表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/72

第1章 敏夫(VOL.6)

「だいたい、ここはなんなんだ。マッサージ店だとは思うが、メニュー表もなにもないじゃないか。俺は マッサージを受けるような、余分な金は持っていないぞ」

 言っているうちに、薄気味悪さが影を潜めて、代わりに怒りが湧きあがってきた。    

 つい、俊夫の声が荒くなる。

「施術代のことなら、ご心配なさらずに。当店は、施術代は頂かないことになっておりますので」

 女は、敏夫の怒りなど意にも介さず、相変わらず慈愛に満ちた笑顔で答えた。

「あなたは、心がとてもお疲れでいらっしゃいます。ですから、この店の看板が目に入ったのですわ」

 そう言って、じっと敏夫の眼を見つめてくる。

 この女は、何者なんだ?

 敏夫の怒りは急速にしぼんで、再び薄気味悪さが胸を覆う。敏夫の眼には怯えが浮かび、緊張で身体が硬くなった。

「そんなに、警戒なさらなくても結構ですよ。なにも取って食おうというわけじゃありませんから」

 女が、ころころと鈴が鳴るように笑う。

「とにかく、一度、施術をお受けになってください」

 微笑みながら、再びトレーナーを差し出してくる。

「あなたの心は、悲鳴を上げています。このままでは、手遅れになりますよ」

 女の眼は、敏夫を見つめたままだ。

 お前に、なにがわかる。そう叫ぶ代わりに、敏夫は素直にトレーナーを受け取っていた。

 女に見つめられているうちに、敏夫の胸が、なにか暖かいもので満たされてきた。

 タダならいいか。どうせ家に帰ったって、苦しい時間が待っているだけだものな。ここは騙されたと思って、この女の言うことを聞いてみよう。

 不思議なことに、得体の知れない女を信用する気になっていた。

 着替え終えた敏夫は、言われるままに、マッサージ台にうつぶせになった。

綾乃あやのと申します。よろしくお願いします。杉田さま」

 名乗ってもいないのに自分の名前を言われて、敏夫は驚いて上半身を起こしかけた。

「細かいことは、お気になさらずに」

 綾乃と名乗った女は、やんわりと敏夫の肩を抑えつけ、台の上に寝かせつけた。

「いや、細かくはないだろ。君は、どうして俺の名を?」

 敏夫の声は、驚きのあまり震えている。

「ふふ」

 綾乃は軽く笑っただけで、なにも答えない。

「では、施術を始めさせていただきます」

 そう言って、綾乃は何事もなかったように、敏夫の肩を揉み始めた。

「ちょっと待って」

 敏夫がそう言おうと口を開きかけたが、肩をなぞる綾乃の指先が絶妙で、声にはならず、軽い呻きを漏らしただけだ。

「そう、そのまま無心でなにも考えずに、わたくしに身を委ねてください」

 綾乃が敏夫の耳に口を寄せて、優しく囁くように語りかけると、肩から背中へ、そしてまた肩へと、撫でるように、しかしながら力強く、敏夫の身体を揉みほぐしていった。

 この店のこと、綾乃が自分の名前を知っていたこと、仕事のこと、そして、妻の里美との不仲や、子供との確執など。

 綾乃のマッサージを受けるうちに、敏夫は、すべてがどうでもよくなっていった。

 綾乃の言うとおり、敏夫はなにも考えずに、綾乃の指先にすべてを委ねていた。マッサージ台に押しつけている敏夫の顔は、まるで桃源郷にいるようにうっとりとしている。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ