第1章 敏夫(VOL.5)
はて? こんな店あったっけ。
毎日通っているのに、こんな看板を見るのは初めてだ。
立ち止まって店構えを見ると、木製の扉に真鍮の丸い取っ手がついている、今時珍しい、昭和の時代のような入口があった。
いったい、なんの店だろう?
そう思って看板をもう一度見ると、下のほうに小さな文字で『あなたの心ほぐします』と書かれていた。看板には、営業内容などは一切書かれていない。
不思議に思いながらも敏夫は看板から眼を逸らし、そのまま行き過ぎようとした。が、なぜか足が動かない。
もう一度、看板を見た。そして、なにかに吸い寄せられるように、入口へと足を向けた。丸い取っ手に手を掛ける。
こんないかがわしい店へ入ろうなんて、俺はどうかしているぞ。
心ではそう思っているのだが、取っ手から手を離すことができなかった。
『あなたの心ほぐします』
この文言に、敏夫の気持ちが惹きつけられていた。
やめておけ。
敏夫の理性が必死で訴えている。
しかし敏夫の手は、意志に反してドアを開けていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
敏夫が顔を覗かせた瞬間、落ち着いた声が聞こえた。
背筋を伸ばして両手を前に組んだ姿勢で、敏夫に笑顔を向けているのは、四十前後と思しき中年の女性だった。
看護婦のような白衣に白のズボン、黒い前掛けのようなものを着けている。少しきつめの顔立ちだが、柔らかい眼のせいか、なんとなく優しそうな感じがした。
なんだ、この女は? まるで、俺が来るのを見越していたかのようだ。
この店の挨拶かもしれないが、敏夫にはそうは思えなかった。
敏夫に向けられた笑顔は、初めての客に対するそれではなく、常連客に浮かべる、親しみのこもった笑顔だ。
「ど、どうも」
敏夫は戸惑い、どもりながら、女に会釈をした。
「こちらへどうぞ」
女は敏夫の前にスリッパを置くと、カーテンに閉ざされた部屋へ右手を向け、落ち着いた口調で俊夫を促した。
敏夫は、改めて中を見回した。
それほど広くない。横に細長い造りになっており、入口の扉と同じように、床も壁も、すべて木の板でできている。
敏夫の右手に、カウンターらしきものがある。どうやら、受付のようだ。しかし、カウンターの上には、レジもなければ、メニュー表の類なども一切置かれていない。ただ、年季を感じさせる、光沢のある木板が存在感を見せつけているだけである。
左手には、古臭い木製の椅子が一脚置いているだけだ。そして、女が差した方向は、カーテンで仕切られた部屋がひとつあるきりだ。
見渡す限り、この店がなにをやっているのか感じさせるものはなかった。
この女性の恰好を見ると、マッサージ屋のようだが。
靴を脱ぐのを躊躇いながら、敏夫はもう一度女を見た。
「さあ、どうぞ」
女が、再度笑顔で促す。
「あ、ああ」
引き返すなら今だ。そう思ったが、またもや心に反して、敏夫はスリッパに履き替えていた。
履き替え終えると、女はにっこりと微笑んで敏夫に背を向け、カーテンの方へと歩いていった。敏夫が 夢遊病者のように、その後をついてゆく。
女がカーテンを開けると、そこにはマッサージ台が置かれている。
やはり、マッサージ屋か。
どうやら、いかがわしい店ではなさそうだ。敏夫が安堵する。
「これに、お着替えになってください」
女が、薄手のトレーナーの上下を差し出してくる。
「ちょっと、待ってくれよ。俺は、どこも疲れちゃいない。マッサージなんて必要ないんだ」
敏夫が慌てて、両手を突き出した。
「そもそも、店に入ったのは」
「いいえ、あなたはお疲れでいらっしゃいます」
敏夫が最後まで言い終えぬうちに、女が笑顔で遮った。その笑顔は慈愛に満ちていた。
「人のことを、勝手に決めつけるなよ」
そう言ったものの、敏夫の声は弱々しかった。
薄気味悪さが胸を覆っていたのだ。