第1章 敏夫(VOL.8)
里美は、いつも敏夫を支えてくれていた。バブルが弾けたときもそうだったし、転職活動中も、転職してからも、ずっとだ。
今から思えば、里美が早期退職を強く勧めたのは、家を手放したくなかったからではない。里美はいつも言っていた。「あなたと一緒なら、別にどこに住んでもいいわよ」と。
家を手放したくなかったのは、自分だったのだ。
里美は、自分でも気づいていなかった心の内を見抜いていたに違いない。だから、早期退職を勧めたのだ。
あの時の俺は、疲れ切っていた。
いつ会社が潰れるか?
いつリストラにあうか?
そんなことばかり考えて、毎日会社へ通っていた。
そんな俺の気持ちまで、見抜いていたに違いない。
「あなたなら、きっと、どこに行っても大丈夫よ」
早期退職を勧めたとき、里美はそう言った。
きっと、疲れ切った自分を見ていられなかったのだろう。新天地を求めれば、変わってくれると信じていたに違いない。
あの時の俺は、人の苦労も知らずになんて勝手なことを言いやがるんだと思っていた。家と旦那とどっちが大事なんだと。
敏夫は、今、はっきりと悟った。間違っていたのは、自分なのだと。
俺は、里美の信頼を裏切った。
激しい後悔が、敏夫を襲う。
里美が自分を無視するのも無理はない。
俺は、それだけの仕打ちをしてきた。
悔やんでも、悔やみ切れない。
なんて馬鹿な奴なんだ。
自分を呪った。
「奥さまですね」
綾乃が、優しい眼を向けてくる。
「うん」
敏夫が呻くように返事をする。
「大丈夫です。今からでも、遅くありませんわ」
「本当にそうだろうか? 里美は、飯こそ作ってくれるものの、俺とはいっさい口を利いてきれないんだ」
情けない声で答えながら、両手で顔をこすった。
「でも、まだ一緒に住んでいらっしゃるんでしょう?」
「寝室は別だがね」
自嘲するように答えた。
「望みを捨ててはいけません。ご飯を作ってくださるというのは、まだ杉田さまに愛情を持っていらっしゃる証拠です」
「そう、かもしれない」
不思議なもので、綾乃が言うと、敏夫もなんだかその気になってきた。
「そうですよ。時間は掛かるかもしれませんが、杉田さまが努力をなされば、きっとお二人の関係は修復できます」
「そうだな。うん、そうだ」
綾乃に励まされて、敏夫はなんだか自信が湧いてきた。
「これで、今日は終わりです。どうぞ、お着替えになってください」
綾乃が退出し、カーテンを閉めた。
敏夫が着替えて出てきたとき、「お疲れ様でした」綾乃が軽く頭を下げて、カードを差し出した。
「これは?」
「杉田さまのポイントカードです」
敏夫が、差し出されたカードを受け取る。
そのカードは、名刺くらいの大きさで、少し厚みがある。薄茶色の生地に大きな枠が四つあり、左の枠に『感』という文字が、綺麗な字で書かれてあった。それ以外にはなにも書かれていない。
裏返すと、大きな字で一文字『心』とだけ書かれていた。
「これは?」
敏夫が怪訝そうな顔をして、もう一度尋ねた。
「ポイントカードです」
綾乃の答えも一緒だ。
「それはさっき聞いたけど、なんで、四つなの? それに漢字だし」
「杉田さまの場合、それで大丈夫だからです」
綾乃はそれしか答えない。漢字のことについては、一切なにも言わなかった。
自分をからかっているのではないことは、綾乃の眼を見ればわかる。微笑んではいるが、綾乃の眼はしっかりと敏夫を見据えている。
「このポイントが、全部溜まったらどうなるんだい?」
「それは、そのときにおわかりになります」
相変わらず、綾乃の答えは謎めいている。
「そうか」
腹も立てることもなく、敏夫は素直に頷いた。