第1章 敏夫(VOL.6)
「だいたい、ここはなんなんだ。マッサージ店だとは思うが、メニュー表もなにもないじゃないか。俺は マッサージを受けるような、余分な金は持っていないぞ」
言っているうちに、薄気味悪さが影を潜めて、代わりに怒りが湧きあがってきた。
つい、俊夫の声が荒くなる。
「施術代のことなら、ご心配なさらずに。当店は、施術代は頂かないことになっておりますので」
女は、敏夫の怒りなど意にも介さず、相変わらず慈愛に満ちた笑顔で答えた。
「あなたは、心がとてもお疲れでいらっしゃいます。ですから、この店の看板が目に入ったのですわ」
そう言って、じっと敏夫の眼を見つめてくる。
この女は、何者なんだ?
敏夫の怒りは急速にしぼんで、再び薄気味悪さが胸を覆う。敏夫の眼には怯えが浮かび、緊張で身体が硬くなった。
「そんなに、警戒なさらなくても結構ですよ。なにも取って食おうというわけじゃありませんから」
女が、ころころと鈴が鳴るように笑う。
「とにかく、一度、施術をお受けになってください」
微笑みながら、再びトレーナーを差し出してくる。
「あなたの心は、悲鳴を上げています。このままでは、手遅れになりますよ」
女の眼は、敏夫を見つめたままだ。
お前に、なにがわかる。そう叫ぶ代わりに、敏夫は素直にトレーナーを受け取っていた。
女に見つめられているうちに、敏夫の胸が、なにか暖かいもので満たされてきた。
タダならいいか。どうせ家に帰ったって、苦しい時間が待っているだけだものな。ここは騙されたと思って、この女の言うことを聞いてみよう。
不思議なことに、得体の知れない女を信用する気になっていた。
着替え終えた敏夫は、言われるままに、マッサージ台にうつぶせになった。
「綾乃と申します。よろしくお願いします。杉田さま」
名乗ってもいないのに自分の名前を言われて、敏夫は驚いて上半身を起こしかけた。
「細かいことは、お気になさらずに」
綾乃と名乗った女は、やんわりと敏夫の肩を抑えつけ、台の上に寝かせつけた。
「いや、細かくはないだろ。君は、どうして俺の名を?」
敏夫の声は、驚きのあまり震えている。
「ふふ」
綾乃は軽く笑っただけで、なにも答えない。
「では、施術を始めさせていただきます」
そう言って、綾乃は何事もなかったように、敏夫の肩を揉み始めた。
「ちょっと待って」
敏夫がそう言おうと口を開きかけたが、肩をなぞる綾乃の指先が絶妙で、声にはならず、軽い呻きを漏らしただけだ。
「そう、そのまま無心でなにも考えずに、わたくしに身を委ねてください」
綾乃が敏夫の耳に口を寄せて、優しく囁くように語りかけると、肩から背中へ、そしてまた肩へと、撫でるように、しかしながら力強く、敏夫の身体を揉みほぐしていった。
この店のこと、綾乃が自分の名前を知っていたこと、仕事のこと、そして、妻の里美との不仲や、子供との確執など。
綾乃のマッサージを受けるうちに、敏夫は、すべてがどうでもよくなっていった。
綾乃の言うとおり、敏夫はなにも考えずに、綾乃の指先にすべてを委ねていた。マッサージ台に押しつけている敏夫の顔は、まるで桃源郷にいるようにうっとりとしている。