第1章 敏夫(VOL.7)
どれほどの時が経ったのだろう。
「杉田さま、いろいろとお悩みがおありのようですね」
敏夫の耳許で、綾乃が優しく囁きかけた。
「そうなんだ」
この頃には、敏夫の恐れなどは消し飛んでして、素直に返事をした。
「よろしければ、お話しになりませんか?」
「なにを?」とも聞かず、敏夫は堰を切ったように話し出した。
家のローンのこと、そのために早期退職に乗ったこと、転職活動の苦しさ、今の会社のこと、そして家庭の不和。
敏夫の話は止まることを知らず、敏夫が抱いている不満と不安を、ここぞとばかりにぶちまけた。
綾乃はマッサージの手を休めずに敏夫の話を聞き、ところどころ絶妙な相槌を打ちながら、敏夫の溜まっていた鬱憤を巧みに引き出していった。
「杉田さまは、まず、なにから改善なされたいのですか?」
敏夫がすべて吐き終えたとき、綾乃がそう問いかける。
改善?
俺はここ最近、不満だらけだった。生きているのが辛いと思う日々だった。しかし、なにかを改善したいと思ったことはあるだろうか?
敏夫は自分に問いかけた。
いや、ない。
そのことに気付いたとき、敏夫は愕然とした。
俺は、いったいなにをやっていたのだろう?
不満を抱えたまま、ただ毎日を、だらだらと過ごしていただけじゃないか。
敏夫は、後悔と、これからどうしてよいかわからないもどかしさから、身体が震えだした。
俺は、なにがしたいのか?
バブル崩壊後、初めて敏夫は、自分の気持ちと向き合った。
敏夫の心は混乱していた。
「大丈夫ですよ。今からでも遅くはありません」
敏夫の心のうちを読み取ったかのように、綾乃が優しく敏夫の身体をさすりながら、あやすような声で囁く。
綾乃にそうされて、不思議と敏夫の気持ちは落ち着いていった。今、敏夫は、母親の胎内にいるように、安らかな気持ちになっている。
気が付くと、自分が涙を流していることを知った。悲しくて泣いているのではない。心は安らかなのだが、なぜか涙が溢れ出てくるのだ。
「大丈夫」
もう一度言って、綾乃は慈しむように、敏夫の頭を両手で優しく包み込んだ。
敏夫が起き上がり、綾乃の胸に頭を預け、子供のように泣きじゃくった。
大の大人がみっともないと、心の奥底では思っていたが、敏夫の嗚咽は止まらなかった。そんな敏夫の頭を、相変わらず母親の愛情を注いで、綾乃が優しく撫でている。
こんなに安らいだ気持ちになったのは、いつ以来だろう。
頭を撫でられながら、敏夫は遠い昔を思い出していた。
暫くして泣き止んだ敏夫の気持ちは、すっきりとしていた。まるで、空を厚く覆っていた雲から、晴れ間が射し込んだように。
「杉田さまの一番大切なものはなんでしょう」
敏夫が落ち着いたところで、再び、綾乃が問いかける。
「俺の一番大切なもの?」
敏夫が考えこむ。そのとき、敏夫の脳裏に、里美の顔が浮かんだ。
そうだ、俺の一番大切なもの。それは、里美じゃないか。