表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/72

第1章 敏夫(VOL.7)

 どれほどの時が経ったのだろう。

「杉田さま、いろいろとお悩みがおありのようですね」

 敏夫の耳許で、綾乃が優しく囁きかけた。

「そうなんだ」

 この頃には、敏夫の恐れなどは消し飛んでして、素直に返事をした。

「よろしければ、お話しになりませんか?」

「なにを?」とも聞かず、敏夫は堰を切ったように話し出した。

 家のローンのこと、そのために早期退職に乗ったこと、転職活動の苦しさ、今の会社のこと、そして家庭の不和。

 敏夫の話は止まることを知らず、敏夫が抱いている不満と不安を、ここぞとばかりにぶちまけた。

 綾乃はマッサージの手を休めずに敏夫の話を聞き、ところどころ絶妙な相槌を打ちながら、敏夫の溜まっていた鬱憤を巧みに引き出していった。

「杉田さまは、まず、なにから改善なされたいのですか?」

 敏夫がすべて吐き終えたとき、綾乃がそう問いかける。

 改善? 

 俺はここ最近、不満だらけだった。生きているのが辛いと思う日々だった。しかし、なにかを改善したいと思ったことはあるだろうか?

 敏夫は自分に問いかけた。

 いや、ない。

 そのことに気付いたとき、敏夫は愕然とした。

 俺は、いったいなにをやっていたのだろう?

 不満を抱えたまま、ただ毎日を、だらだらと過ごしていただけじゃないか。

 敏夫は、後悔と、これからどうしてよいかわからないもどかしさから、身体が震えだした。

 俺は、なにがしたいのか?

 バブル崩壊後、初めて敏夫は、自分の気持ちと向き合った。

 敏夫の心は混乱していた。

「大丈夫ですよ。今からでも遅くはありません」

 敏夫の心のうちを読み取ったかのように、綾乃が優しく敏夫の身体をさすりながら、あやすような声で囁く。

 綾乃にそうされて、不思議と敏夫の気持ちは落ち着いていった。今、敏夫は、母親の胎内にいるように、安らかな気持ちになっている。

 気が付くと、自分が涙を流していることを知った。悲しくて泣いているのではない。心は安らかなのだが、なぜか涙が溢れ出てくるのだ。

「大丈夫」

 もう一度言って、綾乃は慈しむように、敏夫の頭を両手で優しく包み込んだ。

 敏夫が起き上がり、綾乃の胸に頭を預け、子供のように泣きじゃくった。

 大の大人がみっともないと、心の奥底では思っていたが、敏夫の嗚咽は止まらなかった。そんな敏夫の頭を、相変わらず母親の愛情を注いで、綾乃が優しく撫でている。

 こんなに安らいだ気持ちになったのは、いつ以来だろう。

 頭を撫でられながら、敏夫は遠い昔を思い出していた。

 暫くして泣き止んだ敏夫の気持ちは、すっきりとしていた。まるで、空を厚く覆っていた雲から、晴れ間が射し込んだように。

「杉田さまの一番大切なものはなんでしょう」

 敏夫が落ち着いたところで、再び、綾乃が問いかける。

「俺の一番大切なもの?」

 敏夫が考えこむ。そのとき、敏夫の脳裏に、里美の顔が浮かんだ。

 そうだ、俺の一番大切なもの。それは、里美じゃないか。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ