔王に手渡しながら言った。
「すみませんが、留守番とこの駄目人間の監督、よろしくお願いします。庫裡の中も含めて、この寺にある物は何でも好きに使って頂いて構いませんから。もし『お悩み解決事業』の依頼に来る人がいたら、その時は魔王さんの裁量にお任せしますので。その場で解決するも、こちらに振るも、お好きなようになさって下さい。できればこちらに振ってもらえると有り難いですが」
「わかった」
二人のやり取りを聞きながら、志奈乃は少し腑に落ちないものを感じた。
赤の他人に家の鍵を預けて丸一日出掛けるというのは、かなり信頼度が高くないとできないと思うが、その割に樹と魔王の会話に気安さは全くない。
一体どういうきっかけで知り合って、どういう関係なのだろう。
年は同じくらいに見えるが、人種どころか育ちも性格もまるで違いそうであるし、そもそも接点が全くなさそうなのに。
所謂BL――ボーイズラブな関係だと腐女子としては非常に美味しいが、魔王には妻がいると言っていたし、その可能性はなさそうだった。
しかし、ここは敢えて魔王が世間体のために偽装結婚して、妻に隠れて本命の彼氏――勿論樹だ――と禁断の愛を育んでいるという設定にしてしまおう。
相手役が坊主頭なのは個人的にあまり頂けないが、ストイックな受けと傲慢な美形攻めの組み合わせは嫌いではなかった。
腐女子にとっては、BL妄想こそ至高にしてご馳走――この妄想さえあればこの先週三日、きちんとこの寺に来られるに違いない。
と言うか、ここにいる理由の半分くらいは間近でこの二人を見ていたいからだったりするので、樹が仕事に行ってしまうのは非常に残念だったりするのだが、しかしこればかりは仕方がなかった。
上がっていた志奈乃のテンションが少し下がったところで、樹が再び魔王に言う。
「申し訳ありませんが、そろそろ時間なので、これで失礼します。こんな自堕落な人間の世話を押し付けるのは正直心苦しいですが、是非ともこいつの腐った性根を叩き直してやって下さい」
ちっ、余計なことを……。
志奈乃は心の中で舌打ちすると、魔王に言った。
「社会復帰への第一歩なんで、あくまでソフトにお願いします。ソフトに。そうでないと、引きこもりに逆戻りするかも知れないんで」
「てめえ、何甘ったれたこと言ってんだ! 大体なあ……」
樹はまだ何か言おうとしていたようだが、引き戸を開けて出て来た英知に声を掛けられて、言葉を途切れさせた。
檀家とはいえ、志奈乃がこれまでに英知と顔を合わせたのは数える程で、人となりはよく知らなかったが、志津子が言うには「見た目よりずっといい人」らしい。
だがスーツにネクタイ姿の英知は、どう見ても堅気の人間には見えなかった。
しかも樹よりずっと顔が怖い。
志奈乃が思わず後退ると同時に、英知が樹に言った。
「そろそろ出ないと、遅れるぞ」
「そうだった。それでは、行って来ますので」
樹は魔王に礼儀正しく一礼すると、志奈乃を一睨みしてからいそいそと車に向かった。
英知も同じように車に向かうと思いきや、予想に反して志奈乃の前で足を止めて言う。
「おはようございます」
今まで英知と一対一で話したことはなかったが、見た目より随分礼儀正しくて、腰の低い人のようだった。
親子程も年が違う相手なら「おはよう」でいいだろうに。
志奈乃は自分を見る英知の目に見下すような、嘲るような色が混じっていないことを注意深く確かめて、少なくとも樹が英知には秘密を話していないらしいことを知った。
「おはようございます。今日からお世話になります」
「息子から話は聞いていますよ。こちらこそ、これからよろしくお願いします。それでは……」
志奈乃と魔王に軽く会釈した英知が今度こそ車に乗り込むと、樹はすぐさま車を発進させる。
遠ざかっていく車を見送りながら、志奈乃はやはり人を外見で判断してはいけないのだなあと思った。