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碧玉寺へようこそ!  作者: 佳景(かけい)
第二章 引きこもり
16/37

―16―

 とりあえず話がまとまったところで、樹は志奈乃に志津子を呼んできてもらった。


 志津子が志奈乃の隣の座布団に腰を落ち着けたところで、今後のことについてざっと説明する。


 志津子は小さく頷きながら黙って樹の話を聞いていたが、樹が話し終えると、目尻に溜まった涙を拭いながら言った。


「まあまあ、あの志奈乃が週に三日もお寺に行く気になってくれたのね。やっぱり碧玉寺さんに相談して良かったわ」

「いえ、大したことはしていませんから」


 謙遜ではなく、本当に大したことをしていないので、ここまで感謝されてしまうと、樹としては身の置き所に困ってしまう。


 魔王の機転と財力のおかげで、ひとまず一件落着となったが、もし魔王が同行してくれていなかったら、お手上げ状態に違いなかった。


「再就職を決意してもらうことはできませんでしたが、家から出る気にはなってくれたようなので、ひとまずこれで解決ということでよろしいでしょうか?」

「ええ、勿論よ。ありがとうね。ちょっと待ってて頂戴」


 志津子はそう言って立ち上がると、いそいそと襖の向こうへ姿を消した。


 志津子の足音が遠ざかるのを待って、樹は小さく溜め息を吐く。


「どうした? これで万事丸く収まっただろう」


 魔王の問いかけに、樹は随分温くなってしまった茶が入った湯呑みを傾けながら答える。


「おっしゃる通りなのですが、自分の無力さを痛感してしまいまして……私はここに一体何をしに来たのでしょう……魔王さんが一人いれば十分ですよね……」

「えーっと……」


 フォローの言葉が上手く出て来なかったらしい志奈乃が視線を宙に彷徨わせると、魔王が言った。


「其方がいなければ、そもそも我がここに来ることはなかったのだから、そう己を卑下することもないだろう」

「フォローありがとうございます……」


 魔王には意外と優しい一面もあるようだが、慰められると余計に惨めになる。


 樹が更に落ち込んで湯呑みを茶托に戻すと、襖の向こうから再び足音が近付いてきて、襖の前でぴたりと止まった。


「開けるわね」


 志津子はそう声を掛けると、静かに少しだけ襖を開けてから、手を滑らせて更に半分程襖を開け、手を替えて残りを開けた。


 そうして黒い蓋付きの盆を両手で大事そうに持って、居間の中に入ってくる。


「待たせちゃってごめんなさい」


 志津子はそう言いながら樹の傍らに正座すると、盆をそっと畳に置いた。


 切手盆と呼ばれる、主に仏事で使われる盆だ。


 志津子が蓋を開けると、その中には表書きに「お布施 雅楽志津子」と書かれた白い封筒があった。


 志津子は自分が封筒の文字を読める位置に切手盆を置くと、右上と左下を持って時計回りに九十度回し、上下を持ち替えてから更に九十度回して、樹が読める位置にお布施の入った封筒がくるようにする。


 そうして、切手盆に入ったお布施を樹に向かって差し出すと、丁寧にお辞儀をしてから、改まった口調で言った。


「本日はありがとうございました。些少ですが、どうぞお納め下さいませ」

「いえ、お気持ちだけで十分ですよ。本当にただお話をさせて頂いただけですから」

「そう言わずに、どうぞもらっておいて」


 いつもの口調に戻った志津子が続ける。


「碧玉寺さんが来てくれて、私は本当に有り難かったの。お布施というのは感謝の心から、見返りを求めずに、自発的にするものでしょう? 私があげたいからあげるの。大した額じゃないから、本当に気持ちなのだけど、どうぞ受け取って」


 結果的に上手く行っただけ、しかも自分はほとんど何も貢献していないというこの状況でお布施を受け取るというのは、樹としてはかなり抵抗があったが、しかしここで頑なに固辞しては志津子の善意をないがしろにすることになってしまう。


「わかりました。有り難く頂戴します」


 樹は良心が痛むのを感じながら、両の手の平を合わせて左手の指先を前に出し、指の先端が左右交互になるように合掌した。金剛合掌と呼ばれる合掌だ。


 密教では右手で仏を、左手で人間を表し、その二つを堅固に重ねることで仏と己が一体であることを示すという意味合いがある。

 

 今はまだ無理だが、いつか仏に恥じない僧侶になろう。


 樹は決意を胸に、志津子が差し出した封筒を恭しく受け取った。






 雅楽家からの帰り、樹は見送りに出て来てくれた志津子とついでに志奈乃に会釈をしつつ、ゆっくりとアクセルを踏み込んで、細い一般道に出た。


 樹は来た道をそのまま戻りながら、助手席の魔王に言う。


「今日はどうもありがとうございました。おかげで助かりました」

「別に大したことはしていないぞ。単に襖を蹴り開けて、財力に物を言わせただけのことだ」


 魔王は尊大な態度の割に意外と謙虚らしく、そう言った。


 魔王が言うところの大したことでもないことが、どちらもできなかった身としては、魔王の言葉が心にグサグサと突き刺さってくるが。

 

 いよいよ心が折れそうになってきたものの、樹は何とか気を取り直して言った。


「突然週に何日も来て頂くことになってしまって、申し訳ありません。本当なら私が監督するべきところですが、平日は仕事がありますので……土曜日なら仕事が休みですから、週二日来て頂ければ大丈夫ですし、何とかよろしくお願いします」

「気にするな。先程も言ったが、時間の融通は利くのだ。週に三日こちらに来たところで、特に支障はない」


 魔王が本当に引きこもりなら、確かに時間はいくらでもあるだろうが、果たして事実なのだろうかと樹は思わずにはいられなかった。


 もしかしたら、魔王は志奈乃の警戒を解くために、敢えて嘘を吐いたのかも知れない。


 樹は少し大きめの道路の前で車を止めると、左右の安全確認をしつつ、控えめに魔王に尋ねた。


「その、失礼ですが、引きこもりというのは本当なのでしょうか?」

「こんな下らない嘘偽りを口にして、我に何の利がある?」


 逆に問い返されて、樹は返事に困った。


 志奈乃がいないこの場で、引きこもりだと自称するメリットは特にないので、多分魔王は本当に引きこもりなのだろう。


 引きこもりと言うとコミュニケーションを苦手にしているイメージだが、魔王はとてもそんな風には見えない、と言うより相手のことなど何とも思っていない気がするので、かなり意外だった。


 引きこもりの割によく招来に応じてくれたものだと思うが、「仕事に行くのは億劫でも、コンビニに行くのは平気」といった感覚に近いのかも知れない。


 こちらには魔王のことをよく知る者はいないし。

 

 樹は車の流れが途切れた隙を狙って車線が引かれた道路に入ると、再び問いかけた。


「そう言えば、オタクではないかという話になっていましたが、そちらも事実ですか?」

「いや、それは誤解だ」

「その割に、よく『腐女子』なんて言葉をご存知でしたね。今日初めて知りましたけど、オタク用語な訳でしょう?」

「人の世の移り変わりは激しいのでな、其方に招来されてこの世界に現出した時に、あらゆる情報を一通り得ておいたのだ。その情報の中には、当然ながら各国の文化も含まれる」


 つまり、全世界の情報を得たら、その中に日本のオタク文化に関する情報も含まれていたということらしかった。


 それが本当なら、確かにオタクではないのだろう。


 だが、魔王はどうやって全世界の情報を手に入れたのか。


 いや、そもそもそんなことが可能なのだろうか。


 魔王の口ぶりからすると、招来されて帰った後ではなく、招来されたあの時に情報を得たようであるし。

 

 樹は視線を正面に据えたまま、三度魔王に問いを投げ掛けた。


「そんな膨大な情報を、あの短時間で手に入れることが可能なのですか?」

「行きの車の中でも話したが、我は肉体を持たないために、知覚範囲を自由に操ることができるのだ。この世界の全ての事象を、一瞬で把握するくらいのことは造作もない」


 スケールがあまりに大き過ぎて、樹には今一つピンと来なかったが、魔王の話が本当ならとんでもなく凄い真似をしてのけたということは理解できた。


 あくまで本当の話なら、だが。

 

 ふと魔王を試してみたくなって、樹は軽い気持ちで訊いてみた。


「世界の全てをご存じということは、私のクレジットカードの暗証番号もおわかりになりますか?」

「〇八二九だろう」


 魔王は考える素振りすら見せずに、あっさりとそう答えた。樹が僧侶になることを決めた日の日付で、知っているのはカードの発行手続きをした人間くらいなものだろうに。


 魔王は創造主でこそないようだが、全知全能か、もしくはそれに近い存在のようだった。そういうものが目の前にいることを恐ろしく思う一方で、樹は有り難いような嬉しいような、何とも複雑な気持ちになる。


 想像していたものとは随分違ったが、仏と呼ぶに相応しい存在が確かにいて、思惑はどうあれ、今こうして自分の手伝いをしてくれている――それは、とても心強いことだった。


「恐れ入りました」


 もう、そうとしか言いようがない。






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